Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

アウシュヴィッツ生存者の父親のことを今でも許せない~アート・スピーゲルマン『完全版 マウス』

アウシュヴィッツの生存者、ヴラデックの体験記録。息子のアート・スピーゲルマンがマンガに書き起こした『マウス』と『マウス2』を一体化さた“完全版”。 


アウシュヴィッツホロコーストについてしっかり学んだことがない。『アンネの日記』ですら読んだことがない。
そういう自分にとって、この漫画は、とても入りやすい本だった。
基礎的な歴史的事実について詳しく書かれているわけではないので、学ぶのに適した本とは言えないかもしれないが、まずは、これをとっかかりにして、色々な本、漫画、映画に触れていきたい。


とはいえ、実は、この本を読んで一番印象に残っていることは、ヴラデックの過酷な体験よりも、作者(アート・スピーゲルマン)の父親ヴラデックに対する思いだ。
特に印象に残っているシーンが二つある。
そのうちの一つ、父の家からの帰り道、ぼそっと「…人殺しめ」と呟くシーン(p161)については、この漫画のための特設ページに、アート自身の言葉で述べられている。

「そう、ぼくを生んだ父の最初の妻アンジャは、10年前に亡くなった。自殺だった。ただ母は戦争中の日記を残していて、ぼくに見せようとしていたんだ。ぼくがマンガを描くようになっていたから、母はぼくに昔の両親のことを描き残してほしいと思っていたことは確かだ。ところが、この『マウス』のなかにも描いたように、父は母の日記を処分してしまったんだ。そのことを知ったぼくが父のことを“ひと殺しめ”と怒る場面がある。母の日記を捨てたことは、ぼくの母を殺したのと同じことだからね。父は、ぼくがこのマンガを描いている途中で、1年ほどまえに亡くなったけれども、ぼくは母の日記のことでは、いまでも父を許していないよ」
https://www.panrolling.com/books/ph/maus.html


この言葉の通り、作者の父親への憎しみが色々な場面で現れているのが特徴だ。
冒頭、アートが父親ヴラデックに久しぶりに会いに行くシーンでも、ヴラデックは後妻のマーラをいびっているが、とにかく神経質で非合理な程度*1にケチ。絶対に生活を共にしたくないタイプの人間で、自分はどうしても姫野カオルコ『謎の毒親』の理不尽な父親を思い出す。彼は、シベリア帰還兵だった。
『完全版マウス』は。実父のシベリア抑留体験をまとめたおざわゆき『凍りの掌』に似た地獄があるのだが、そこから還ってきた父親の性格的な理不尽性も見せたという意味で『謎の毒親』的でもあるのだ。

謎の毒親 (新潮文庫)

謎の毒親 (新潮文庫)


もうひとつ印象に残っているのは、アートの運転する車の中で妻のフランソワーズと一緒にヴラデックに当時の話を聞いていた場面。呼びかけられて、少しの間乗せてあげた黒人のヒッチハイカーに対して、ヴラデックは露骨に不快な態度を取り、ポーランド語で罵詈雑言を放つ。
ヒッチハイカーを下ろしてから、妻のフランソワーズは「許せないわ!よりによって、あなたが人種差別をするなんて!あなたの黒人への言い方、まるでナチスユダヤ人に対するみたいよ!」(p259)と非難するが、「黒人野郎とユダヤ人とは比較にもなりゃしないよ」「黒人はみんなどろぼうだ」と繰り返すばかり。
辛い経験をしているから優しくなれるわけでもなく、むしろ他人の身になって考える想像力は、身体的にも精神的にも余裕がないと生まれない、ということがよくわかるエピソードだ。


ヴラデックの体験は、前半部(「マウス」)が強制収容所に入る前で、後半部(「マウスⅡ」)が強制収容所に入ってからになる。
制収容所に入ってからのヴラデックが「上手くやっていく」能力が凄すぎて、こういう人しか生き残れないのであれば、自分は真っ先に死ぬだろうと確信した。
そもそも手先が器用で芸がなくてはならない。
将校らに取り入るのに、時にはブリキ職人、時には靴職人、時には英語教師、と様々な能力を利用して、生き延びる。
勿論、運によるところも多く、後半、ロシア軍が優勢になってからアウシュヴィッツに収容された人たちは他の場所に移動、移動を続けるが、チフスも流行し、多くの人が雪の汽車の中に閉じ込められたまま死んでしまう。
こんなことが二度とあってはならないわけだが、もし自分がそういう場面に出くわしたら…と考えて、辛くなってしまう。


なお、本の中ではユダヤ人はネズミ、ポーランド人は豚、ドイツ人は猫の姿で描かれる。このことと裏表紙の地図から、ドイツの東隣にポーランドがあり、アウシュヴィッツポーランド国内にあることを改めて認識した。(アウシュヴィッツが何処にあるのかということすら知らなかった)
また、この地図では、スロヴァキアがあってもチェコがない。ポーランドの北側に東プロシアという国がある等、よくわからない世界が広がっている。
今、職場にヨーロッパ出身の人(日本語ペラペラ)がいることもあり、興味が沸いているので、ヨーロッパの歴史地理は色々なアプローチで学んでいければと思う。
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関連作品

元々『マウス』が1986年、『マウスⅡ』が1991年刊行ということで、少し昔の漫画ということもあり、影響を与えた漫画も多いという。
先ほどの解説ページから再度引用する。

『マウス』の“出現”によって触発されたマンガ家は少なくない。
いまではルポルタージュ・コミックスの優れた作者として知られるアメリカのジョー・サッコパレスチナに滞在してその現実、人びとの生きている姿を『パレスチナ』というコミックスとして完成させたが『マウス』がなかったら、とても『パレスチナ』にとりくむ勇気は出なかったろう、とサッコは語っている。『パレスチナ』の日本版は私の翻訳でいそっぷ社から刊行されており(2007年)、作者には2010年にフランスのアングレーム国際コミックス・フェスティバルで会った。
またフランスのマンガ家エマニュエル・ギベールは、ノルマンディー上陸作戦に参加しフランスに住むことにしたアメリカ兵士を『アランの戦争』というコミックスに描いたが(これも小学館集英社プロダクションより野田謙介氏の訳の日本版が2011年に刊行されている)、来日したギベールも『マウス』の冒険のおかげで自分は『アランの戦争』を描けた。スピーゲルマンのおかげだ、と私に語った。この本は『パレスチナ』とともに、『マウス』以後の新しいコミックスを代表する画期的な作品と評価されている。『マウス』の成功によって「こういう内容もマンガにできるのだ。そうしていいのだ」と、新しい道を行こうとするマンガ家たちに刺激とはげましを与えたのである。
https://www.panrolling.com/books/ph/maus.html

パレスチナ』は、グラフィックノベルの特集か何かで聞いたことのある漫画であるし、やはり歴史を知るためにもこういった作品は積極的に読んでいきたい。

パレスチナ

パレスチナ

参考(過去日記)

pocari.hatenablog.com
pocari.hatenablog.com

*1:バラバラに割れた皿のかけらを「接着剤でつけて使うから捨てないで」と言うp233のはどうかしてると思ったが序の口。ガス代も家賃に含まれるからと、マッチを惜しんで一日中ガスを受つけっぱなしにしているというエピソードp182には本当に驚く。

「生活保護」をテーマにした児童文学の傑作~安田夏菜『むこう岸』

むこう岸

むこう岸

第59回日本児童文学者協会賞受賞作品。貧困ジャーナリズム大賞2019特別賞受賞作品。2019年、国際推薦児童図書目録「ホワイト・レイブンズ」に選定。
和真は有名進学校で落ちこぼれ、中三で公立中学に転校した。父を亡くした樹希は、母と妹と三人、生活保護を受けて暮らしている。『カフェ・居場所』で顔を合わせながら、お互いの環境を理解できないものとして疎ましく思う二人だったが、「貧しさゆえに機会を奪われる」ことの不条理に、できることを模索していく。立ちはだかる「貧困」に対し、中学生にも、為す術はある。児童文学作家のひこ・田中氏推薦。

ビブリオバトルで紹介のあった作品だが、「生活保護をテーマにした児童書」ということで読んでみたら、頭をガツンとやられる、真に教育的な小説だった。
真に教育的というのは、偽善的でなく、ご都合主義でもない形で「生活保護」という難しいテーマを扱い、かつ、貧困や、差別・偏見との向き合い方について、具体的なヒントがもらえる、ということだ。
何より、学ぶことの大切さ、なぜ勉強するのか、という説教臭い内容を扱っているという点では、いかにも児童小説的ではあるが、学ぶのに遅すぎるということはないのであって、むしろ大人が読むべき本と言える。


以下、児童小説的でないところを取り上げながら作品の具体的なエピソードからメッセージを読み解いていきたい。

天真爛漫ではない主人公

児童書で、生活保護をテーマにしていると聞き、真っ先に浮かんだイメージは、差別などとは無縁の天真爛漫な主人公(まさに『鬼滅の刃』の竈門炭治郎みたいな少年)が、まっすぐな正義感で、困っている人を助ける、といったもの。
しかし、その予想は大きく外れる。
主人公は、中学受験で一流中学に入学するも、中2でドロップアウトして公立中学に入り直した中3の山之内和真(かずま)。小説の語り手は二人おり、もう一人の語り手は、和真が転校先で出会った同級生女子の佐野樹希(いつき)。彼女は生活保護を受けながら、家事全般で幼い妹と病気がちな母親を支える。


和真は人から好かれるタイプではなく、勉強だけが取り柄の堅物なのだが、この物語の大きなポイントは、和真自身の生活保護や貧困に対する気持ちがどう変化していくかが描かれていることだ。
和真が、樹希とアベル君(樹希に頼まれて勉強を教えることになった中学1年生。父親はナイジェリア人)に出会った頃のモノローグを引用する。

はっきり言おう。ぼくは、生活レベルが低い人たちが苦手だ、怖いし、嫌悪感がある。中学受験塾にも蒼洋中学にも、そんな人たちはひとりもいなかった。彼らの生活も考えていることも、よくわからない。このアベルくんだって…。
(略)
ぼくには今まで黒人の知り合いなど、ひとりもいなかった、得体が知れず、ますます恐ろしい。
p64

和真は、自らの嫌悪感を認めているだけ、「客観性」があり、何も気がつかない人よりも一歩先に行っているような気もする。
しかし、「客観性」は重要ではない。
この物語を駆動するのは間違いなく和真の持つ「特性」によるのだが、それは、このような「客観性」であるとは思わない。

「むこう岸」にかける橋

「私はセクシュアルマイノリティに対する偏見を持っていませんが…」「私にも在日韓国人の知人がいますが…」
差別的発言をする人に限って、そういうことを口にする。
自らを客観視できる(と思っている)ことや、知り合いに当事者がいることは、差別・偏見を持たないこととは無関係である。
『むこう岸』の前半の展開を読んで、改めてそのことを考えた。


和真は客観的な見方が出来る人で、(おそらく独善的な父親を反面教師にしているせいで)すべてをすぐに決めつけずに相手の話を聞くことができる。
その和真でさえ、アベル君を目の前にして、最初は、黒人だからということで、恐怖を覚えてしまうが、勉強を教える中で、普通の友だちのように接することが出来るようになる。
つまり、自分のことを客観視できるだけでなく、相手と直接、共同作業をすることで、恐怖心や差別する心は減じることが出来る。…とも言える。
ただし、和真とアベル君との関係はかなり特殊だ。中3と中1というだけでなく、勉強を教える側と教えられる側ということで上下関係が成立し、かつ、アベル君は喋らない。


実際、アベル君以上に時間を共にし、話す機会の増えた樹希に対しては、なかなかギクシャクした関係が変わらない。
物語序盤には、会話のやり取りの中で樹希を苛々させてしまう決定的なシーンが登場する。

「あんた、金に困ったことあんの?」
(略)
「貧乏は…、たしかに知りません」
「ほら、見な」
「それは…、気の毒だとは思います」
「はぁ?」
p84

「気の毒」と言われたことに樹希は激怒するが、この段階では、和真の方は樹希を怒らせた理由に気がつかず、むしろ樹希の態度に苛々している。
こちらから見る「むこう岸」と、対岸から見る「むこう岸」が対等で同じ見え方をしていると思っている。

きみとぼくとのあいだには、きっと広くて深い川が流れているのだろう。その川に橋をかければいいのかもしれないが、はなから喧嘩腰の対岸に、なぜ渡っていかねばならないのか、ぼくにはその必要性がわからない。p89

序盤では、和真は「むこう岸」に橋をかけることすらしようとしない。
しかし、繰り返すが、和真の「特性」によって、「むこう岸」に橋がかかり、それが樹希を救うだけでなく、和真の世界を拡げることになる。

スティグマとエンパシー

恥ずかしい話だが、差別や偏見についての説明の中に出てくる「スティグマ」という言葉が長い間よくわからなかった。概念としての意味は理解できないわけではないが実感がわかず、ここ10年くらいでやっとわかった。それだけ幸せな生活を送ってきたということなのかもしれない(ただ鈍感なだけなのかもしれない)が、意味を伝えにくい言葉であるように思う。
『むこう岸』の中では、それは概念ではなく、「体操服」という実体を持って登場するので、理解がしやすい。
樹希は、小5のときに、生活保護を受けている ことが同級生の齋藤にバレる。両親が共働きで、裕福な家庭ではない斎藤は「得してるくせに隠してんのはずるい。生活保護受けてるやつは全員、生活保護Tシャツ着ろ」と樹希を罵る。
それを聞いて頭に血が上った樹希は、体操服の前面いっぱいに「生活保護」と大きく書き、背中に「ありがとう」と書いたのだった。

みんなから養ってもらっている。
施しを受けている。
そのことはうっすら感じてはいたけれど、はっきりと言葉にして突きつけられると、つくづく卑屈な気持ちになった。p43

このように生活保護を受けることを恥ずかしいこと、悪いことと捉えるのが「社会的なスティグマ」で、それが「生活保護」と書かれた体操服に具現化されている。樹希は、同級生からだけでなく、生活保護ケースワーカー(市職員)からも、繰り返しスティグマを刻まれるようなことを言われる。常に「生活保護」と書かれた服を着ている気持ちで生きていくことを強いられる。


樹希の抱くスティグマは自ら壁を作り、他人の干渉を拒む方へ働く。
それにもかかわらず、和真が「むこう岸」へ橋をかけようとする気持ちになったのは、和真の「エンパシー」の能力による。

エンパシーは、自分はブレイディみかこ『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』で初めて知ったが、シンパシー(同情、共感)に似ているが異なる意味を持つ。

エンパシーと混同されがちな言葉にシンパシーがある。(略)
つまり、シンパシーのほうは「感情や行為や理解」なのだが、エンパシーのほうは「能力」なのである。前者はふつうに同情したり、共感したりすることのようだが、後者はどうもそうではなさそうである。

ケンブリッジ英英辞典のサイトに行くと、エンパシーの意味は「自分がその人の立場だったらどうだろうと想像することによって誰かの感情や経験を分かち合う能力」と書かれている。

つまり、シンパシーの方はかわいそうな立場の人や問題を抱えた人、自分と似たような意見を持っている人々に対して人間が抱く感情のことだから、自分で努力をしなくとも自然に出て来る。だが、エンパシーは違う。自分と違う理念や信念を持つ人や、別にかわいそうだとは思えない立場の人々が何を考えているのだろうと想像する力のことだ。

ブレイディみかこ『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』p75)

エンパシーは感情の動きというよりは一種の「能力」であるが、和真はその能力が優れている。ブレイディみかこさんの息子は「エンパシーとは何か」というテスト問題に「自分で誰かの靴を履いてみること」と答えるが、この小説は、和真の心の動きを見せることで、読者に「他人の靴を履く」ように仕向けていると言える。


例えば、アベル君に寄り添って接することが出来たのは、間違いなく和真のエンパシーによる。
「ぼくはバカだから」と言う(書く)アベル君に対しては、蒼洋中で落ちこぼれて、自分のことをバカだと思い続け、惨めな気持ちになった自分自身を思い出すのだ。


蒼洋中の優等生・桜田君が、道で、かつての同級生である自分を見つけて、 屈託のない笑顔で話しかけてくるのに対して、和真は、いたたまれない気持ちになり、樹希のことを思い出す。このときの和真の考え方こそが、まさに「他人の靴を履く」ことの実践だ。

ああ、とぼくは思う。
きみにとってのぼくは、ぼくにとっての桜田くんなのかもしれない。
自分にないものをみんな持っていて、無邪気そうに微笑んでいるもの。気がつかない無意識で、他者を哀れんでいるもの。
哀れんでいるものは、自分の放つ匂いに気づかない。
哀れまれているものだけが、その匂いに気づくのだ。
p93

そして、樹希のことを説明したとき、(信頼していた)母親から出た「あー、びっくりした。生活保護んちの女の子と、おつきあいしているのかと思ったわ」「やっぱりうちとは、違う世界の人だと思うじゃない」という言葉には落胆し、激怒した上で、そこに少し前の自分自身を重ねる。

そうだ。少し前までのぼくも、母さんと同じだったんじゃないのか?
「生活レベルが低い人」の世界に、嫌悪や恐怖すら抱いていた。
そういう世界とは、一生関わりを持たずに生きていくものだと思っていた。
今の生活が、決して楽しくもうれしくもなく、居場所すらなくしていたくせに。
p167


このように、ある時はアベル君に、ある時は樹希に、そしてまたある時は母親の立場に自らの立場を置き換えることで、和真は、未知なるものに対する嫌悪や恐怖を克服していく。「他人の靴を履く」重要性を概念として示すのではなく、何度も別の形で例示されることで、読者は、それが生きていく上で重要な意味を持っていることが自然と理解できる。


そして、樹希にかけられた呪い(スティグマ)を解くような言葉も二度登場する。

ずるくはない。それは権利だ。(略)
貧乏は自己責任だと言う人もいるけれど、この法律はそんなふうには切り捨てない。努力が足りなかったせいだとか、行いが悪かったせいだとか、過去の事情はいっさい問わない。
(p189:和真の言葉)

きみは施しを受けているんじゃない。社会から、投資をされているんだよ。
(p229:エマの叔父さんの言葉)

このように、この小説は、スティグマやエンパシーという重要な概念を示しつつ、人生の中でそれとどう向き合い、どう生かしていくかを教える。道徳的というよりは、技術家庭科のように実利的な意味で「教育的な」本だと思う。

「思いやり」は困難を解決できない

小学校の道徳の授業では、人との付き合いの中で最上級に重視されるのが「思いやり」なのではないかと思う。
しかし、この本が後半に提示する最も大きな考え方は、貧困という具体的な困難に対して「思いやり」が何の役に立たないことだ。

樹希の小学生時代からの唯一の友人であるエマは、生活保護を受けるようになった樹希と心の距離が離れていくことに対して無力感を覚えていた。
エマは優しく「思いやり」のある子だが、それが樹希に対して何の意味も持たないことを知っていたのだ。

しかし、物語後半で、エマは、どのようにすれば、樹希が前向きな気持ちを取り戻すことを手伝えるのかを理解する。
必要なのは「思いやり」ではなく「知識」だった。


和真のアプローチによって、エマの叔父(社会学が専門の大学講師?)のアドバイスも受けながら、樹希は、生活保護制度について、具体的な知識を増やしていく。
また、子ども食堂にボランティアで参加していた看護学部苦学生からの奨学金について教えてもらうなど、具体的な情報が、どんどん樹希に希望を与えてくれることになる。


そして、「知識」は、樹希だけでなく、和真にもいい影響をもたらし、この物語は、世界のことをもっと知りたい、学びたいという和真の決心で終わる。

ずっと父さんに言われるがまま、勉強してきた。高得点をとるため、小さな解答欄に学んだことを書き入れ続けてきた。その作業に疲れていた。
けれど、ぼくの知識や思考を、もっと大きな場所に向けて放っていくとしたら?
今を生きる人々の中へ。
もがきながら、迷いながら、それでも生きていく人々の中へ。
p253

実際には、ひどく理不尽な事件が起きもするのだが、これ以上ない前向きなラストだと思う。
「なぜ勉強するのか」ということに対してはいくつもの回答があるのかもしれないが、「知識」「学び」が二人を前向きな気持ちにさせたこのラストは、その中でも、とても有効な回答だと思う。
そして、この本を読んで「勉強しなくちゃ」と思うのは子供だけではない。大人も常に勉強を続けなくてはならない。そんな気にさせられる。

差別や偏見を否定しない

そして、もう一つ、この小説で特徴的なのは、差別・偏見を持つ者が悪という描き方をしていないことだ。
例えば、スーパーで難癖をつけられたアベル君を助けたのは樹希の「生活保護体操服事件」のきっかけになった、斎藤のお母さんだった。彼女は正義感が強いが故に、無知から生活保護に否定的な見方をとることになった。
ケースワーカーも、前半部では樹希や母親を苦しめる一因という描き方をされていたが、エマの叔父の話すケースワーカー経験をはじめとして、その職業自体の困難さも見えてくる。


かといって、『鬼滅の刃』のように、悪者の悪行にすべて理由があるというわけではなく、小説の中で解決されていない困難も多い。
例えば、「努力は人を裏切らない(だから貧困はその人自身の問題が招いたものだ)」 と考え、和真の苦しみのすべての原因である父親は、小説内では、その父権的な態度を崩すことはない。
また、樹希と母親(樹希は、彼女のことを他人であるかのように「ハハ」と呼ぶ)との関係も全く進行しない。


最後は家族そろって前を向く結末というイメージのある児童小説において、この小説の中では、 素晴らしい家族に恵まれなくても、家族の理解がなくても、当人の気持ち一つで前に進むことが出来るということが示される。


そして、「すべての人がもがきながら、迷いながら、それでも生きていく」、その中でどうしても差別や偏見が生じることについて、和真は「優越感」という言葉で説明する。

そう、優越感…。プライドというより優越感だ。
他人との比較でのみ得られる、この感情。
十二歳の春、塾の仲間たちがぼくに向けた羨望のまなざし。
多くの中から、自分が選び抜かれたという甘美な気持ち。
蒼洋中学をクビになっても、あの時の気持ちはまだ胸の奥底にへばりついたままだ。捨てたほうが楽だとわかっているのに、捨てられない。自分はやはり人より優れている、恵まれていると思っていたい、この厄介な感情。
ぼくも、母さんも、そして父さんも、おばあちゃんも。
自分の中のこの気持ちを、どこかでつっかえ棒にして生きているのかもしれない。
ぼくらは幸せなのだろうか。それとも哀れなのだろうか。
p167

物語の中では、誰も「差別・偏見をなくそう」とは言わない。
むしろ、それを「つっかえ棒」にして生きている人さえいる、とまで描いている。
この話は誰かを断罪する物語ではない。
個人的には、和真の父親には物申したい気持ちもあるが、差別・偏見の塊のような人でさえも、そこに「つっかえ棒」がある可能性があるし、物語で最も理不尽な事件は「つっかえ棒」が外れた人によって起こされた。

その意味では、物語は、個々人が死ぬまで抱える「優越感」「劣等感」とどう付き合って生きていくかという、重い課題を読者に残しているのだと思う。

最後に

ここまで、色々な面から見た『むこう岸』の良さについて説明してきたつもりだが、唯一文句を言うとしたら、(装画を担当した西川真以子さんには大変申し訳ないが)この表紙は個人的には好きではない。
「むこう岸」に行くということは、「今を生きる人々」の中へ飛び込んでいく、それによって世界を拡げるということ。その意味では歩道橋から見下ろした都市の風景は作品のイメージ通りかもしれない。
そして、小説の中では、取り返しのつかない事件が起きたりなど暗い話題も多く、ある程度暗いイメージの表紙にするのは決して間違いではない。
しかし、前向きな終わり方が印象的な本で、かつ児童書でこの表紙はないのではないかと思う。


特に、児童書であれば、実際に本を手に取って読むかどうかを決めるということが多い。その際、どんな人に『むこう岸』を手に取ってほしいと思うのだろうか。自分だったら、男女が描かれたシンプルな表紙、という程度が適切だと思う。
「恋愛関係の本かと思ったら、生活保護を扱っていて、考えさせられた」というくらいの本との出会い方がベストだと考える。
この表紙では、「怖い」「悲惨な話なのでは」「真面目な本っぽい」という第一印象が邪魔して、偶然この本を手に取る可能性をかなり下げていると思う。
読後の印象も違ってくる。ラストを読んだ後の前向きな印象は、表紙を見てむしろ打ち消されると思う。自分の読んだのは「可哀相な話」だったような気がしてくる。表紙を見ても「むこう岸」に渡ってみたいと思えない。
この独特な表紙を評価する声もあるようだが、大人向けということであれば理解できる。小中学生の頃の自分を考えてみると、この表紙は推せない。


と、最後に少し不満を書きましたが、児童小説として大傑作でした。
おそらく大人も読みやすい形で文庫化されるのではないかと思います(望みます)。
そのときに表紙をどうするかというのは興味があるところです。

参考(過去日記)

pocari.hatenablog.com
→この本の「はじめに」で「私はセクシュアルマイノリティに対する偏見を持っていませんが……」という枕詞について触れられています。勉強のためにもう一度読み直したい本です。


pocari.hatenablog.com
ブレイディみかこ『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』は感想を残していないのですが、この映画の感想でも「エンパシー」について掘り下げています。2019年の本ですが、年末に読んだので、「エンパシー」は2020年の個人的流行語大賞に入りますね。

煉獄さんのための映画~『劇場版「鬼滅の刃」 無限列車編』

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「鬼滅人気」にあやかろうと、国会で内閣総理大臣までが「全集中の呼吸で…」などと口走るほどの状況下、遅ればせながら『無限列車編』見てきました!
以下、ところどころTBSラジオ「アフター6ジャンクション」のライムスター宇多丸の映画評についても挟みながら、前後半に分けて映画の印象を整理します。

前半

そもそも『鬼滅の刃』は、序盤での呼吸の訓練シーンからしジョジョ(2部)の空気を感じていたが、無限列車編も5部(グレイトフルデッドのくだり)を思い起こさせる列車を扱った内容。なお、ジョジョとの共通点は、呼吸(波紋)以外にもいろいろと指摘がされていて、「柱」の男、ディオと無惨の共通点等々、言われてみれば確かにと驚く。

とはいえ、列車での闘いは実写映画で言えば『新感染』も対ゾンビという意味では似ているし、アニメでは『甲鉄城のカバネリ』も対ゾンビで、機関車が舞台と非常に近いので別にジョジョに限ったわけではないとも言え、そもそも列車自体が映画の舞台として優れているといえる。*1

さらに、敵が夢を操るというのも面白さを増している。もちろんジョジョでも夢のスタンド(3部のデス13)がいたが、敵自体は夢の中に直接現れるわけではない。綱を結びつけた人間が夢の中に入り込めるという仕掛けは、むしろ、宇多丸評で指摘されていた通り、インセプションに近いだろう。*2煉獄さんと3人の見る夢の内容も様々で、とにか前半は全く飽きない内容だ。

後半

そもそも原作の途中を切り取っているのだから仕方ないのだが、後半、突然、 「上限の参」である猗窩座(あかざ)が現れて、煉獄さんとの戦闘が始まる。

格闘シーンの迫力は凄いのだが、二人の「鬼になれ!」「ならない!」のやり取りと並行して、お互いの必殺技が繰り出されていく状況は前半と比べると単調だ。
しかも、このシーンが長く描かれてしまうと、傍で見ている炭治郎と伊之助の「観客」感が強まってしまい、もどかしさが募る。(この展開の結末を知っているからこそ、煉獄さんの活躍を見られるのは嬉しいのだが…)

ところで、劇場に行って驚いたのは、予想外に小学校低学年くらいの客層も多かったことだ。名探偵コナンの劇場版に比べてもかなり低い年齢層まで浸透している作品と言える。
先日、土曜日のランニング時に、通り過ぎた小学生の集団が「壱の型!」とか「参の型!」とかやっていたので、おそらく、小学生的には、技の名前と技の効果の対応を知るのが楽しいのだろう。映画プリキュアで変身シーンが延々と続くのと同様、小学生的にはツボの展開なのかもしれない。

宇多丸評では、リスナー評として、作品全体を通じて繰り返し登場する「死を美化する描き方」に対する否定的な意見があった。これはその通りなのだが、夢から覚醒する方法として自ら首を斬るシーンが繰り返される(原作では「絵」として見せているわけではない)のは個人的に勘弁してほしかった。
大人で駄目なのだから小学校低学年だとダメージが大きいのではないか。(平気と言われるともっと困る)

まとめ

原作と比べて驚くのは、この映画がほとんど原作通りであることだ。台詞もほとんど変えたり余計な追加をしていないのではないように思える。プラスアルファがあっても良かったかと思うが、足さなくても見せ方の工夫だけで十分魅力的な映画にはなっていたのは原作がすごいということなのかもしれない。

なお、自分が22巻までを読んで一番驚いたのは、柱の中でも明らかに中心人物*3と思える煉獄さんが序盤で死んでしまうことだった。(しかも、そっくりな弟がいるにもかかわらず後を継がない。)だからこそ、『鬼滅の刃』は読み進めるほどに、煉獄さんの不在を感じてしまう。少なくとも自分にとっては「そこまで」の存在だった。
そんな中で作られたこの映画は、「うまい!うまい!」の登場シーンからラストに至るまで、煉獄さんの追悼映画として十分機能しているので、「後半」部に書いたような不満はあるが、自分にとっては『鬼滅の刃』という物語でポッカリ空いた穴を埋める作品となった。


煉獄さんは、母親から受けた「弱き人を助けることは強く生まれた者の責務」という教えを大切にしており、自ら強くなろうと努力を続けながらもやはり目線は強さの先を見ているのではなく、弱い者の方を向いている。
そういった煉獄さんの優しさが、映画を観に来ていた子どもたちに伝われば良いなあと思った。

*1: カバネリは劇場版を未見なことに気がついた。見なくては…

*2:宇多丸評では、無限城の構造についても『インセプション』との類似が指摘されていたが、こちらも納得。もし実写映画化することがあれば、無限城を扱ってほしい!!

*3:蛇に似たキャラクターとライオンを思い起こさせるキャラクターがいて、蛇の方が長生きするとは普通思わない…

前向きな感情と言葉を取り戻すための技術~本田美和子『ユマニチュード入門』

ユマニチュード(Humanitude)はイヴ・ジネストとロゼット・マレスコッティの2人によってつくり出された、知覚・感情・言語による包括的コミュニケーションにもとづいたケアの技法。この技法は「人とは何か」「ケアをする人とは何か」を問う哲学と、それにもとづく150を超える実践技術から成り立っている。開発者と日本の臨床家たちが協力してつくり上げた決定版入門書!

ユマニチュードという言葉自体は最近知った言葉で、少し前に読んだ鳥羽和久『おやときどきこども』の中に取り上げられていた。本の中では、いじめなど小中学生の問題解決の中で、いじめる側、もしくは、いじめられる側に目を向けるのではなく、その「関係性」に目を向けるべき、との話があり、それが、ケアで使われるユマニチュードの考え方だと紹介されていた。

これについては、『ユマニチュード入門』にも当然書かれている。

ケアを行うのは病気や障害があるからですが、ケアの中心にあるのは病気や障害ではなく、ケアを必要とする人でもありません。その中心に位置するのはケアを受ける人とケアをする人との「絆」です。この絆によって、両者のあいだに前向きな感情と言葉を取り戻すことができるのです。p34

2度目の誕生に欠かせない、まわりの人からまなざしを享けること、言葉をかけられること、触られることが希薄になると、周囲との人間的存在に関する絆が弱まり、”人間として扱われているという感覚”を失ってしまうおそれがあります。
さらに立つことができなくなり、寝たきりになってしまうと、人はその尊厳を保つことが難しくなってきます。つまり人が人として生きていくことが困難になり、つらい生き方を強いられることになります。ですから、その人の周囲にいる人々はその状況を理解し、希薄になっていく絆を積極的に結び直していく必要があります。p36

つまり、ユマニチュードの基本は、人間の尊厳にあり、人は生物学的に生まれるだけでなく、他者によって認められることで「2度目の誕生」を経て、やっとその尊厳を得ることができる。
こう書くと、精神論のようにも聞こえてしまうが、実際にはユマニチュードは「技術」であり、「見る」「話す」「触れる」「立つ」の4つの行為を基本としている。
実際、自分は家族や近い親戚にケアが必要な人がいない状態でこの本を読んだが、技術として参考にできるところは十分あったと思う。特に「見る」「話す」は日常的なコミュニケーションを想定しながら読み進めた。

ユマニチュードで、病気や障害ではなく、関係性に目を向けるのは、「話す」技術として書かれているオートフィードバックの考え方にも表れている。
「オートフィードバック」は、「受取り手」からの返答(フィードバック)がない場合に、「送り手」がコミュニケーションを続けられるように、エネルギーを補給する方法として紹介されている。つまり、ケアを行う側が、いま実施しているケアの内容を「ケアを受ける人へのメッセージ」と考え、その実況中継を行うという方法だ。以下にp59の図を引用する。
f:id:rararapocari:20201103180750j:plain
本の中では、さらに具体的な場面を想定して、反応がない人へのアプローチの方法が紹介されており、ケアの現場の困難さを改めて思い知る。しかし、その困難との向き合い方が「適性」ではなく「技術」でカバーできる(p117)と考えること自体、ユマニチュードが、ケアを行う側への救いになるのだろうと想像する。

なお、ユマニチュードでは4つの基本にも入っている通り「立つ」ことが重視されている。ベッドで寝たままだと1週間で20%、5週間では50%の筋力低下を来す(p22)ということを考えると、重要であることはわかるが、転倒リスクとの兼ね合いがあり、巻末のQ&Aでも複数の質問に回答している。
また、現場における時間捻出の難しさについても言及されているが、時間がないのが問題ではなく、ケアの優先順位の問題であるとしている。「選択には常にリスクがともないます。リスクをとることを許さない社会であってはならないとわたしは思います。(p101)」という言葉もある通り、人間の尊厳を守ることが最優先であり、転倒のリスクをゼロにする(拘束する)ことをそれより優先すべきではないということだろう。

本は非常に読みやすく、「関係性に目を向ける」という部分について思考を掘り下げるということはできなかったが、今後、自分が介護する側される側になったことを考えても参考になった。
効率性を重視するあまり、尊厳を軽んじると、会社組織であれば離職に繋がるなど、結局、非効率になる。ケアという、もっと直接的に「人間の尊厳」と向き合う職業においても、効率や時間と常に戦わなくてはならないのは、映画『家族を想うとき』などでもまさに描かれていたが、絶対に優先しなくてはならないことがあるということを改めて知った。
コロナ禍で、コミュニケーションの形が大きく変わっていく中で、何を大切にしていくかは、コミュニケーションに関する本をもっと読んで勉強していきたい。

参考(過去日記)

pocari.hatenablog.com
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「地味な戦い方」にこそ意味はある~松田青子『スタッキング可能』

スタッキング可能 (河出文庫)

スタッキング可能 (河出文庫)

『あなた』と『わたし』は交換可能?

5階A田、6階B野、4階C川、7階D山、10階E木……似ているけれどどこか違う人々が各フロアで働いているオフィスビル――女とは、男とは、社会とは、家族とは……同調圧力に溢れる社会で、それぞれの『武器』を手に不条理と戦う『わたしたち』を描いた、著者初の小説集が待望の文庫化! 

「スタッキング可能」「ウォータープルーフ嘘ばっかり!」「マーガレットは植える」「ウォータープルーフ嘘ばっかり!」「もうすぐ結婚する女」「ウォータープルーフ嘘ばっかりじゃない!」「タッパー」の7編から成る短編集。
裏表紙のあらすじは、珍しく導入だけでなく本質の部分に触れた内容だ。


あらすじに「女とは、男とは、社会とは、家族とは……」なんて書いてあり『持続可能な魂の利用』と似た空気を感じつつも、実際にこの短編集を読み進めると、予想外にトリッキーな小説集となっている。トリッキーというのは、内容よりも「ガワ」に工夫を凝らしているという意味で、まるで清水義範の短編集を読んでいるような印象を受ける。

特に大きいのが「ウォータープルーフ嘘ばっかり!」。3篇(実質4編)にまたがって、「青年の主張」のような、「掛け合い漫才」のようなアラサー女性の心の叫びが書かれる、この短編は、まさに奇をてらった感が強い。確かに同調圧力に抵抗するような主張もあるが、語りかけている相手が実は…というラストの話も含めて、トリッキーかつ単純に面白い話だ。


一方、「スタッキング可能」というタイトル作は、A田、B田、C田、A山、B山…と沢山の登場人物の会話が描かれるが、別々の人物の発言も内容が似過ぎていて、どれがどれかわからなくなってしまう変わった小説だ。
この短編が、タイトル通り、今の日本社会で生きる中での、自分と他人との間の「取り換え可能」感について書かれた本であることは、タイトル作だけでなく「もうすぐ結婚する女」でも「タッパー」でも同じテーマを扱っていることからもわかる。
穂村弘の文庫巻末解説は、トリッキーな部分も「取り換え可能」な部分も含めて全体を評価している。これまたうまいまとめ過ぎて、ブログに感想を書く気をなくしてしまうほどだったのだが、最後の文を引用する。

本書に収められた作品たちは、絶望と希望の塊のようだ。二十一世紀の生温い絶望をぎりぎりまで圧縮することで希望に転化する力を秘めている。(略)

表題作のラストシーンでは「スタッキング可能」という言葉がくるりと反転して光が溢れ出す。それは、「わたし」と「あなた」は時間を超えて繋がれる、って意味だったんだ。

この指摘(「わたし」と「あなた」は時間を超えて繋がれる)は、明確に書かれているわけではないが、どこを指しているかは明確だ。

『わたし』は絶対それが普通だって思わない。『わたし』は絶対おもねらない。だまってずっと、おかしいって、馬鹿じゃねえのおまえらって、心の中でくさし続けてみせる。頭の中にあるデスノートに名前を書き続けてみせる。だって誰かがおかしいと思ったから、いろんな場所でいろんな人が同じように思ったから、声に出した人だけじゃなくて、声に出せなかったとしても思い続けた人がいたから、たくさんいたから、たった20年くらいでこんなに違うんでしょ。だから思い続ける。(略)
そのために、誰にも侵されない難攻不落の『わたし』をつくる。会議室にあるみたいなスタッキング可能のイスを重ねてバリケードをつくる。(略)
そうすれば、きっと消えない『わたし』が残る。消せない『わたし』がそこに残る。どうかなあ、こういう戦い方は地味かなあ、少しも意味がないのかなあ?
p92

つまり、自分の考えていることが、いかにつまらない、他の人と代り映えしない意見だとしても、考えることに意味はある。
SNSの書き込みを見て、違和感があったとして、それを書き込まないからと言って、その違和感が「ない」ことにはならない。「おかしい」と考え続けることには絶対に意味がある。
『持続可能な魂の利用』 の感想と重なってくるが、デモをしたりSNSで意見を発信しなくても、個人個人が考え続ける「地味な戦い方」に、自分は、今、興味がある。社会的な問題に対しては、信頼できる政治家がいて、そこ(政治)に期待する というのが、本来は手っ取り早いのかもしれないが、それが出来ない、と考えていることも大きい。


「わたし」と「あなた」は時間を超えて繋がれる、と穂村弘は書いたが、今現在の多数派でなくても、過去、未来まで含めば、多くの人数に、大きな力になるかもしれない。

だから大切なのは、おかしいと感じたことは、消さずに積み重ねて 「誰にも侵されない難攻不落の『わたし』」をつくることなのだろう。TwitterGoogle先生が「わたし」をつくるのではない。自らの感覚の積み重ねこそが「わたし」をつくり、社会を変えていくことに繋がる。
そういうことを『スタッキング可能』の短編は言おうとしているのだと思う。
松田青子さんは、2作とも良かったので、もっと読んでみたい。

読めよ、さらば憂いなし

読めよ、さらば憂いなし


参考(過去日記)

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圧倒的な強度とリーダビリティ~山口貴由『シグルイ』

読んだきっかけ

最近、携帯の漫画アプリで漫画を読む習慣がついた。
何故「習慣」がつくかといえば、アプリの仕組みと関係する。色々なアプリがあるが、今使っている「LINEマンガ」と「マンガBANG」で対象作品を無料で読もうとした場合のルールは次の通りだ。

  • LINEマンガ:対象作品は1日1話読める(CMを見ると追加で見ることのできる作品もある)
  • マンガBANG:対象作品は、7時と19時に付与されるメダルで4話ずつ見ることができる。それ以外にCMを見ると5話追加で見ることができる。

したがってマンガBANGでは、1日に1巻程度のマンガを読み進めることができるのだが、それぞれ持ち越しができないので、出来るだけ無料で読んでやろうという浅ましさから、追われるようにしてマンガを読み進めるのだ。
自分は、これで7月以降、刃牙シリーズは『グラップラー刃牙』『バキ』『範馬刃牙』『刃牙道』と読み終えた。刃牙シリーズが対象とならない期間には、『サバイバル』と『自殺島』を読んだ。(これらのうち特に『自殺島』についてはちゃんと感想を書いておけば良かった…)
そして『刃牙道』の次のシリーズ作品である『バキ道』がまだ対象作品に入っていないので、何を読もうかと思ったときに目についたのが『シグルイ』だ。


山口貴由さんは、以前kindleのお試しで『覚悟のススメ』『エクゾスカル零』の2作品の1巻を読んだ覚えがあり、独特の雰囲気を持つ作家という印象はあった。
しかし、読んだことのある2作が仮面ライダー的なビジュアルに惹かれたのに、『シグルイ』は苦手な歴史物ということで、心配はあったのだが、読み始めると次が待ちきれないほど楽しんで読み終えてしまった。
ひとつ忘れていたが、時々聴いている映画評中心のpodcast番組「二九歳までの地図」でも取り上げていたことがあり気になっていた。

シグルイ』について

物語はいきなりクライマックスから始まる。場面は、2人の異形の剣士が「駿河城御前試合」で真剣を用いた勝負を行おうとするところ。
2人は隻腕対盲目で、特に盲目の剣士が見たことのないような構えで、1巻の冒頭から「異様」な空気が充満している。


自分は、これを『刃牙道』のあとに読んだのだが、『刃牙道』=「刃牙」+「武士道」(宮本武蔵)の話であり、真剣を使った闘いも登場することから、非常に自然な流れで読むことができた。
しかも、刃牙道→シグルイの順序も良かった。というのは、もし逆だったら、板垣恵介は『シグルイ』をやりたくて『刃牙道』を始めたのではないか?疑ってしまうほど『シグルイ』の面白さが圧倒的だからだ。
例えば、実際に斬る前に、イメージで斬る/斬られるが成立してしまう場面が『シグルイ』に何度も登場するが、『刃牙道』で武蔵が繰り返すのは、このような戦い方だ。
また、『刃牙道』の武蔵は刀を持たなくても「最強」なのだが、シグルイの2人、というより「虎眼流」という流派自体、刀が無くても強い。
2019年7月に行われたトークショーの記事を見ると、山口貴由板垣恵介は、同じ小池一夫劇画村塾の出身で、山口が5期生、板垣が6期生で、いわば兄弟子、弟弟子の関係にあるのかもしれず、お互い影響し合っているところはあるのかもしれない。


閑話休題
その後、物語は、二人のライバルの出会いのシーンに遡ることになる。
2人は以下のように水と油。

  • 藤木源之助:主人公的だが、明るさの無いキャラクター
  • 伊良子清玄:艶のあるキャラクター。役回りとしてはダークヒーロー。

もともと伊良子が「虎眼流」の道場に道場破りに来て藤木に勝ち、兄弟子に敗れ、入門するところから二人の物語は始まる。
そして、中盤まで物語の空気を作るのは、虎眼流の始祖である岩本虎眼の非人間的な、もっといえば怪物的なキャラクター性。刃牙にも「範馬勇次郎」というバケモノ的なキャラクターがいるが、それとは全く異なる、理不尽で怖い「異物」としての強さを岩本虎眼が持っている。
勿論、終盤、真剣での御前試合を決めた徳川忠長(秀忠の息子で家光の弟、家康の孫)の異常性、残酷度も際立つが、岩本虎眼の存在感と比べれば、ただの暴君に過ぎないとすらいえる。


このように、物語世界全体を監視するようなキャラクターの存在によって、特に虎眼流にずっと身を置いた藤木は緊張感の中で生きることになる。そのような中で自由に生きる伊良子の魅力は特に光る。
ところで、マンガBANGに限らず、他のアプリも同様なのかもしれないが、アプリ上の処理として、「修正」が頻繁に入り、例えば女性が胸をはだけているシーンは黒く塗られる。『自殺縞』で言うと最終17巻など、コミックス表紙にすら修正が入るほど厳しく、『シグルイ』では、残酷シーンや性的シーンで、何が行われているのか全く分からない場面が数か所あった。伊良子もそうだが、終盤に登場する女剣士・舟木千加については、彼女が半陰陽であることと絡めて性的なシーンが複数登場するのだが、内容が全く分からない修正具合で残念だった。


と簡単に内容のポイントを書いてきたが、本作は、南條範夫の時代小説『駿河城御前試合』を原作としており、徳川忠長など実際の歴史上の人物が登場することによって「実際にあった話なのかもしれない」の思わせる強度がある。
そして、携帯で読んでも全く読みにくさを感じない勢いがある。(刃牙を読んでいるときは、これ以上読みやすい漫画はないのでは?と思っていたが、それに勝る)
面白かったので「また読みたい」本ではあるが、独特の緊張感を強いられるマンガなので、読み返すのはもう少し時間が経ってからでもいいかもしれない。
原作とは異なる部分も多いということだが、原作小説に手を出してみようかとも思ったが、『刃牙道』の流れで、宮本武蔵本も読みたい。

駿河城御前試合 (徳間文庫)

駿河城御前試合 (徳間文庫)

腕KAINA~駿河城御前試合~(1)

腕KAINA~駿河城御前試合~(1)

五輪書 (ちくま学芸文庫)

五輪書 (ちくま学芸文庫)

大帝の剣 1 (角川文庫)

大帝の剣 1 (角川文庫)

絶望からほんの少しでも希望を~松田青子『持続可能な魂の利用』

持続可能な魂の利用

持続可能な魂の利用

現代日本に絶望する気持ちがとても伝わる作品だった。
もう少し詳しく言えば、「おじさん」が支配する現代日本に絶望する気持ちがとても伝わる作品だった。


冒頭、印象的な一文で物語は始まる。

「おじさん」から少女たちが見えなくなった当初は、確かに、少しは騒ぎになった。それは否定しない。

SFなのかと思いきや、基本的には現代日本を舞台として、アラサー女性数人の目を通して日々の出来事や思いが語られる。ときどき未来人の高校生女子?が登場し、 学ぶべき「歴史」 の一部として、現代日本の状況を説明する。
そして、その双方が語る題材として、最初から最後まで、「おじさん」と「アイドル」が登場する。
特徴的なのは、「アイドル」として、具体的なグループが取り上げられることだ。小説中では「××をセンターに据えたグループ」という形で、そのメンバーの一人である××が常に話題の中心にある。
そして、そのグループが欅坂46で、××とは、その絶対的センターと言われた平手友梨奈であることが明確であることに、かなり興味を惹かれた。

しかし、まず、そのことは置いておこう。

敬子から見た日本の女の子たち

メインの語り手の敬子は、あるきっかけで会社を辞めて、しばらくカナダに住む妹・美穂子とエマ(美穂子のパートナー)の家で暮らす。カナダから日本に戻った羽田空港が彼女の初登場シーンだ。

敬子は、信じられないような気持ちで、彼女たちのことを見た。衝撃、としか形容できないショックを敬子は受けていた。
日本の女の子たちは、とても頼りなく見えた。p21

敬子が抱いたこの印象はこのあと何度も表現を変えて繰り返される。

いい世界を、少しも自分と結びつけて考えることができない。日本の女性はずっとそういう状態なんじゃないか。
美穂子とエマの生活が頭に浮かぶ。美穂子は日本にいた頃が嘘のように伸び伸びとして、外で人種差別にあっても、いきいきと怒っていた。p112

この小説では、外国の視点から、もしくは未来人の視点から、日本社会の歪な部分が語られる。
上の引用が特徴的だが、カナダで「差別がない」のではない。差別があっても「いきいきと怒る」ことができるかどうかが問題にされている。

もし日本がもっと違ったら、もっと対策がちゃんと取られていたら、今のように耐えたり、ストレスを感じたり、声を上げたり上げなかったり、戦っている時間を、日本の女性たちはどう過ごしていただろう。ストレスや悲しみや怒りや諦めのかわりに何を感じていただろう。それが本当に想像できない。
魂は減る。
敬子がそう気づいたのはいつの頃だったか。
魂は疲れるし、魂は減る。
魂は永遠にチャージされているものじゃない。理不尽なことや、うまくいかないことがあるたびに、魂は減る。魂は生きていると減る。だから私たちは、魂を持続させて、長持ちさせて生きていかなくてはならない。そのために趣味や推しをつくるのだ。p113

この部分がタイトルに繋がってくる。
敬子は、年を追うごとに減っていく魂について「私は私の魂が死なないように、どこかに預けたんじゃないか」と考える。そして、日本に帰ってきてから熱心に活動を追い始めた××たちにこそ、預けた魂が籠っていると感じる。
「だから、見届けなくてはならない。(略)なにしろ、彼女たちは自分の魂なのだから。」と。

敬子から見た××

「日本の女の子たち」に辛さを見てしまう敬子のような人物がアイドルにハマるのは相当奇妙だ。だけでなく、いわゆる「AKBグループ」のアイドルだからこそのさらなるアンビバレンツがある。

けれど、××の所属するグループをどれだけ気に入っても、好きになっても、このグループもまた、ある頃から日本で主流となった、量産型のアイドル体型の一部である事実から目を背けることはできなかった。(略)
後ろにあの男がいる。女の子たちを操るたくさんの男たちがいる。その構造が常に維持されてきた。
一度意識してしまうと、群れるな、他者と違うことを怖れるな、と完ぺきに同じ動きで歌い踊る彼女たちが、なにか悪い冗談のように、大きな矛盾であるように思えた。p41

しかし、わかっていてもなお、いや、わかっているからこそ××を好きになる。

敬子は××たちから目を離すことができない。たとえおなじみの構造の中とわかっていても、はじめから負けが込んでいるとわかっていても、それでも、トライすることを選んだ彼女たちから。その先になにがあるのか、敬子は見たい。知りたい。それは、鏡のように似通った構造の中で生きている恵子たち自身のその先でもあるはずだから。p70

秋元康の存在があるから、AKBグループを素直に応援しにくい、というのは、男の自分にとっても似た感情があるので、このあたりの葛藤はとても面白く読んだ。

そして、未来人が語るアイドル論が読みごたえがある。
女性から熱狂的に支持される韓国の女性アイドルグループを、日本の中高年男性(「おじさん」)が受け付けなかったことについて、未来人の女子高校生たちは「日本の女性アイドルは、長きにわたり、日本人男性のために存在していたp206」と分析する。
その上でこう説明する。

その中で、××たちグループの位置づけが特殊であることは、やはり間違いないことでした。男性のためのアイドルとも、女性のためのアイドルとも、断言できない独自性が彼女たちにはあったからです。p208

ちょうどこれを書いているときに、NHKのSONGSで、欅坂46のラストライブ(10/12,13)の様子とその足跡、そして、改名した櫻坂46としての出発について語られていた。勿論1月に脱退した平手友梨奈は番組には出演していなかったが。
これまであまりしっかりと見たことのなかった欅坂46のパフォーマンスは、確かに独特の振り付けと合わせて印象的で「独自」と呼ばれるのもわかる。そして、平手友梨奈の存在感が圧倒的だというのも、映像を見るとよくわかる。
ここまで人気のあるグループが何故改名?と思っていたが、「欅坂」の名前は平手友梨奈の存在ありきなのだろう。

憎むべき「おじさん」

未来人たちが、体験型学習として、「制服」を着たときの感想には、耳を塞ぎたい、隠れたい気持ちにさせられた。

これを強制的に着せられ、毎日学校に通っていた「女子高生」の気持ちをわたしたちは想像してみた。
かわいそう。
真っ先に頭に浮かんだのがそれだった。
不自由でかわいそう。
気になったのは、単に着心地のことだけではない。わたしたちは、歴史的に「女子高生」の「制服」がどういう意味を持っていたのか、すでに学んでいた。
「女子高生」、そして彼女たちの「制服」は、性的なものとして考えられていた。
はじめてそう習ったとき、わたしたちは驚きで言葉を失った。重い沈黙がわたしたちの間にあった。
たとえば、わたしたちが今ただこうしているだけで、道を歩いたりしているだけで、性的な存在とされるなんて、普通に考えて意味が通らない。理解できない。p116

未来人は、「この時代」を「恐ろしい時代だった」と総括する。「普通に考えて意味が通らない。理解できない」世界なのだから、そう考えるのも当然だろう。
そして、「おじさん」としての加害性を持ち合わせない男性はいないだろう。


敬子が辞めた職場の後輩である香川は、十代の頃、満員電車での痴漢を理由に制服を呪っていた。勿論「おじさん」を憎んでいた。しかし、その後に気がつく。

けれど、高校を卒業し、同時に制服からも解放されたはずの歩は、新たな制服に自分は手を通しただけなのだと、じきに気づくことになった。
日本社会は、常に女性に制服を課しているようなものだった。女性に「望ましい」とされる服装とメイクが社会通念として存在し、それが人生のどの段階に進んでも、彼女たちを縛った。その基準に倣っていないときでも、心のどこかで、自分が基準から外れていることを意識してしまうくらいに。女性のためにあるはずの女性誌でさえ、女性を縛った。p125


香川のさらに後輩にあたる真奈は、隠してはいるがアイドルだった過去がある。「おじさん」の視線のおぞましさに気がつき、アイドルを辞めたあと、アニメに嵌っている。

アニメは強い。
今、目の前で、長い手足や豊満な胸をさらけ出して、強大な敵と戦っている魔法少女は、真奈の視線に絶対に負けない。そう思うと、真奈は安心できたし、救われた。
アニメを見ているとき、真奈は、「ぼく」と同じ視線をしている自分に時々気づかされる。その視線を持つ権利を、ファンの特権を、真奈はずっと欲していた。魔法少女の健やかな美しさを、デフォルメされた肉体を、いつまでも目に焼きつけていたかった。エロい、と無邪気にほくそ笑んでいたかった。自分に肉体があることを忘れ、見る側に徹していたかった。p141


「おじさん」の視線は、それによって傷つく人間がいるということを無視したハラスメントであることは、敬子のパートでも語られる。
自分はあまり知らなかったのだが、数年前にSNS上で問題にされたという「声かけ写真展」(素人カメラマンが公園などで声をかけて被写体にした少女たちの写真を展示する)について触れたあとの文章を引用する。

こういった「おじさん」による被害に、思えば、敬子は、日本の女性たちは、幼い頃から対峙してきた。
自分たちをなめるように見る視線、あわよくば何かできるのではと近づいてくる大きな体、突如として発せられるグロテスクな言葉、そしてそのすぐ延長戦上にある痴漢や盗撮といった犯罪。犯罪であるはずなのに、十分な対策が取られないまま何十年も経った。p99

最近になって、「声かけ写真展」のような、素朴のようでいて、実は「被害者」を産んでいる事象が見過ごされなくなってきたのは良いことだろう。しかし一方で、女性専用車両に対して「逆差別だ」と騒ぐ男性がいたり、そこにわざわざ乗り込む男性がいたりすることは、同じ男として恥ずかしい。
だから、彼女たちが「おじさん」を憎むことに対しては、ひたすら謝る気持ちしか湧いてこない。

山崎ナオコーラ、イ・ミンギョン、アルテイシア

(ここでは、いったん『持続可能な魂の利用』以外の本について触れる。)
しかし、「おじさん」を全面的に敵として捉える考え方を、『ブスの自信の持ち方』で、山崎ナオコーラさんは否定する。本の中では、彼女も同じような経験をして「おじさん」全般が大嫌いだったが、年を重ねるにつれ「おじさん」に対して偏見や差別意識を持っていることを自覚しだしたという。
さらには、女性蔑視をする男性を「ある意味では被害者」とさえ考えた上で、「必要なのは、男性を責めることではなくて、社会を変えることではないだろうか」(p290)とさえ書く。(これらの内容は同書 第24回「痴漢(3)」、第28回「強者の立場になってしまうこともあるという自覚」、第29回「『おじさん』という言葉」で述べられている)

ブスの自信の持ち方

ブスの自信の持ち方



これとは対極にあるのが、イ・ミンギョン『私たちにはことばが必要だ フェミニストは黙らない』で、この本では、女性蔑視発言者に対して、発言者の立場に立って考える必要などはないと全否定する。つまり、女性が、性差別に対して男性を「説得」するのは「善意」であり、そこでの苦労を女性が強いられるのは筋違いだと考える。

山崎ナオコーラさんの意見は、誰を敵とすべきかよくよく考えて、自らの偏見とも向き合いながら考えたいというものだ。彼女個人としての考え方としては、当然あり得るとは思うが、共感を得にくい独自色の強い意見だと思う。

被害を受けた側が、助けてほしいと声を上げにくい雰囲気を作ってはいけない。自らと向き合ったり勉強を続けたりすることは誰にでも出来ることではないし時間がかかる。『私たちにはことばが必要だ 』という本のタイトル通り、必要なのは「勉強」ではなく「ことば」だ。強烈な本だったが、その重要性がわかっただけでも自分にとっては大きな意味のある読書だった。
そして、この本を読んだとき、男性側に求められることは、ひたすら勉強を続けることだと思っていた。

私たちにはことばが必要だ フェミニストは黙らない

私たちにはことばが必要だ フェミニストは黙らない



しかし、最近公開された「#性暴力を見過ごさない」という動画を見て、勉強以外に手っ取り早く男性側に出来ることがあると知った。

#ActiveBystander=行動する傍観者

キーワードはActive Bystander(行動する傍観者)だ。
動画について脚本に携わったアルテイシアさんの説明が分かりやすい。

海外には性暴力の非当事者の介入プログラムがあり、そちらの文献によると「性暴力を見過ごす人(passive bystander)」と性暴力に介入する人(active bystander)の二種類が存在するらしい。

つまり性暴力の現場に居合わせた人はみなbystanderであり、その中に行動を起こすbystanderと行動を起こさないbystanderがいる、という概念のようだ。

性暴力やセクハラの現場に居合わせた時、「自分には関係ない」と見て見ぬフリをする人もいるだろう。
一方で「本当は行動したいけど、自分に何ができるかわからない」と動けない人もいると思う。

そんな人々に向けて、今回の動画では様々なシチュエーションを描いている。

(略)
「自分には関係ない」という無関心が、加害しやすい社会を作ってしまう。

加害の現場に居合わせた時、その場で加害者のうなじを削ぐのは無理でも、被害者に声をかけることはできる。
「あなただったら、どうしますか?」とJJは質問したい。|アルテイシアの熟女入門|アルテイシア - 幻冬舎plus


自分は痴漢をしないから関係ない、痴漢をする男が少しでも減ってほしい、と考える「だけ」では、むしろ、「加害しやすい社会」づくりに加担してしまっているかもしれない。
最近読んだ『ベルリンうわの空』も、先ほど挙げた『ブスの自信の持ち方』も、政治に頼らずに「社会を変える」ことを志向しており、自分に何ができるかは最近の自分のテーマだ。
何かがあったときにActive Bystanderとして行動できるよう、心の準備をしておく、それも微力ながら「社会を変える」ことに繋がるだろう。

絶望の底からほんの少しでも希望を

この小説は、今自分が暮らしている日本の現状を嘆きすぎていて辛い。
最後の最後に、ひとつ大きな嘘設定が入り、日本政府の女性への無策が「故意」であったことが分かるのだが、このときの敬子の感想が怖い。

確かに、なんの裏もなく、普通にこうだったとしたら、本当に最悪な国でしかなかっただろう。(p218)

日本は「 普通に考えて意味が通らない。理解できない。」だけでなく、「普通にこう」である「本当に最悪な国」なのだ。ここまでこの小説を読み進めると否定できない。

だから、最後に、あり得ないかたちで示される希望も、ほとんど「やけくそ」に思えてくる。ラスト近くの「最後ぐらい好きにさせろ」が強烈だ。

そして今、世界中で「おじさん」によって運営されてきた世界が衰退し、危機に瀕している。それはつまり、「おじさん」のつくったルールが間違っていたということだ。進化論を出すまでもなく、生存を脅かす種は淘汰されてきた。ならば人類の生存を脅かす「おじさん」が絶滅すべきだったのに、ここまできてしまった。もう後戻りのできないところまで。
日本はもう終わりが決まっているなら、わたしたちは見たかったものを見る。終わるなら終わるで、最後ぐらい好きにさせろ。p235


この小説は『82年生まれ キム・ジヨン』と同様、現代日本を生きる女性の生きづらさが率直に語られているし、男性側にそれが伝わることは意味のあることだろう。(もちろん女性側でも同じような「生きづらさ」を感じない人もいるかもしれないが)
本当は政治にも動いてほしいところだが、いまだに夫婦別姓すら認めない現政権には対する期待度は低い。
だからこそ、絶望を絶望のままで終わらせてはいけない。
キム・ジヨン』と同様に、この小説で投げかけられたものは、社会の側が受け取って、少しでも「希望」に繋げなくてはならない。そういった作品と感じた。
ほんの少しでも希望の持てる社会にするためには、勉強を続けるだけでなく、Active Bystander(行動する傍観者)としてふるまえるよう準備をしておくことが必要だと思った。