Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

3人が、あの3人にしか見えない~英勉監督『映像研には手を出すな』

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実は、今に至っても『映像研に手を出すな』は原作漫画を読んでいない。今年に入ってアニメを見て、ドラマを見て、今回の映画に至る。

そもそも、アニメがその映像も含めて楽しんだだけでなく、大好きな伊藤沙莉の声優挑戦も素晴らしく、「浅草氏はもうこの声しかありえない」と惚れ込んでいたので、「実写ドラマー、えー…しかも乃木坂ねー」…と舐めていた。


ところが、ドラマ初回を見て、予想外に出来が良いことに驚く。映像研の一番の魅力は、現実と空想が地続きで展開する画面にあり、そこはアニメでないと表現できないと思っていたが、十分魅力的な絵になっている。


だけでなく、3人が3人にしか見えない。特に浅草氏と金森氏。

浅草氏は、乃木坂の齋藤飛鳥が演じていると意識すると、独特の口調のわざとらしさが気になるが、見ていると、そんなことを思う暇がない。ビジュアル含めて、あの「浅草氏」にしか見えない。

金森氏は、背の高さと怖さが、やはりアニメのまま。(繰り返すが漫画を読んでいない)ブレザーのポケットに両手を突っ込む個性的なポーズは、原作をどの程度忠実になぞっているのか知らないが、全く乃木坂の人には見えず、ドラマでの金森氏のトレードマークとなった。(ソワンデとかもやっているけど)

残りの水崎氏も、映画まで付き合うと、やはり慣れてきて、「水崎氏」にしか見えなくなる。とにかく、この作品は3人のキャスティングありきだったように思う。


さて、映画(ドラマも)の監督は英勉*1
2月に観に行った『前田建設ファンタジー営業部』も英勉監督だったので、今年2度目だ。
で、よくよく見ると、この人は『賭ケグルイ』の監督もしているという。漫画原作であることも、ドラマ→映画の流れも同じ。内容も、女子が仕切る極悪生徒会が一致しており、出演俳優で一致する人は少ないかもしれない(少なくとも浜辺美波が共通)が、豪華メンバーの競演という意味では同じ。
ゴチャゴチャした大人数エンタメ映画でもとっ散らからず、「上手くまとまった」感じは素晴らしい(この前に観た映画が『TENET』だからなおさらそう思うのかもしれない)と思ったが、おそらく英勉監督がそういうのが得意なのだろう。

映画 賭ケグルイ

映画 賭ケグルイ

  • 発売日: 2019/10/16
  • メディア: Prime Video


キャストで言うと、3人は別格として、良かったのは、何といってもソワンデ。
生徒会にいながら映像研を助ける役回りで、本作で一番美味しい役を、金森氏に匹敵する迫力で演じた。
演じるグレイス・エマさんはにガーナ人と日本人を両親に持つ「14歳」だというが、14歳はちょっと驚きだ。

次は、百目鬼。アニメでも百目鬼は最初は男か女かよくわからないキャラクターだったが、この映画でも絶妙に男子っぽい女子で原作通りのキャスティングだと思う。(原作を読んでないのだが…)
ロボ研は、仮面ライダービルドの赤埜衛二が出ていて嬉しかったが、フロントの板垣瑞生の泣き演技も良かった。(この人は、映画『響 -HIBIKI-』に出ている人なんですね)

なお、ロケ地として地下神殿が遺憾なくその潜在力を発揮していて良かった。  


ということで、肝心の内容については特に触れなかったが、特に驚きはないものの、しっかり満足させてくれる内容で良かった。『賭ケグルイ』とは、学校内での争い、特殊ルールを司る生徒会を仕切るのが女性など多くの部分が共通する。と思ったが、これの男バージョンが『帝一の國』かもしれない。恋愛要素が希薄な「特殊設定学園もの」は結構好きなジャンルだ。

なお、映像研は乃木坂メンバーはメイン3人だったが、8人出演の『あさひなぐ』も英勉監督だという。実は『賭ケグルイ』も松村沙友理乃木坂46賭ケグルイでは陰でファンを罵倒するアイドルを演じる)が良かったので、ちょっと一気にアイドル映画を色々見てみたいなと思っているところです。
そして、映像研は、ちゃんと原作漫画を読まないと…

あさひなぐ

あさひなぐ

  • 発売日: 2018/05/16
  • メディア: Prime Video
響 -HIBIKI-

響 -HIBIKI-

  • 発売日: 2019/03/06
  • メディア: Prime Video

*1:恥ずかしながら、今回初めて「はなぶさ・つとむ」であることを知る。

自信と嫉妬と~山崎ナオコーラ『ブスの自信の持ち方』×花房観音『どうしてあんな女に私が』

今回も、「恒例」のビブリオバトル原稿をベースにした内容です。

最初に重要なことなので、繰り返し書きますが、ビブリオバトルはコミュニケーションゲームであるため、基本的に観客を観て話し、原稿を見ながら喋ることはありません。

が、自分の場合は、5分という枠内に入るか確認しながらラフな原稿を作成して、プレゼン前に覚えるというパターンが多いです。
通常5分で1冊を紹介するところを、5分で2冊紹介するイレギュラーな形式であるダブルバウトの場合は、時間が足りないのがわかっているため、かなり完成度を上げた原稿を用意します。

ただし、今回は、事前にボリュームが多過ぎることが発覚し、かなりの部分をカットしつつ、本番でもあたふたしてしまい、結局、後半部で言い残しが沢山残る結果となってしまいました。

そこで、5分発表の原稿を少し膨らまして、最後にまとめをつけて文章化しました。

山崎ナオコーラ『ブスの自信の持ち方』

ブスの自信の持ち方

ブスの自信の持ち方

 1冊目は山崎ナオコーラさんのエッセイ『ブスの自信の持ち方』です。  
山崎ナオコーラさんは何度も芥川賞の候補になっている方ですが、この本は、「ブス」をテーマに1年間web連載していたエッセイをまとめた本になります。
ナオコーラさんは、自分の容姿について昔から悩みを持っていたわけではないのですが、「人のセックスを笑うな」でデビューした際の新聞のインタビュー記事に載った顔写真に対して、ネットに誹謗中傷の言葉が溢れたことから「ブス」について考えるようになりました。


この本が特徴的なのは、ナオコーラさんが女性の代表や「ブス」の代表として発言しているのではなく、あくまで、彼女自身の考え方を整理しているということです。
フェミニズムとも距離を置いていて、テンプレート的な意見を避けるので、評価は受け手によりけりで、Amazonでは低評価も多いです。


しかし、芯にある主張は明確で、誰でも賛成できる部分だと思いますので、この本の結論にあたる部分を最後に引用します。

「ブスと言われた」という私の悩みは、決してコンプレックスではなく、社会へのうらみだ。劣等感に悩んでいるのではなく、社会がおかしいから悩んでいる。正直、自分が変わるよりも、社会を変えたい。p268

政治や運動ではなく、ひとりひとりが言葉について考えを深めていくところからでも社会はきっと変わって行ける、そういう希望に満ちた本だと思いました。

花房観音『どうしてあんな女に私が』

どうしてあんな女に私が (幻冬舎文庫)

どうしてあんな女に私が (幻冬舎文庫)

2冊目は、花房観音の小説『どうしてあんな女に私が』です。
小説の主人公は名前こそ違えど花房観音そのもので、序盤は花房さんの実体験が続きます。

花房さんは、2010年に団鬼六賞の大賞を受賞してデビューします。つまり少なくともデビュー当時の肩書は、官能小説作家でした。
そして、ナオコーラさん同様、花房さんも、デビュー当時のスポーツ新聞のインタビュー記事がきっかけで容姿についての誹謗中傷を受けます。
インタビューの中で、サービス精神から、男性遍歴を話したことや、少し太め体型だったことから、中傷コメントの中で「あいつみたいじゃね?」と似た人として名前が挙がったのが木嶋香苗。それを見て花房さんは「あれよりはマシだ!」と叫び、容姿差別で傷ついている自分も容姿の優劣で他人を見ていることに気が付き、木嶋香苗が気になります。


ここで簡単に木嶋香苗について説明すると、婚活パーティで出会った男に数百から数千万の金を貢がせたあとで、男が不審な死を遂げる…そういったことが繰り返し起きた、いわゆる首都圏連続不審死事件の犯人です。
木嶋香苗がすごいのは、捕まってからもなお、3度、獄中結婚をしているところです。*1
女性だけでなく男性も、この本のタイトル通り「どうしてあんな女が」*2、と思った人も多かったのではないかと思いますが、マスコミもこぞって報道し、逮捕の時期は、一種の「木嶋香苗現象」が生まれていました。


この本は、「花房観音が木嶋香苗のノンフィクションを書くために取材をしていく」という過程が書かれたフィクションです。
虚と実が入り混じってわかりにくいかもしれません。
実際には取材はしていないのでしょうが、事実を元にしている話が多数登場するため、境目がわかりにくいところが面白い。


小説の構成は6章立てで、立場の違う6人の女性の視点から木嶋香苗(作中では春海さくら)や関係人物について語られ、読者から見ると、ここで語られているのは「木嶋香苗現象」そのものということになります。*3
以前読んだ小説もそうでしたが、花房さんは、女性同士の嫉妬や蔑みなどの負の感情を描くのがものすごく上手い。
この小説も「嫉妬」がテーマになってはいますが、その一言では言い表せない何層にも積み重なりミルフィーユ状になった嫉妬を味わうことのできる小説です。


そして何といっても、この小説は終わらせ方が上手いと思いました。
木嶋佳苗は「事実は小説より奇なり」を地で行く人なので、オチのつけ方は相当難しいはずですが、こう来ましたか…。第6章からラストまでの緊張感はさすがと感心しました!

まとめ

「ブスは身の程をわきまえろ」式の中傷について、山崎ナオコーラさんは、自分に自信がない人が、自分よりも下のランクの人を見つけて、少しでも自信を得ようとしている(p25)と捉えています。*4
花房観音さんも、同じように、「嫉妬」というキーワードで、ネット上の罵詈雑言を読み解こうとします。
しかし、ネットに中傷を書き込んでも、一時的な気休めにしかならず、「自信」にならないどころか、不安や嫉妬の気持ちが増すばかりでしょう。
山崎ナオコーラさんは次のように書きます。

相手を基準にして努力をすることは、自分にとってなんにもならない。
自分で作った基準をクリアしなければ、自信は持てないのだ。*5
p104

さらにもう少し強い口調で、こうも書いています。

自分で決めた目標に向かって、自分らしい努力をこつこつやる以外に、生きている間にすべきことはない。
p101

2冊の本は、どちらも、心の中の不安や嫉妬、差別する気持ちなどの負の気持ちが言語化されているという点では共通しており、それがあるので、読後感がスッキリしているのではないかと思います。
不快なことがあったら、できるだけそれを言語化する一方で、自分の好きなことに打ち込んでいくことが、他人も自分も傷つけない近道なのだと思いました。

過去日記

pocari.hatenablog.com
→今回の前半は、この時の感想の抜粋で出来ています。山崎ナオコーラさんの小説も久しぶりに読みたいです。なお、既に芥川賞を獲っていると勘違いしていましたが、5度候補になっていますが未だでした。


pocari.hatenablog.com
→『女の庭』は、自分にとっては衝撃的な作品でした。近作の山村美紗本を含め、読みたい本が多数ある作家です。もっと読まないといけないですね。

*1:さらに印象的なのは、法廷で自らの「技術」を誇る発言。複数の人が亡くなった事件の法廷での発言とは思えませんが…

*2:勿論タイトルの『どうしてあんな女に私が』のあとに続くのは「負ける」という言葉で、基本的には女性から女性に向けての嫉妬の言葉がタイトルになっています。文庫化される前の原題は『黄泉醜女』で、本の内容を読めば、しっくりくるのですが、『どうしてあんな女に私が』の方がキャッチーで好きです。

*3:この中で面白いのは、花房観音(作中では桜川詩子)さん自身に対する他人からの描写が多数登場するところです。「こんな女が官能を書いているなんて知ったら、がっかりする者も多いのではないか。地味で色気のない、ただのおばさんではないか。p124」等。

*4:つまり「自信のなさの押し付け合い」がネットに溢れる容姿差別の誹謗中傷

*5:ただ一方で「自信を持たない自由もあるし、持つ自由もある」なんてことを言っている。そこら辺の「言葉」に対する感度の強さが目立つ本。

「生きやすい街」とは~香山哲『ベルリンうわの空』×『「助けて」と言える国へ』

ベルリンうわの空

ベルリンうわの空

  • 作者:香山 哲
  • 発売日: 2020/01/17
  • メディア: コミック

ドイツ、首都ベルリン。ベルリンといえば、壁、ビール、ソーセージ。だけじゃなくって、様々な文化、様々な人々…、パリや東京とも並ぶ国際都市だ。そんな街で僕は…、僕は…、あんまり何もしていない!
ベルリンという街に「なんとなく」で移住してしまった僕は、派手な観光も、胸躍る冒険もなく、ただ毎日を平凡に過ごしている。そんな僕を人はいつも「うわの空」だというのだけれど、僕なりに、些細だけれども大切なものを集めている。
ベルリンでぼんやり生きる僕の生活の記録と、街から得られる空想と、平凡な毎日ゆえに楽しめる、ちょっと小さな冒険の書。 
Amazon紹介文)

最初に書くと、自分にとっては得るところの多い、傑作と読んでも良いくらいの作品だった。
ざっくりと、ベルリン在住の作者による「日常エッセイ漫画」という紹介をしてしまったら間違ってはいないが、全くこの漫画の本質を捉えていない。
Amazonの紹介文で使われている「ちょっと小さな冒険の書」という言葉は、少しワクワクするという意味で、ものすごく読後感と合っている。

この本が提示する内容は「生活」と「街」という大きく2つに分かれると思う。
この2つは「自分」と「自分の住む環境」に対応して、前者は結局その人次第でどうとでも変わってくるが、後者は一人では変えることのできないものだ。


この漫画は、2つのバランスが良く取れているので、内容は非常に政治性が強いにも関わらず、それを感じさせない。

生活について

香山さんは、好奇心が強く、そういう人にとってベルリンは非常に魅力的な場所のようだ。周辺国にも気軽に行けて(第10話)、電車で乗り過ごして少し先まで行ってしまうと東側はまるで別の国のように感じる(第23話)という。
そして、街のあちこちに貼られたシール。これがこの本全体に頻繁に登場し、最後に伏線が回収されるつくりは最高だが、香山さんが、人を見るのも街を見るのも楽しくてたまらない感じが伝わってくる。
しかし、だからこそ、読み手は、「自分が今からベルリンに生活の場を移すことになったとして、香山さんのように生活を楽しめるかな」と想像する。
そして、その想像の先で、日本でもある程度の都会に住んでいれば、同じように生活することが可能であることに気が付く。
つまり、街を楽しむためのヒントに満ちているというのが、この漫画の一番良いところだ。

「街」について

香山さんによれば、ベルリンは「余裕ややさしさが多い街」だという。

駅で泥酔した人がヤケを起こしていても
横にいた他人がおさえてあげて「つらいことあった?」と聞いてあげていた。
どぎつい広告なんかも少ない気がして、
自分の心にも余裕が持てていた。p11

これを読んだ日本人読者は、自然と日本と比較しながら読むだろう。

そこが、この漫画の「政治的」なところだ。

実際、自分も読んで、ベルリンは日本に比べて、やさしさに溢れた「お節介」が多いイメージだな、と感じた。
日本は「他人に迷惑をかけない」という価値感(それはすなわち、できるだけ「自助」で済ませよう!という菅さんの目指す国家のイメージ)が強過ぎて、「助けて」と声をあげにくいし、助けてあげることさえ自重してしまう空気がある。
ベルリンは、普段の生活の中で、ホームレスや生活に困った人をよく見かけ、物乞いの声なども聞くことが多いようで、日本だったらそれを不安に感じる人も多いのかもしれない。
しかし、香山さんは、その雑音こそが居心地の良さに繋がっていると考える。

「みんなへの呼びかけ」をしてる人を日常的に見かけるから、この街では呼びかけがしやすいと僕は感じた。(略)
色んな人が発する色んな方向の力が空間にひしめいて、雰囲気ができ、共有される。(第18話)

香山さんは、コラム6で「見えていればそれについて議論する機会も多いし、知識や想像力が手に入る」と書くが、この漫画はまさにそれを体現しており、第20話は「ホームレスのこと」、第18話  は「差別について」と題して、まるまるそのテーマについて書いている。
「見えていればそれについて議論する機会も多い」という指摘は、自分を振り返ってみても本当にその通りだと思う。
本や映画で勉強できることは沢山あるが、本当に限られているし、そもそも皆、勉強は好きじゃない。
気軽に調べることのできるネットは、差別や偏見に満ちている。


ただ、身近に見えていれば差別がなくなるかと言えばまた違う。
第18話「差別について」では、冒頭に「どこの国だったか忘れたけど」と書きながら明確に日本での体験が描かれている。牛丼屋で、外国人店員の日本語を笑って馬鹿にする家族の話だ。
コンビニやファーストフードで外国人労働者を見かけるのは本当に多くなったし、小中学校でも、クラスに一人や二人、純日本人ではない名前を見かけることも多くなったのに、日本は、外国から来た人にとって住みやすいとは思えない。
香山さんは、ベルリンにも排外的な攻撃性を持つ人が増えていると言いつつ、「どの国もピンキリの上限下限というのは似てる。(コラム4)」としている。そのまた一方で「ピンとキリの間の色々が、どんな割合・比重でどうバラけているか。その微妙な差こそが(国の)特徴になる」としている。
日本の「割合・比重」はどうなのかな、と考えてしまう。

まとめ

菅政権が誕生してから、菅さんの主張する「自助、共助、公助、そして絆」という言葉について考える機会が増えた。
その中で読んだ奥田知志・茂木健一郎『「助けて」と言える国へ』で語られる言葉は、『ベルリンうわの空』が提示する内容とも共通点が多く、印象深かった。

社会というのは、”健全に傷つくための仕組み”だと私は思います。傷というものを除外して、誰も傷つかない、健全で健康で明るくて楽しいというのが「よい社会」ではないと思います。本当の社会というのは、皆が多少傷つくけれども、致命傷にはならない仕組みです。  

ネットにおける無限に近い広がりに期待しつつも、私は少し心配になります。(略)肉体が伴わない情報は軽く、無責任なものが多いと思う。(略)出会ったら傷つくということも含めて考えると、ネットは便利ですが、私にはまだ全面的に肯定できないところがあります。 

長年支援の現場で確認し続けたことは、「絆は傷を含む」ということだ。傷つくことなしに誰かと出会い、絆を結ぶことはできない。誰かが自分のために傷ついてくれる時、私たちは自分は生きていていいのだと確認する。同様に自分が傷つくことで誰かが癒されるなら、自らの存在意義を見出せる。


『ベルリンうわの空』は、「生きやすい街」について書かれた本だと思う。
しかし、「生きやすい街」というのは、「お気楽な街」ではない。
長年ホームレスの活動支援に従事した牧師の奥田知志さんが指摘する通り、「肉体が伴わない情報は軽く、無責任なものが多い」。香山さんは、カフェでの出会いを大切にして、自主的に仲間を集って、無料の子ども新聞を作ったりすることで、緩やかな「絆」を大切にしている。
漫画では楽しそうな面ばかりが書かれているが、人と会うことや新聞を作ることの「億劫」な部分も沢山あるに違いない。しかし、「生きやすい街」は、嫌な思いをしたり、人と議論したり、汗をかいてお礼を言われる中で生まれてくるものなのだろう。
自分の出来る社会貢献は何かな、ということもぼんやり考えながら暮らしていきたい。


なお、この漫画は黄色と黒のオール二色刷りで、読んでいて楽しくなる。
登場人物が、みんな人間ではないバラバラな外見をしているところも、多様性を重んじるこの漫画のテーマに合っていて、主義主張というより、ビジュアルだけで「やさしい本」だと言える。
ちょうど10月17日に続きが出ると聞いたので(しかも趣の異なる赤黒二色刷り)、今からとても楽しみにしている。

ベルリンうわの空 ウンターグルンド

ベルリンうわの空 ウンターグルンド

  • 作者:香山 哲
  • 発売日: 2020/10/17
  • メディア: コミック

アレだとしたらアレが成立しないよね~クリストファー・ノーラン『TENETテネット』

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TENETポスター


インセプション』でクリストファー・ノーランの作家性を復習し、十分に準備した上で迎え撃った『テネット』は、ちょっと凄い映画だった。

難解

やはりこの映画の特徴は、派手な見た目から想像できない、その難解さにある。
特にクライマックス。
物語が展開していることは理解しており、映像表現にもワクワクしているが、肝心の展開の内容自体が理解できない。


確かに、登場人物の目的がよくわからないまま話が進むのは、『インセプション』も似たところはあるが、あれだって、時間内に脱出しなければならないことだけはわかる。
しかし、『テネット』は、「ラスボスのセイターの死=世界の終わり」と知らされていたのに 、クライマックス直前にセイターが死んでしまい、ポカーン?としている上に、最後のトンネル内の争いも見た目が地味なこともあり、直感的に状況を把握し切れないまま、終わってしまう。


そもそも「挟み撃ち」という言葉から有効そうな作戦であることはわかるが、映像として印象的な建物の倒壊・復元シーンなどを見ながら、具体的に、どう挟み撃ちをしようとしているのかが、どんどんわからなくなっていく。
この、「どんどんわからなくなっていく」感覚が『テネット』初見時の醍醐味だと思う。(笑)  


なお、ミッションを成功させたらしいことがわかったその後での、ニールこそが「お前!まさか!俺のことを!」という展開も、トンネル内の色々が全く理解できていないので、響かない。(ここは感動シーンだというサインのみ感じる)
しかも、最後の作戦が、オペラ劇場での冒頭のシーンと同じ日に起きた謎の爆発が舞台ということから、映画のラストは劇場に戻って全体的にスッキリするのでは?という淡い期待も打ち破られる。(そもそも劇場のシーンは初見時では全く咀嚼できない)

パンフレットやネタバレ解説

パンフレットには、かなり詳しい解説があるが、さらに理解を深めるため、映画秘宝の町山さん解説や、いくつかのネタバレ解説サイトも読んで、何とか7割くらい(笑)理解した。
特に参考となったのは以下。(他にもオススメがあれば教えてほしいです。)
pixiin.com
www.eiganohimitsu.com
note.com


中でも、ニールについては、多くの見逃しがあったことが分かる。以下は主な見逃しポイント。

  • 冒頭の劇場シーンでは、 赤い紐飾りのリュックの人が 主人公を救ったこと。(逆光弾が使われていることのみ認識)
  • トンネル内で、赤い紐飾りのリュックの人が解錠した上、主人公の身代わりとなって死んだこと。(リュックのみ認識)
  • キャットが、ヨット旅行中に海に飛びこんだ女性を見て、羨ましいと思っていたこと。


もちろん、どこの解説でも書いてあり、ほぼ確定的となっているニール=マックス(キャットの息子)説は、納得感があり、面白いアイデアだが、3回目くらいにやっと気が付くことだろう。
この映画が少し入り込みづらいのは、主人公(名もなき男)や、ヒロイン(キャット)の、性格や悩み、生い立ちなどがないこと。その中では、ニールは一番愛嬌のあるキャラクターで、彼の正体が、この物語の最重要事項だったというのは、納得しやすい。
でも、それなら、もっとわかるように作ってくれれば良かったのに…とも考えるが…。


明言しなかったのは、おそらく、ニール=マックス説に大きな問題点があるからなのではないかと思う。
つまり、どうやって逆行してきたかという問題。


まず一つの可能性として、マックスが自らの意思で命を懸けて主人公を救おうと考えたとすると、作中でのマックスの年齢を8歳として、例えば18歳まで成長してから10年かけて8歳時点まで遡ったとする。(少し若いが28歳となったマックスがニール)
しかし、逆行は、酸素マスクが必要なのに、10年間も遡るのは難しいだろう。(ご飯をどう食べるかという問題もある…)
個人でやるとすれば、準備が難しいし、組織(主人公)の命令だとしたら、あまりに冷酷だ。


もう一つの可能性は、13歳くらいから「訓練」のために、何度も逆行を繰り返し(例えば2か月逆行+1か月順行を繰り返す)、累計年数として30代くらいまで年齢を重ねているケース。
「逆行」自体が、組織ぐるみでないと難しいことを考えると、「訓練」として、逆行を重ねる、というのはあり得る。
これは「テネット」創設者の主人公が手引きしたと考えないと成立しないが、若いマックスに「世界を救うために死んでくれ」と教育したこととなり、最初の案以上に主人公に共感しにくくなる。


結局、長期にわたる「逆行」を想定するのは難しいため、事件後の主人公が「TENET」を立ち上げたのは数か月後であり、ニールとマックスが別人と考えないと成り立たないのではないか。

今後読む本

ということで、映像表現としてものすごく楽しめたし、二度目を見ればさらに楽しいだろうが、ひたすら難解で驚いた。
これは、自分の中の「逆行」成分が不足しているのかもしれない。
関連作として、まずは、映画として、以前チャレンジして寝てしまった『インターステラー』を観てみたいが、それ以外に、パンフレットで大森望が挙げていた2冊『時間衝突』『匣の中』。また、映画秘宝町山智浩が関連作として挙げた『時の矢』、JGバラード『終着の浜辺』、純粋な「逆行」作品ではないが、以前読んだ『ベンジャミン・バトン』『僕は明日昨日のきみとデートする』も読み直したい。

インターステラー(字幕版)

インターステラー(字幕版)

  • 発売日: 2015/03/25
  • メディア: Prime Video
時の矢―あるいは罪の性質

時の矢―あるいは罪の性質

J・G・バラード短編全集3 (終着の浜辺)

J・G・バラード短編全集3 (終着の浜辺)

匣の中 (講談社文庫)

匣の中 (講談社文庫)

ベンジャミン・バトン 数奇な人生(字幕版)

ベンジャミン・バトン 数奇な人生(字幕版)

  • 発売日: 2013/11/26
  • メディア: Prime Video
ぼくは明日、昨日のきみとデートする

ぼくは明日、昨日のきみとデートする

  • 発売日: 2017/06/14
  • メディア: Prime Video

参考(過去日記)

pocari.hatenablog.com

うわっ…日本の女性閣僚比率、低すぎ…?~前田健太郎『女性のいない民主主義』(その3)

女性のいない民主主義 (岩波新書)

女性のいない民主主義 (岩波新書)

先週発足した菅内閣の女性閣僚は、以前よりも1人減って2人となった。
妥当な人材がいない、という、ただそれだけの理由だとしても、ここまで少ないのは、国際的に見ても恥ずかしいのではないか。
ハフィントンポストの記事から引用する。

菅義偉氏が第99代首相に選ばれ、9月16日、官房長官に就任する加藤勝信氏が閣僚名簿を発表した。


20の閣僚ポストのうち、女性は上川陽子氏(法務)と橋本聖子氏(五輪)の2人に留まった。閣僚に占める女性の割合は10.0%となる。

これは世界と比べてどうなのか? 

列国議会同盟(IPU)とUN Womenの2020年1月1日時点のまとめによると、女性閣僚の割合が50%以上なのは14ヵ国。世界全体では、閣僚ポストに就く女性の割合は21.3%(4003中851)となった。


この調査時点では日本は15.8%(19人中3人)で、全体(190)の中で113位だった。仮に新内閣の10.0%をこの調査に照らし合わせると、148位のブータンマーシャル諸島サンマリノ(いずれも10.0%)と並ぶことになる。

女性閣僚2人だけ。菅内閣での比率は10%、G7最低 | ハフポスト

お隣の国である中韓両国を見ても、テレビで見る機会の多い、中国の報道官(華春瑩:ホア・ チュンイン)、韓国の外務大臣(康京和:カン・ギョンファ)が、どちらも要職を長い期間務めていることもあり、日本から見て羨ましくなってしまう。
特に、「民主主義」の国ではない中国と比べても、日本が劣っているような気持ちになり、こんなとき、まさに日本は「女性のいない民主主義」の国だと感じる。

2章では、そんな国同士の比較、もしくは、過去と現代の比較の中で、何が「民主主義」とされてきたのが説明され、この本の醍醐味である、ジェンダーの視点から捉え直すことにより、新たな発見が得られる典型。
ポリアーキー」という言葉がわかりづらく、最初に読んだときは十分に理解できていなかったが、「民主化」の中で「民主主義」を3つの段階で捉えていると考えるとわかりやすい。

シュンペーターの民主主義:権威主義体制との差異は示すことができるが、女性参政権を含まない。

  1. ポリアーキー:女性参政権の概念を含むが、描写的代表が確保されているわけではない。今の日本のように男性優位の体制が残る。つまり「女性のいない民主主義」。
  2. その先の民主主義:十分多くの女性議員(クリティカルマス理論では30%)が存在するポリアーキー

このように整理していくと、日本は、国際的な潮流を見ても、現時点の「民主主義」に留まるわけにはいかない、という気になってくる。
また、コロナ禍で、政策(公助)が及ぶ範囲が広がっていくことを考えると、(男性に比べて、自助・共助(地域)で果たす役割の大きい)女性の議員の少なさは、政策を決める上でも日本の大きな弱点と言える。*1
現政権の問題点を考える上でも、この本の投げかける課題はとても有効だと思う。


以下、第二章『「民主主義」の定義を考え直す』のまとめ。

民主主義とポリアーキー

  • アメリカの女性参政権導入は1920年。しかし、それ以前からアメリカは「民主主義の国」と呼ばれ、1917年のドイツへの宣戦布告の際には、ウィルソン大統領は権威主義のドイツとの比較から、スピーチで「世界は民主主義にとって安全にならなければならない」と述べた。
  • 1917年当時のドイツはアメリカ同様、複数政党制をとり、男子普通選挙が行われており、人種の制限がない分だけ有権者の範囲は広かった。
  • ドイツとアメリカを分けるものは何か。現代の政治学においては、権力者が選挙に敗北して退場する可能性があるかどうか、をもって、ある国が民主主義国であるか否かを判断する。(シュンペーターによる「民主主義の最小定義」)
  • これとは異なり、女性参政権を民主主義の最低条件とするダールによる「ポリアーキー」という考え方がある。
  • 民主主義とは、市民の意見が平等に政策に反映される政治体制を指し、相対的に民主主義体制に近いものをポリアーキーと呼ぶ。ポリアーキーは、普通選挙権を付与する「参加」と、複数政党による競争的な選挙を認める「異議申し立て」という2つの要素から構成される。
  • しかし、ダールの時代には、ポリアーキーの下で行われる選挙でも、当選者のほとんどが男性だった。これは、ポリアーキーという概念は、シュンペーターの民主主義の最小定義と同じく、「代表」という非常に重要な要素を欠いていることを意味する。

代表とは何か

  • 「政治家が、自身に投票した有権者の意見に従って立法活動を行っている」という意味での代表を「実質的代表」という。
  • シュンペーターの民主主義は、これを不可能として定義から除いている。(エリートによる政治を想定している。)ダールのポリアーキーもこれに倣っている。
  • 実質的代表の考え方に対して、「その政治家が、自らの支持者の社会的な属性と同じ属性を持っている」という意味での代表の概念がある。すなわち、代表制の確保された議会とは、議会の構成が、階級、ジェンダー、民族などの要素に照らして、社会の人口構成がきちんと反映されている議会である。このような意味での代表を「描写的代表」と呼ぶ。
  • ジェンダーの視点から見た場合、描写的代表が確保されることは政治において決定的に重要な役割を果たす。男性ばかりが議席を占める議会は、女性を代表することはできない。(描写的代表なくして、実質的代表を確保することはできない)
  • 描写的代表が重要な理由(1)選挙戦において政党間で争点とされる氷山の一角のテーマ以外の争点に関する意思決定については、政治家が幅広い裁量を行使することになる。女性にとっては、同じ経験を共有する女性政治家の方が、男性政治家に比べて自分の意見をよりよく反映すると想定できる。
  • (2)それまで争点化していない問題を争点化できる。
  • ポリアーキーそれ自体は、女性を男性と平等に代表するには、それほど役立たないといえる。少なくとも、男性優位のジェンダー規範が働く環境の下では、政党間の自由競争は、事実上、男性の間の競争となる。

民主化の歴史

  • サミュエル・ハンティントンの『第三の波』(1991)によれば、これまでの世界史において、民主化の国際的な「波」は3度起きた。
  1. 第一の波は、19世紀に広がり、一次世界大戦で後退した。
  2. 第二の波は、第二次世界大戦後に始まり、1960年代にに後退した。
  3. 第三の波は、1970年代半ばに始まり、世界中に広がった。
  • しかし、この議論で前提としている「民主主義」は、普通選挙権を前提としていない。(①成人男性の50%が選挙権を有していること②執政部が議会の多数派の支持に基づいているか、定期的な選挙で選ばれていることを条件としている)
  • これは、1828年アメリカ(女性、黒人は選挙権を持っていない)を、最初の民主主義として分類するための基準と言え、民主化の歴史の見え方を大きく歪めていると批判される。
  • 女性参政権を考慮すると、ニュージーランド、オーストラリア、フィンランドなどが並び、欧米列強で最初に女性参政権を導入したのはロシアとなる。
  • 様々な民主主義の指標の中でも、最も広く用いられているポリティ指標(指導者の選出方法の競争性や政治参加の開放性に関する5つの指標からー10~+10の21段階に分類し+6以上を民主主義体制と分類)も、女性参政権を考慮していない。
  • 近年、ポリアーキーの定義に忠実な指標として作られたポリアーキー指標(0~1の値を取り、数値が高いほど数値が高くなる)では、アメリカは民主主義の先発国ではなく、ニュージーランドが先行していることがわかる。
  • 女性議員の割合との比較で見た場合、ポリアーキーの広がりは女性議員の進出の傾向と連動しない。女性議員の割合が30%という値を世界で最初に突破したのは、1960年代末の東ドイツソ連といった旧共産圏の権威主義体制であり、ポリアーキーの下で30%を超えるのは1983年のフィンランドが最初となる。

民主化の理論と女性

  • 社会経済的な構造が近代化するにともなって、中産階級が拡大し、貧困層が縮小することで、経済的な対立が穏健化する。その結果、政治的な紛争が抑制され、政権交代をともなう政治体制としての民主主義が成立しやすくなる。(近代化論)
  • 民主化論」の中で最もポピュラーな学説である「近代化論」は、シュンペーター型の民主主義を対象としており、女性参政権を含まない民主主義に対する説明である。
  • ポリアーキーとしての民主主義をもたらすメカニズムは近代化論からは導くことはできない。それを考えるのであれば参政権の拡大をもたらす論理の説明が必要となる。
  • しかし、参政権の拡大に関する学説「階級間の妥協としての民主主義」も、男性の参政権拡大を説明するものである。
  • 体制転換を求める抗議活動の中で、女性行動は大きな役割を果たしてきたが、結果として、男性優位のジェンダー規範が強く働き、女性の権利の拡大につながらない事例も多い。
  • そのような中、女性参政権が拡大した過程においては、男性優位の規範を覆す「規範の転換」のメカニズムが見られる。
  • (規範1)国を守る人には、参政権を認めなければならない。
    • 20世紀以前とは異なり、第一次世界大戦以降、総力戦の時代になると、女性も軍需生産など様々な場面で戦争に参加し、国を守る役割を果たす。その結果、女性も参政権を得る資格を持つようになる。
  • (規範2)国民国家は、女性参政権を認めなければならない。
    • 「資格」ではなく、国民国家一般がどのような政治制度を定めるべきかを示す規範。
    • 1878年の国際女性の権利会議開催、1888の国際女性評議会の結成、1904年の国際女性参政権同名の設立など、19世紀末に、女性運動の国際的な連携を通じて広がった。
    • 第二次世界大戦以後、多くの植民地が独立する時期には、男女双方に参政権を認めることはすでに常識となっていた。
  • (規範3)文明国は、女性参政権を導入しなければならない。
    • 野蛮な国と自国を差異化するため、文明国の仲間入りをするためなどの理由で女性参政権を導入する場合がある。典型的なのは、ソ連を中心とする共産圏の国が、資本主義諸国に対する社会主義国の文明的な優位を示すという意図によって導入したケース。
  • ここまで、ポリアーキーの成立過程を見てきたが、ポリアーキーよりも民主的な体制へと進む道はどのようにすれば開けるのだろうか。
  • ポリアーキー』を著したダールは、ポリアーキーの弱点を克服する手段として福祉国家に対する期待を述べているが、そこにジェンダーの視点はない。3章では、福祉国家に関する議論を中心に「政策」について検討する。

参考(過去日記)

pocari.hatenablog.com
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*1:「アベノマスク」や「一人10万円給付を世帯主の口座に振り込む」という、頭を捻るコロナ対策は、高齢男性議員の発想ではないか

イタチが不真面目すぎる笑~川添愛『働きたくないイタチと言葉がわかるロボット 人工知能から考える「人と言葉」』

中高生から大人まで「言葉を扱う機械」のしくみと、私たちの「わかり方」を考える。
なんでも言うことを聞いてくれるロボットを作ることにしたイタチ村のイタチたち。彼らは、「言葉がわかる機械ができたらしい」といううわさを聞いては、フクロウ村やアリ村や、その他のあちこちの村へ、それがどのようなものかを見に行きます。ところが、どのロボットも「言葉の意味」を理解していないようなのです――

この本では、「言葉がわかる機械」をめぐるイタチたちの物語と、実際の「言葉を扱う人工知能」のやさしい解説を通して、そうした機械が「意味がわかっていると言えるのか」を考えていきます。

はたして、イタチたちは何でもできるロボットを完成させ、ひだりうちわで暮らせるようになるのでしょうか?

ロボットだけでなく、時に私たち人間も、言葉の理解に失敗することがありますが、なぜ、「言葉を理解すること」は、簡単なように見えて、難しいのでしょうか?

朝日出版社あらすじ)


あらすじで感じられる以上に、詳しい部分までわかりやすく、言葉に対する理解が深まる傑作。


あとがきに書かれている通り、作者の川添愛さんは、言葉の専門家(理論言語学自然言語処理)の立場で、「言葉のわかる機械なんて、ディープラーニングを使えばすぐにできるはず」という世間の声に違和感・危機感を覚えたとのこと。
「言語の処理」が相当高度であるということは、センター試験に挑戦する東ロボくんの研究など、研究者による取り組みで、現状が正しく理解されるようになってきたが、もう少し深いレベルで言語の研究について説明をした内容ということになる。
川添愛さんは、謝辞の前に、以下のようにあとがきを締めているが、その心意気がとても伝わる話だった。

バックグラウンドの異なる研究者の方々からは、「応用上はたいしたことのない問題を、必要以上にあげつらって「難しい、難しい」と言っている」と思われるかもしれません。しかし少なくとも、「この課題をクリアしない限り、言葉を理解しているとは言えない」という、「言語学者から見て絶対に譲れないライン」は提示したつもりです。
この本を通して、言語の研究者が日々どのような「怪物」を相手にしているかを、読者の皆様に少しでも感じていただければ嬉しく思います。

イタチが本当に働きたくない

この本の最大のポイントは、イタチ達が、主人公であるにもかかわらず、向学心が全くなく、本当に働きたくないと常に思っていることだと思う。
序章で、魚たちが作った「陸を歩くロボット」を見たイタチは、「こちらの指示を聞いて代わりに働いてくれるロボット」をつくることを思いつく。
最初の1章~3章で、イタチは、他の動物の作ったロボットを見て、「言葉がわかる」とは何かを考える。

  • 1章「モグラの耳」:声を認識して文字として表示
  • 2章「青緑赤ひげ先生」:おしゃべりができる(相談に乗る)
  • 3章「巨大アリロボ」:質問に正しく答える
  • 4章「フクロウの目」:目に映るものを識別してその名を言える

4章では、イタチロボット完成のために「フクロウの目」を手に入れようとし、それと引き換えに、フクロウ達から依頼を受ける。
これがいわゆる機械学習なのだが、イタチが「ダメな学習のさせ方」をした結果、「フクロウの目」は、以前よりも「馬鹿」になってしまう。
このあたりから話の焦点は「学習させることのむつかしさ」に当たることになる。


5章でイタチは、フクロウだけでなく損害を与えていた他の動物たちから、代償として、「文と文の論理的な関係がわかる」ロボットの開発を依頼され、一か月後に「本当に理解できているかどうか」をテストすると言われる。
このあたり論理学の内容を含むので、やや難しくなってくるのだが、驚くべきことに、当のイタチは、そもそも自らに与えられた課題やテストの内容を理解せず、理解しようともしない。
したがって、6章以降、読者に向けて、具体的な「論理」を示す例題が次々と出されるのに、イタチはしっかり理解できていないまま話が進んでいく、という面白い展開が生じる。


その後、言葉の意味や文の意味をベクトル化して学習させる研究者であるメガネザルの助けも借りながら、ロボットを完成させることに成功し、「理解できているかどうかのテスト」にも高得点を得る。(メガネザルの機械学習のさせ方は、十分に理解できているとは言えないくらい難しい…)
しかし、結局、開発したロボットによる失敗事例が問題となり、イタチのロボットに皆が憤慨するというオチなのだが、この過程で、言葉を理解するためのハードルとして、文の構造、同義語(他の言葉で同じ意味)、多義語(同じ言葉で違う意味)、会話的含み、前提とすべき常識など、さまざまなものが示される。


これによって、読者からすると、「ロボットが言葉を理解する」ということは相当に難しい課題だということが分かるが、イタチたちは、その難しさを理解しないままに、常に最短距離で進もうとするのが面白い。
最近、読んだ『それゆけ!論理さん』(論理学をわかりやすく説明する4コマ漫画ベースの本)もそうだったが、通常、この種の本は主人公たちが理解を深めながら読者が理解していく、という流れになるので、イタチの不真面目さは、やはり斬新だ。

大人のための学習マンガ それゆけ!  論理さん (単行本)

大人のための学習マンガ それゆけ! 論理さん (単行本)

  • 作者:仲島 ひとみ
  • 発売日: 2018/10/31
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)



なお、以前読んだ川添愛『白と黒のとびら』の主人公は、魔法使いに弟子入りした素直な少年だったが、『働きたくないイタチ…』の後に出た『自動人形の城』の主人公は、「勉強ぎらいでわがままな11歳の王子」という、イタチと同系統の性格なので、こちらの方が物語を進めやすいと考えているのかもしれない。
順番としては、『白と黒のとびら』(2013)の続編が『精霊の箱』(上下巻、2016)、あとは個別だが『働きたくないイタチ…』(2018)のあとが『自動人形の城』(2018)、『数の女王』(2019)、そして専門とは離れた普通の小説『聖者のかけら』(2019)。さらに、より解説書っぽい『コンピュータ、どうやってつくったんですか? はじめて学ぶ コンピュータの歴史としくみ』(2018)など、川添愛さんの刊行スピードには驚愕。
もっと読んでいきたい。

精霊の箱 上: チューリングマシンをめぐる冒険

精霊の箱 上: チューリングマシンをめぐる冒険

  • 作者:川添 愛
  • 発売日: 2016/10/26
  • メディア: 単行本
精霊の箱 下: チューリングマシンをめぐる冒険

精霊の箱 下: チューリングマシンをめぐる冒険

  • 作者:川添 愛
  • 発売日: 2016/10/26
  • メディア: 単行本
自動人形の城

自動人形の城

聖者のかけら

聖者のかけら

  • 作者:愛, 川添
  • 発売日: 2019/10/30
  • メディア: 単行本


イラスト(花松あゆみさん)

表紙、裏表紙だけでなく、本編でも、主役のカワウソ達や様々な動物の姿が版画イラストで描かれるのが、全体的に、わかりやすさ・親しみやすさに貢献している。
版画の花松あゆみさんが近年担当している本は、いずれも面白そうな本ばかりで、非常に興味が沸いたので、こちらもぜひ読んでみたい。

百年の散歩 (新潮文庫)

百年の散歩 (新潮文庫)

参考(過去日記)

pocari.hatenablog.com

社会規範は行動や感情を制約する~前田健太郎『女性のいない民主主義』(その2)


(その1からの続きで、今回は第一章のまとめです)
読み直してみると、1章は、これまで自分自身の意見だと思っていたものが、意識しないままに「大きなもの」に影響を受けていたことに気づかされる。
つまり、明文化された「法律」とは別に、ジェンダー規範などの「社会規範」が、自らの言動を左右していた。
このことは、コロナ禍においては、「警察」以上に「自粛警察」が大きな働きをしていたことで、ちょうど実感していたことではある。
国や地方自治体は、法律ではなく社会規範に働きかけ、「自粛警察」による制裁で、収束を図ろうとしたと考えることができる。この際、「自粛警察」は誰の内面に棲む。マスクを忘れて外出した際に罪の意識を感じることも、「自粛警察」による自罰的な制裁行為と言えるだろう。


しかし、考えてみれば、これまでも「ジェンダー規範」(+女性にとってはそれと矛盾する「組織規範」) にしたがって「自粛警察」と同様のことをしていたかもしれない。つまり、気づかないうちに誰かを不快にさせるようなことがあったかもしれない。
こういったマジョリティがマイノリティを傷つけるパターンは、「社会規範」というより、個人の「ステレオタイプ」によって生じることもあり、後者の方がより「差別」的と言えるかもしれない。*1
どちらも基本的に「気づかない」ことが多いが、「社会規範」や、一般的に広くみられる「ステレオタイプ」は、気づくことで抑制できるので、積極的に勉強して、日々意識していく必要があるだろう。*2


先日、ある有名人の方が「外国人差別を助長するのでは?」とTwitterで議論になった発言のあとで、「僕は生きていて、そもそも差別という概念はないですし、意識をすることもない。」「僕は今後も差別なんてしませんので、どんな人であろうと悪いことには悪いとハッキリと言います。差別を助長しているのは紛れもなく犯人本人であり、被害者が泣き寝入りしてしまう世の中こそ差別だと思うからです。」と、Tweetしていて、さらに炎上していた。
そもそも、個人個人の「ステレオタイプ」の中に差別は潜んでいるし、日本社会を取り巻く「ジェンダー規範」自体が女性差別を包含していることを考えれば、「差別という概念はない」と言い切るのは、無理がある。社会的な活動と縁を切っていたのでなければ不可能だろう。


ということで、誰もが持つ「無自覚な差別」に対する振り返りとして関連書籍を継続して読むなど、個人として行えることは今後も続けていきたい。
それ以外に、社会(政治制度)として行えることとして、1章で示されるクリティカル・マスの話は、4章のクオータ制の話にも繋がるとても重要な点だと感じた。


以下、第一章のまとめ。

話し合いとしての政治

  • 「理想」の政治は、「公共の利益」の内容を誰か一人が決めるのではなく、共同体の構成員の話し合いによるものである
  • しかし、城山三郎『男子の本懐』でも描かれるよう、日本では男性が自分の意見を述べ、女性はそれを黙って聞くことが良しとされていた。これは「理想」の政治が行われていないことを意味する。
  • 男性と女性の関係は法的には平等でも、実質的には不平等に見える。しかし、ジェンダーの視点を導入せずに、教科書的な政治学を学んでも男性支配という現象は浮かんでこない。

政治における権力

  • 話し合いによる「理想」の政治が行われていない代わりに、「現実」の政治は「権力」を行使する活動として、投票と交渉によって執り行われている。
  • 言い換えれば、政治とは、権力を握る人々が、それ以外の人々に自らの意思を強制する活動である。
  • 投票を通じて権力を持った人々の行動は、様々な社会集団(利益集団)の間の交渉によって決まってくる。
  • しかし、政治家や官僚、様々な利益集団(農協、医師会、労働組合)の圧倒的多数を男性が占めている。つまり「権力」は男性の手に集中している、というのが日本の政治の一つの特徴である。
  • それでは、何が男性支配をもたらしているのだろうか。

ジェンダー規範とダブルバインド

  • 制度上は平等な権利を与えられても、男女の間に権力関係が生まれてしまう。これは、法律を中心とする公式の制度とは別に、社会の中に目に見えない次のようなルール(ジェンダー規範)が存在することに由来する。
  • 男性は男らしく、女性は女らしくなければならない。
  • これが進み「男は仕事、女は家庭」というような性別役割分業を定めるジェンダー規範が生まれる。
  • 問題は、女性が男性と異なる役割を与えられるだけでなく、男性よりも低い地位に置かれることにあり、こうして生まれる男性支配の構造は、「家父長制」とも呼ばれる。
  • 法律の場合、違反に対する制裁は、国家権力に裏付けられる。しかし、ジェンダー規範のような社会規範の場合、個々人が感情の働きで違反者に制裁を与える。社会規範は、国家権力に頼ることなく、軽蔑や後ろめたさを通じて、人々の行動を制約する。
  • 「男は仕事、女は家庭」といった規範は男女差別的だと理解されるようになった近年でも、男性優位が変わらないのは何故か。
  • それは、「この組織の構成員は、Xでなければならない」という組織の規範で求められるXの内容が多くの場合、「男らしい」と言われる性質と重なっていること(つまり男性に有利であること)が理由である。(しかしパッと見はジェンダー中立的に見える)
  • 女性は「ジェンダー規範」と矛盾する「組織規範」の双方に従うことは難しく、ダブルバインドに悩むことになる。
  • 政党や官僚制といった組織の活動を規定する政治制度も同様であり、政治家を志す女性たちにも、ジェンダー規範からの逸脱に対する制裁が繰り返されてきた。(独身であれば揶揄され、主婦を売りにすれば、家事育児をおろそかにしている、と言われる)
  • 女性に競争を回避させるジェンダー規範(女性は、女性らしく、他人と表立って競争するのではなく強調するべきだ)がある限り、自由な競争に開かれた選挙制度は、それが競争的であるがゆえに、男性に有利な仕組みになってしまう。

マンスプレイニングの罠

  • 男女がいる場では、女性が自らの意見を言うことを躊躇われる(女性が男性の話の聞き役に回る)のは、以下の3つに代表される個々の経験が重なり、自信をもって発言できなくなっていることが考えられる。
  1. マンスプレイニング(男性側の一方的な発言)
  2. マンタラプション(男性による女性の発言の遮断)
  3. プロプロプリエイション(男性による女性の発言の横取り)妨げるジェンダー規範
  • しかし、このように男性が一方的に意見を言う状況は、常に生じるわけではない。特に、男女比が強く影響し、男性が多い組織における女性の参加者は、その組織では男性らしい行為が要求されているというシグナルを受け取る。
  • 組織の男女比は、制度的にコントロールできる。男女比がどの程度であれば、女性は男性と対等に議論ができるのか、については、クリティカル・マス理論という学説があり、その水準は30%という数値が用いられることが多い。(先送りされた、2020年までに指導的地位に女性が占める割合を30%程度とする」という目標数値の根拠でもある)

政治の争点

  • 日本では、男女の不平等が争点化してこなかった。しかし、その理由を、男女の不平等の問題が深刻でなかったことに求めることはできない。(今より昔の方が深刻だった。現在では他国に比べて問題が深刻だが争点化していない)
  • 争点は話し合いから生まれる。ジェンダーが政治の争点として浮上したのは、それまで黙っていた女性たちが、男性に対する異議申し立てを開始したからに他ならない。
  • しかし、問題を争点化することに成功したとしても、最後は国会などの意思決定の場において、何らかの投票が行われることで決着がつく。

多数決と争点

  • 権力には三つの次元がある。多数決の行方を左右するなど、明示的な行動の変化をもたらす「一次元的権力」。問題の争点化を防ぐ権力は「二次元的権力」。現状に対する不満を抑制し。紛争自体を消滅させる権力を「三次元的権力」。
  • フェミニズム運動による男性支配の告発は、三次元的権力を打破し(多くの人に問題の存在に気付かせ)、争いの場を二次元的権力へと移行させる。
  • 多数決の抱える「投票のパラドックス」(コンドルセパラドックス)を防ぐために、あらかじめ争点の範囲を絞り込むことがある。争点の範囲の限定する方法(争点の操作)はフェミニズムの立場からは男性支配を維持する役割を果たしているともいえる。
  • いわゆる「公私二元論」は、人間の活動の場を「公的領域」と「私的領域」に分ける考え方。公私区分は、実際には男性と女性の性別役割分業と対応しており、男性は公的領域において政治活動と経済活動を担い、女性は私的領域である家庭に閉じ込められる。(田房永子さんの言うところのA面、B面に対応する)
  • 公私二元論批判は「個人的なことは政治的である」という有名なスローガンに要約される。近年は、従来は私的領域とされてきた家庭に関わる問題が争点化されてきている。
  • 社会問題の争点化には、マスメディアの存在、本に加え、#MeToo運動 が典型だが、インターネットの重要性が大きくなっている。
  • ジェンダーの視点は、ただ女性の存在に光を当てるだけでなく、女性を政治から排除する権力への注意を促し、あらゆる学説の見直しを要請する。

*1:なお、こうした男女を二つに分けた議論は性的少数者の問題を蔑ろにしている、という部分については、作者は自覚的で、「おわりに」でも触れている。

*2:書いていて「ステレオタイプ」が個人に属するものなのか、社会に属するものなのかは、よくわかっていない感じがしてきたが、ここでは、「社会規範」よりも個人的なものとして「ステレオタイプ」があると考えている。