Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

「羅生門」形式 or not ~『悪なき殺人』×朝井リョウ『桐島、部活やめるってよ』

ドミニク・モル監督『悪なき殺人』

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とても見ごたえのある映画で、大満足だった。
この映画は、同一の事件を 、 登場人物それぞれ別の視点から描くことで、事実が明らかになっていく「羅生門」スタイルを取る。同一事件を語るので、時系列は行ったり来たりするが、あまり混乱もせずに伏線が回収されていく、その構成が見事過ぎて「傑作!」と言いたくもなる。

が、これが、フランスのみを舞台にしていたら、これほど「大満足」な作品ではなかっただろう。自分がこの作品を好きなのは、やはりもう一つの舞台であるコートジボワールにある。

監督もそれを意識しているのであろう。冒頭のシーンはコートジボワールの喧騒の街アビジャンから始まる。しかし、最初の1~3章「アリス」「ジョゼフ」「マリオン」はあくまでフランスが舞台で、「いつになったらアビジャンの街に戻るのか」と観客は焦らされる。
ラストとなる4章目でやっとアビジャンの街に移るのだが、そこでの映像がドキュメンタリー風なのも良いアクセントになっている。

ネタバレは後半に回すが、『悪なき殺人』は、舞台がフランスとコートジボワールと大きく離れた場所にあるのに、「羅生門」形式が成立してしまうという意味でも面白い作品だった。

朝井リョウ桐島、部活やめるってよ

朝井リョウの著作をよく読む人にとっては「今さら?」という話だが、これまで読んだ朝井リョウ作品は、すべて複数の登場人物の視点で同じ時期の出来事を語るスタイルが取られ、これは『悪なき殺人』と似ている。

しかし、これが「羅生門」スタイルなのか、と言えば、それは違うということになる。
朝井リョウの複数主人公形式は、叙述方法のトリックによって、真実を徐々に浮かび上がらせる効果をそこまで狙っていないからだ。
彼の作品は、「真実」や「伏線回収」よりも、「人それぞれで見ているもの、考えていることが違う」ことそのものに重きが置かれる。
そして『桐島、部活やめるってよ』の最大の特徴である「桐島が出ない」ことも、「桐島は桐島で別のことを考えていた」という結論に辿り着くように書かれている。
つまり、真実というゴールが一つあり、そのかけらをそれぞれが持っているのではなく、誰もが別々のゴールに向けて生きていることが描かれる。


だから、作者の分身なのかもしれない菊池に少しだけ重きが置かれていても、彼がメインということではなく、6人(文庫では7人)は対等に書かれているように感じる。
読む前は、スクールカーストが描かれているというイメージがあったが、例えばスクールカースト上位者を悪者に仕立て上げ、下位者が救われるというような話には全くならない。誰もが17歳の人生を悩んでいる。


文庫版解説は、映画版を監督した吉田大八。名解説から、この小説の驚きのポイントを引用する。

当時19歳の作者が同世代の気持ちをここまで徹底的に対象化、描写し得たことには素直に驚く。その頃の自分の余裕の無さなんか思い出して、さらに。もちろん「気持ち」を意識しない訳じゃないんだけど、それをほぼリアルタイムで精細に出力するパワーとコントロールのバランスが絶妙。

大人になってから(安全圏に逃げ切ってから)、ある程度の余裕をもって振り返るのとは訳がちがう。美化された回想でも、現場からの荒々しいレポートでもなく、ギリギリの距離感で触れたか触れないか、そんな生々しさ。そりゃ第二十二回小説すばる新人賞くらい獲って当然、だったのかもしれない。


まさにその通りで、19歳でこれを!というのは衝撃だった。
作中で頻繁に、チャットモンチーRADWIMPS、『ジョゼと虎と魚たち』や『百万円と苦虫女』…etc、具体的な音楽、映画のアーティスト名、作品名が出てくるところは、最初はあざとい感じもしたが、吉田監督の書くような「ギリギリの距離感で触れたか触れないか」のバランスが絶妙で、もはや、取り上げる音楽や映画よりも、「そんな音楽が好きな彼ら一人一人」の方に思いが向かう。作者の狙い通りに、自分はこの小説を読んでいるな、と、してやられた気持ちになりながら楽しくなる。


文庫解説は以下のような文章で終わる。『正欲』という作品を読むと、吉田監督の期待通りの作家に、朝井リョウはなっているのだと思う。

もしこの先世界がもっと深い闇に迷うことがあったとしても、微かな「ひかり」をすくい上げる朝井さんの感覚は、ますます研ぎ澄まされていくに違いない。
それが学校の外へと向けられたとき、僕らが感じるのは救いだろうか。それとも徹底的に救いの無い何か、だろうか?
個人的には、後者にも期待している。

映画版も見返したい。


『悪なき殺人』ネタバレ

この映画の面白いのは、やはり第4章だ。
アリスが主人公の第1章「アリス」が終わり、そこに出てきたジョゼフが主人公の第2章「ジョゼフ」が始まる。
第3章は「マリオン」だが、冒頭からそれまでに出てきていなかった女の子が登場し、彼女がマリオンだとわかる。そしてこの3章では、アリスの夫ミシェルが、それまで何の接点もなかったマリオンに接触を図る謎展開で終わる。
普通に考えれば第4章は「ミシェル」のはずなのに4章タイトルとして、突如「アマンディーヌ」という聞きなれない名前が初登場。そして舞台はアビジャンに飛ぶ。


章の名前と舞台が一気に飛んで、カメラは、街の不良グループが「ロマンス詐欺」を働く現場を映す。観客は、3章ラストの謎展開までの流れが一気に理解できるので、アマンディーヌという架空少女になりすましたアルマンとミシェルのチャットのやり取りが面白くてたまらない。画面を眺めてニヤニヤするミシェルの名演も素晴らしく、この時点で5億点だ。

さらに楽しいのは、本当に不良にしか見えないアルマン(実際、本当に不良をスカウト…)が、ミシェルから振り込まれたお金でクラブでパーティを開き、DJから「将軍」とはやし立てられるシーン。アビジャンでの映像はドキュメンタリーっぽい撮影になっているのも併せて最高に上がる映像。


パンフレットを見ると国をまたいだロマンス詐欺は、広く行われていており、コートジボワールでは、詐欺先進国のナイジェリアとガーナから手口を学び、フランス、ベルギー、カナダのケベックのフランス語圏をターゲットにしているという。
日本では言語の壁からあまり問題になることは無かったが、最近は変わってきているというので要注意。

そんな中、日本語を話す中国語圏のロマンス詐欺師が、日本人男性をカモにするケースが増えています。中国語話者は漢字がわかるので、日本語の習得が容易です。そして、このパターンの主流は、ロマンス詐欺とFX投資詐欺を融合させたハイブリッド型です。恋愛関係を構築した後、FX投資させ、投資金を詐取します。

実際、好きになった相手が実在しないと知ったら大ショックだろう。スクリーンの中に映るミシェルは馬鹿な男だが、詐欺によって受けた金額以外の打撃は計り知れない。


なお、英題は『Only the Animals』、邦題は『悪なき殺人』で、どちらもピンと来ないし、あとから思い出せないタイトルだと思う。邦題のつけ方によっては大傑作になっていたのでは?と思うと、ちょっと残念だ。

桃鉄に欲しい「保安条例」カード~なだいなだ『TN君の伝記』

前半の感想はこちら↓
pocari.hatenablog.com


『TN君の伝記』の後半の話は、特に今の政治の風景と重ねながら読んだ部分が多かった。
日本の歴史をしっかり辿ったのは中学校時代以来だが、当時は政府側目線で学んできたものが、庶民目線で見返すと違って見え、今の政治とリンクしてくる。
以下では(1)天皇の政治利用(2)言論統制(3)帝国主義の時代の3つのトピックを挙げるが、いずれも政府側が「政府を否定しにくい状況をどう作るか」に腐心しているあからさまな様子がよくわかる。
今の政府にも「あからさま」な人がいるが、この頃の政治状況は頭に浮かんでいるのだろうかと思う。

(1)天皇の政治利用

『TN君の伝記』を読むと、明治時代の薩長藩閥政治の得意技、というか最後の武器は「天皇」だったことがよくわかる。
以下、征韓論の否定、西園寺公望の籠絡、国会開設の詔勅の3つの事例を挙げて、それぞれについて説明する。


岩倉使節団が帰国する前の明治6年1873年)、外交上の問題と士族の不満が重なり征韓論が盛り上がり、西郷隆盛は、朝鮮へ使節団を送る(実際にはそれに伴い難癖をつけて出兵する)ことを決定してしまう。
帰国した岩倉、大久保はこれに反対し、西郷隆盛をはじめ圧倒的多数の征韓派を抑えるために天皇を利用する。

参議の多くは、多数決で、ことがきまったと思っていた。だが、天皇に結果を伝え、天皇の意志を再議たちに伝えるのは、太政大臣代理岩倉の役割である。(略)天皇に参議たちは直接に会えない。だから、天皇の意志を確かめられない。そして、自分の意見を天皇の意見として、決定をひっくり返したのだ。だが、西郷派の参議たちは、天皇の意志というものが、全くの形式であることを知りながら、それを拒むことが出来なかったのである。p134

これによって、西郷隆盛(薩摩)、板垣退助後藤象二郎(土佐)、江藤新平肥前)たちは辞職して政府を去り故郷に戻り、大久保が独裁的な権力を握ることになる。
この流れで、大久保に対抗する手段として、板垣・後藤(土佐)、江藤・副島(肥前)らが「民選議院設立建白」をまとめ、国会開設を求めることにつながる。
本に書かれているように「建白の出発点は、明治政府内部の権力争いから生まれた、政争の道具だった」というのは、あーそうだったのか!という感じだ。
とはいえ、建白によって、一般の人々が広く議論をかわすきっかけとなり、TN君がはじめた私塾も大いに盛り上がることになる。


物語の中で、次に岩倉が「天皇の意志」を使うのは、大久保利通暗殺後、伊藤博文が内閣を仕切るようになっていた頃、東洋自由新聞に対してだ。
東洋自由新聞は、既にルソー「民約論」の翻訳で有名になっていたTN君が社説を書き、TN君がパリから呼び寄せた西園寺公望(「日本のミラボーフランス革命で貴族ながら庶民の立場で運動した)」になろう!と口説かれた)が社長を務める。
社長が名家の公家ということもあり影響力が強く、それによる民権運動の盛り上がりを恐れた政府は、西園寺を新聞から切り離そうと手を尽くす。
色んな脅しの手を使っても屈しない西園寺。しかし、「天皇の意志」には折れてしまうのだった。

結局、西園寺は、天皇の意志という言葉から自由になれなかったのだ。
当時でも、天皇の意志にそむく罰というものは法律になかったのだが。p247

結局、西園寺退社に関する国の圧力の公表をめぐる厳罰等をきっかけに新聞は廃刊になる。


廃刊の3か月後に大きな出来事が起こる。
北海道開拓使の官有物払い下げのスキャンダルだ。政府の中で孤立しかけていた大隈が新聞社に漏らしたこの事実に日本中は怒り心頭。(『青天を衝け』でもその様子が見られた。)
盛り上がった反政府運動に対して、伊藤、岩倉らは、開拓使官有物払い下げの中止と、国会開設の詔勅(10年後の国会開設を約束)、また大隈重信を辞めさせることを決める。(明治14年の政変
この後の動きを見ると、この詔勅が非常に有効な「天皇の政治利用」だったことがわかる。
詔勅のアイデアを出したのは、TN君が以前から警戒していた井上毅(こわし)。
TN君の伊藤博文井上毅評が印象的だ。

伊藤博文、彼は小賢しいだけの男だ。有能な役人だが、大臣の器じゃない。彼の権謀術数は、下手な魚釣りだ。(略)
まじめで横着でなくて、ずうずうしくない人物は、日本で二人しか見たことがないが、その一人が井上毅だ。p276

井上の書いた意見書の内容とその背景解説が、詔勅の意図を理解するのに分かりやすい。

「この人心動揺の際、詔勅を出しても、挽回はおぼつかない。言い換えれば、人心の多数を政府に籠絡することはおぼつかない。
しかしこの詔勅は、たとえ、急進派をしずめることができなくとも、十分に中立派の気持ちを鎮めることが出来る。全国に中立派は多い。今、詔勅を出さねば、これらの中立派まで急進派にさせてしまうだろう。この詔勅を出せば、中立派、急進派の色分けが、はっきりつくはずである。そこで、孤立した急進派だけを潰せばいい」
詔勅は、こうして井上の意見を聞いて出されたのであった。井上の頭の中では、天皇も、詔勅も、全く政治の道具だった。井上は、自分では天皇の権威を全く信じていなかった。だが、反対派の中に潜んでいる天皇の権威に対する弱さを、完全に読みとっていた。(略)
詔勅が出て10日もすると、板垣派の人たちは、大隈派の人たちを抜きにして、急いで自由党をつくり、役職をほとんど独占してしまった。後から参加してもいいという態度はとったが。(略)
こうして、板垣たちは、井上の思った通り、自分たちで、国会期成同盟に集まっていた者を、急進派と穏健派に色分けしてしまったのだ。
政府は機を逃さず、自由党の弾圧を始めた。集会条例を強めて、全国組織が作れないようにし、新聞条例も厳しくして、新聞が政府の批判を出来ないようにした。p278

ところで、この本を読むと、(板垣死すとも自由は死せず!の)板垣退助が「自分たちが努力して広めてきた自由民権の運動の成果を大隈たちに横取りされたくなかった」政治家であることがよくわかる。
さんざん批判した政府の藩閥政治をなぞるようなことをやっており、それと比べるとTN君は政争からは「自由」な立場で、あくまでも思想を広めることに努力したことが理解できる。

そして、結局、詔勅が出てから国会開設までの10年は、民権派の分裂(板垣率いる自由党と大隈率いる立憲改進党の対立だけでなく、自由党内部でも分裂が生じた)に乗じて、政府が根こそぎ弾圧してしまおうとする動きが続き、井上毅の意図通りの状態になったのだった。


天皇の政治利用ということでは、近年では、改元(昭和から令和)をめぐる流れにそれを感じる。井上毅が言うような「天皇の権威に対する弱さ」は、「令和だから」という何となくのお祭りムード(国への批判を許さないムード)作りに利用されていたのではないかと思う。

(2)言論統制

この時代の言論統制の状況は恐ろしいものがある。
時代はさかのぼるが、明治8年(1875年)に大久保利通は、国会を開く準備のために元老院を設け、地方会議を開くという約束をする。
その一方で新聞への締め付けを厳しくし、新聞紙条例の改定と讒謗律(ざんぼうりつ)というものを法制度上で決めてしまう。

讒謗律というのは、事実のあるなしにかかわりなく、役人の職務について悪口を言う者を罪にするというものだし、新聞紙条例の改定では、投書の文章を載せる場合でも、変名は許さず、住所姓名を書かねばならないとされていた。p158

こういった締め付けは大久保暗殺後、伊藤があとを引き継いでからさらに厳しくなる。
明治11年1878年)に伊藤博文が内務卿(今の首相よりも大きな権力があった)になって最初にやったのは、日刊新聞(「朝野新聞」)の発刊停止で、これは大久保でさえやらなかったことだという。また国会開設を求める人々に対し、逮捕、禁獄など厳しい処置を始めた。さらに、自由に集会も開けないし、政治団体を作ることも出来なくなった。(西園寺公望がパリから戻り東洋自由新聞が発刊になったのはその頃になる。)

そして、明治14年1881年)の国会詔勅のあとのいわば政府による自由民権派弾圧キャンペーンの中では、さらにレベルが増し、何でもありの状態になってくる。
以下は福島事件で河野広中(こうのひろなか)が受けた事例。

  • 何の理由もなく逮捕
  • (理由のないまま)半年拘留する中で罪を自白するよう拷問(毒殺すら計画)
  • 具体的な計画や行動の証拠がないまま、密告者の意見から内乱予備罪で起訴
  • 高等法院で検事は「内乱の陰謀が問題。陰謀とは、思想にまで立ち入って罰するものだから、別に行為があったかないかは問題でない」と説明。そして有罪の判決。
  • 7年の禁獄(当時の刑務所の衛生状態は最低で、獄死するものが多かった)(p284-286)

とにかく酷い状態で、各地で反乱も起きたという。(TN君で取り上げられるのは「加波山事件」、まんが日本の歴史で取り上げられているのは「秩父事件」)
行っていない犯罪で裁かれる、また、内乱の「予備」の段階で裁かれる、という点で思い出すのは、少し前に話題になった、いわゆる「共謀罪」の話だ。(共謀罪の創設を含む法律は2017年7月に施行されている)
日弁連のHPから問題点を引用すると

日本の刑法では、法益侵害の結果を発生させた行為(既遂)を処罰するのが原則です。ただ重大な犯罪については、結果発生の現実的危険のある行為を行ったが結果発生に至らなかった場合を「未遂罪」として、未遂にも至らない犯罪の準備行為は「予備罪」として、例外的に処罰しています。予備罪は例外中の例外です。ところが「共謀罪」は、277種類もの犯罪について、予備罪よりも更に前の段階の「計画」(共謀・話し合い)を処罰するもので、処罰の範囲を飛躍的に拡大するものです。
日本弁護士連合会:日弁連は共謀罪法の廃止を求めます

共謀罪は、「計画」(共謀・話し合い)と「準備行為」(銀行でお金を下ろす、下見をするなど)といった法益侵害の危険のない行為を処罰するものです。「計画」の対象となる犯罪には、マンション建設反対の座込みに適用される余地のある組織的威力業務妨害罪なども含まれています。そのため、通常の市民団体や労働組合等が処罰の対象となるおそれが否定できません。また、「組織的犯罪集団」かどうかの調査という名目で、警察などによる日常的な情報収集が広く行われるおそれもあります。表現の自由、とりわけプライバシーの権利をおびやかしかねません。
日本弁護士連合会:日弁連は共謀罪法の廃止を求めます

このあたりの文言は、話題になっていた当時はあまりイメージできていない部分もあったが、1880年代の弾圧の歴史を知ると怖さが倍増する。
最初に書いたようにこの頃に行われていた新聞への圧力という手法は、形は変わったが、安倍・菅政権が得意としてきた部分でもあり、このあたりはどうしても今の政治状況を想像せざるを得なかった。

(3)帝国主義の時代

伊藤博文の内閣は、反対勢力を弾圧しつくして、憲法発布まで、自由気ままに日を送ることができるかに見えた。しかし、思わぬところに、落とし穴があったのである。それは、条約改正の問題だった。p313

不平等条約についての諸外国との交渉はあと少しで調印できるところまで進んでいたが、そのタイミングで法律顧問だったフランス人のボワソナードが、条約改正が日本の損失になるので外交交渉を中止すべきと忠告して、それが漏れたのだ。
それまでの不満もあり、民権派が(1)言論の自由の確立、(2)地租軽減による民心の安定、(3)外交の回復(対等な立場による条約改正実現)を柱とした建白書(三大事件建白)を出すと多いに盛り上がる。
そして勢いをそのままに、反政府派の代表として、片岡健吉と星亨の二人が、1887年12月26日に伊藤博文に面会することとなった。
これは、どうなるのか!
政府、今回は負けを認めて建白書を飲むのか!!
…と読み進めると…


12月25日に政府は「保安条例」を出す。


保安条例について全く知らなかったが、この本でも説明が少ないので、Wikipediaの説明を引用する。

保安条例(ほあんじょうれい)は、1887年12月25日に制定、発布され、即日施行された勅令である。(略)
自由民権運動を弾圧するための法律で、治安警察法治安維持法と列んで戦前日本における弾圧法の一つ。集会条例同様、秘密の集会・結社を禁じた。また、内乱の陰謀・教唆、治安の妨害をする恐れがあるとされた自由民権派の人物が、同条例第4条の規定に従って皇居から3里(約11.8km)以外に退去させられ、3年以内の間その範囲への出入りや居住を禁止された。これにより退去を命じられた者は、12月26日夜から28日までに総計570人と称されている。この条例により東京を退去させられた主な人物には、尾崎行雄、星亨、林有造、中江兆民、片岡健吉、北川貞彦、光永星郎、中島湘煙、中島信行、横川省三、山本幸彦、岩崎万次郎、奥村多喜衛らがいる。

『TN君の伝記』によれば、「政府は、この建白運動の中心が高知にあると考え、東京にいる高知の人間は、誰もかれも退去させようとしたのだ。左官や大工を、自由党員から区別する暇が無かったのである」ということで、左官屋も東京を去るように命じられたという。

制定、発布、即日施行という専制的なふるまいも含め「保安条例」は衝撃的過ぎた。これがもしノンフィクションで、クライマックスでこんな展開になったら本を放り投げている。また、東京から離れることを命じる(しかも高知県民は)という特殊性は、桃太郎電鉄の特殊カードのようで、本当に現実世界で起きたこととはとても思えない。

さらにWikipediaにはこのように書かれている。

また、保安条例は拡大解釈によって、民間で憲法の私案(所謂私擬憲法)を検討する事を禁じた。結果、私擬憲法が政府に持ち寄られて議論されず、逆に弾圧の対象となったため、『大日本帝国憲法』には一切盛り込まれなかった。

これも酷い話で、国会開設の前提となるからとこぞって作成した、五日市憲法などの憲法草案がことごとく無駄になってしまうだけでなく、参考にすらしない政府が国民の意見を聞く気が全くないことがよくわかるエピソードだ。

保安条例を受け、TN君が活躍の場を大阪に移して、明治22年(1889年)についに伊藤博文らの手による大日本帝国憲法が発布となる。

TN君は、大体のところ、どのような憲法が出されるか、予測していた。そして、その予測を人に話したり、新聞に書いたりしていた。憲法は、ほとんど、考えていたものと変わりがなかった。確かに、思った通りでなかったところもある。そして、そこは、TN君が予想していたよりも悪かったのである。(略)
しかし、それからTN君の絶望的な活躍が始まったのだ。自由民権派たちは、一年後の国会を頭に置いて動き出した。p334-335

その年(1890年)に第一回の総選挙が行われ、周囲から押し立てられたTN君は代議士になる。しかし、政府が議会の解散をほのめかし、議員を買収することで、2度否決された予算案を通してしまうのを目の当たりにして絶望し、議員を辞職する。
さて、議員を辞めるも自由党の機関紙の主筆として運動を続けるTN君に対して世間の目はどんどん冷たくなっていく。

自由民権なんて、もう古い。日本の外を見ろ。今や帝国主義の時代だ。日本はいつまでも混乱を続けてはいられない。日本は、まとまって力を強めていかなければだめだ。国会を開いたばかりなのに国会をまともに運営できんようでは、世界に恥をさらすことになるぞ。p348

この後、自由民権の同志が政府から買収されていくのを悲しんだTN君は、結局は金が必要だと間違った方向に行ってしまい、さらに辛い状況になる。このあたりは読んでいて『あしたのジョー』のドサまわり時代を思い出した。


そんな中でも、国会は一部機能し、第四議会では藩閥政府が追い込まれる展開になったのだが、そんなときに日清戦争が始まる。そうなってくると、国会では、政府の攻撃をやめ、政府の提出する案件は、ほとんど審議もしないままに通る状態になってしまった。
愛弟子にあたる幸徳秋水がTN君に語った言葉が感慨深い。

藩閥政府は、これまで言論の自由を、法律だの条令だので、圧迫してきました。それでも、反政府派を黙らせることが、できませんでした。しかし、戦争が起こると、政府が何もしないでいても、あの勝った勝ったの熱狂が、ごくあたりまえの真実さえ言えないように、黙らせてしまうことが出来るんです。

このあと、明治33年(1900年)に、これまでずっと政府と敵対関係、というより弾圧を受け続けていた旧自由党憲政党)が、よりによって伊藤博文を総裁として新党・立憲政友会を結成する。政党ができても超然としているべき(超然主義)だと言った伊藤も、これからの政治では、政党を抜きにし、国会を無視しては行えないと考えるようになったことを意味しているが、これも驚きだ。TN君評では、「ただ小賢しいだけ」とされていた伊藤博文だが、勝つためには手段を選ばないしたたかさを感じる。


この状況を受けた幸徳秋水とTN君の対話が最終盤にある。

「どこがいけなかったのだ」
「先生は、理想ばかり見過ぎたのです。そして、相手を、つまり敵を見るのを忘れたのです」
「いや、わしは見ていたつもりだ」
「いいえ。確かに、先生は敵を見ていたでしょう。だが、それは昔の敵です。そして、敵が昔のままだと思い続けていたから、敗けたのです。先生は、伊藤をとりまく藩閥が敵だと思っていたでしょう」
「そうだ」
「しかし、その裏にもう一つの敵がいるのです。帝国主義という敵が。しかも、これは、先生の仲間たちの心の中でも育っていたのです。その敵を、はっきりと見届けないで戦っても、負けるばかりでしょう」
「それは、何だね。その帝国主義とは」
「それは、愛国心というやつを縦糸とし、軍国主義を横糸として織り上げた政策です。先生の敵としていた専制政府も、味方だった民党も、いつのまにか、その帝国主義におどらされている、操り人形にしか、過ぎなくなっていたのです」p378

これを読むと、国会開設後にTN君が言われた「自由民権なんて、もう古い。日本の外を見ろ。今や帝国主義の時代だ。日本はいつまでも混乱を続けてはいられない。日本は、まとまって力を強めていかなければだめだ。」という言葉の中にある「もう一つの敵=帝国主義」の強さがよくわかる。
そして、この空気は、与党の失政や汚職咎められずに温存されたまま、野党が「批判ばかり」と叩かれる現在の政治状況と似ているところがある。最初に挙げた「天皇の政治利用」もそうだが、日本における「お上意識」の強さは100年前も今も変わらない。

こういった「お上意識」のような精神的な縛りから外れることが、TN君の説く「自由」の本質にあったようだ。以下、同時代を生きた福沢諭吉と比較した部分、また、東洋自由新聞の第一号の社説から抜粋する。

TN君は、日本に自由な人間をひとりでもふやすことが必要だと考えた。しかし、その頃の啓蒙学者と呼ばれた、自由を説き、自由を教えようとした人々、福沢諭吉をはじめとした明六社の学者たちとは違っていた。TN君は、自由は人に説いて教えられるものではない、自由は抵抗の中で自覚されるものでしかない、と考えるようになっていた。
日本人が、英国風なマナーを身につけ、演説の技術を身につけ、討論採決し、それにしたがう訓練が十分にできたときが、日本に国会を開くに適当な時期だというのが、明六社の人たちに共通した考えだった。(略)
だが、TN君は、紳士のマナーなんて問題にしなかった。自由に生きることが第一だった。p164

TN君は、まず、囚われない精神、囚われのない思想を持つことを強調した。これがなくては、人間はたとえ自由を与えられても、自由になれない。精神の自由のないところに、自由を求める気持ちも起こらない、というのだった。
このことは、当時の自由民権家たちの忘れていたことだ。それは、国会が作られれば自由になる。さまざまな政治的な束縛がなくなれば、それでいいと、ただひたすらに政府を攻撃している人たちに、諭すような口調で書かれていた。縄をほどいてやったとしても、犬がすぐ自由になれるか。自我の確立のない人間は、根を切られた草や木も同然だ。この主張は、当時の若者たちの心を揺さぶった。p244

この本は、以上に、精神の自由、自我の確立を基礎として世の中を眺めるTN君の主張に共感して書かれた本だと感じた。
そして、それは、TN君という、権力の外側から明治維新、そして自由民権運動を生きた人の視点で歴史を見直したからこそ可能になったことだ。あとがきで、なだいなださんは、「見えないから歴史がないというわけではない」と言い、陰に隠れてしまったような人の伝記を「君たち」にもいつか書いてもらいたい、としている。
大河ドラマもそうだが、確かに、一人の視点で歴史を見る、ということは、教科書で勉強するのとは全く違う発見があることを身をもって感じる読書体験だった。これまで以上に歴史を題材にした小説や伝記を読む楽しみが増えたように思う。
また、今回、登場した人物たちの本も、新約版で読みやすくなっているので、そちらにも手を出してみたい。

『大奥』と『ベルばら』をつなぐ一冊~なだいなだ『TN君の伝記』

先月11/6・7に行われたビブリオバトルのWebイベント「Bib−1 グランプリ 2021」(ビブワン)はいつも以上に色々な本の紹介があり、とても楽しく視聴した。
『TN君の伝記』は、児童書という形式だったこともあり、これまで全くその存在を知らず、ビブワンの紹介で初めて知った本。
しかし、個人的には、歴史への興味がカンブリア爆発のように激増した2021年に読むべくして読んだ、自分にとって大きな一冊だった。


そもそも今年のGW頃に『大奥』と『ベルサイユのばら』を連続して読んで、以下のような疑問が湧いたのが始まりだった。

  • 同じように新しい時代の始まり(革命、維新)を描いているのに、なぜ日本の革命には「市民」が出てこないのか。
  • フランス革命(やアメリカ独立宣言)で確立されたような「人権」の概念は日本にいつ生まれたのか。

→参考:『大奥』と似てるとこ・似てないとこ~池田理代子『ベルサイユのばら』(3)~(5) - Yondaful Days!


そんな問題意識をもって見始めた大河ドラマ『青天を衝け!』の序盤は、(武士にはなるものの)主人公・渋沢栄一の農民視点からの「日本を良くしたい」という気持ちの描写が多く、自分の興味に応えてくれる内容とも言えた。
しかし、時代が明治へと移り、栄一が新政府の官僚として働くようになると変わってくる。登場人物は教科書に出てきたような「偉人」ばかりで、ドラマとしては面白味を増したが、市井の人の出番は徐々になくなり自分の興味を外れてしまった。
栄一の視点も、「欧米に追いつく」という気持ちが強くなり、基本的人権や民主主義に関する内容はほとんど出て来なくなった。(養育院の話については、序盤の「市民」目線が残っていたが。)


そんなときに読んだ、この『TN君の伝記』は、渋沢栄一と同時代における草の根の民主主義の状況が、当事者の視点からよくわかる内容だった。
作者のなだいなださんの意図*1に沿えば、TN君とは誰かを伏せたまま説明するのが良いが、最初だけ書いておくと、TN君というのは、「東洋のルソー」とも呼ばれた中江兆民(1847~1901)のことだ。ルソーの名からもわかるよう、フランス革命との関わりも大きく、まさに、『ベルサイユのばら』と『大奥』をつなぐ一冊という意味で、「俺得」な一冊だった。


以下、いくつかに分けて引用等を。

『青天を衝け』のキャラクター

TN君は岩倉使節団のメンバーでもあったので、岩倉具視伊藤博文、福地源一郎*2などが登場する。中でも、政府の中枢であった大久保利通の登場が多い。
ドラマの中のイメージ通り、大久保利通は能力は高いが敵を多く作るタイプの人だったようだ。
また、西郷隆盛征韓論から西南戦争までの流れについては、民権運動的側面があったという興味深い要因分析含め多くのページが割かれていてとても勉強になった。この辺りの人物イメージは、これまで全く歴史に興味がなく、明治維新に関する小説や漫画をほとんど読んでこなかった自分にとっては、『青天を衝け』のドラマが非常に役に立った。
なお、この本を読むまで知らなかったので恥ずかしいのだが、西郷隆盛(薩摩)、大久保利通(薩摩)、木戸孝允(長州)を維新三傑と呼び、このうち木戸孝允は『青天』には登場しない。(今回、小学館版学習まんが「日本の歴史」も読み返したが、そちらでもほぼ登場しない。)何故?

フランス革命とTN君

さて、ここからが個人的にはメインの内容となるフランス革命に関連する部分。

TN君は、岩倉使節団で日本を発つ前(1871)に、明治維新後の日本の外観の大きな変化に驚き、そして嘆く。(以下、引用は一部、仮名を漢字に修正)

十年前の、新しい世の中をつくる、というかけ声の結果が、これなのか、多くの若者たちが、命をなげだそうとしていたのは、鉄橋や人力車や牛肉屋や洋服のある新しい生活のためだったのか。そう思うと、なんだかむなしい気がした。人々は、もう政治のことは考えていないようだった。政治をわすれ、新しい生活のことばかり考えていた。
p75

このあたりは、自分が『青天を衝け』にかけた期待がドラマの中でうやむやにされかけていると感じたことと全く同じで、心が読まれているのかと感じた。(笑)
そんなTN君だが、岩倉使節団でフランスに行って何を得たのだろうか。


フランスに渡ったTN君は、「上流社会」ではなく「下流社会」のフランス人たちの話をよく聞いた。「両方知らなければ片手落ちで、フランスを知ったことにならない」(p92)のだそうだ。

居酒屋にあつまる労働者たちは、よく政治のはなしをした。そして、一人一人が意見をもっていて、すぐに議論になった。議論が熱して、はては口論から、つかみあいにもなりかねないところがあったが、TN君は彼らの姿を見ながら、この国の政治を動かしているのは、どうも彼ららしいと思った。実際、このフランスの19世紀の政治は、パリの庶民たちの手で何度か大きく揺り動かされたのだ。p93

そして、ある日、古本屋で見つけたジャン・ジャック・ルソー『社会の契約』を読んでみると、その中の言葉のいくつものフレーズを居酒屋で口論していた労働者の言葉として既に聞いていたことを思い出す。

この言葉も、別の労働者の口から聞かれたものだった。彼はそれを、まるで自分の言葉のように、自然に叫んでいた。おそらく、それがルソーのものだとは、自分でも知らないのではないか。
TN君は、思わずつぶやいた。

      • この本は生きているぞ。この言葉は、まだ生きているんだ。p100

TN君には、1873年のパリの街では、これまでの100年の歴史が古い建物に刻み込まれているようで身近に感じられたという。その中で、1762年刊行のルソーの書物の言葉が「まだ生きている」ことは大変な驚きであったに違いない。国民の啓蒙に力を入れようと決意したTN君の気持ちもよくわかる。
しかし、その一方で、2021年に生きる自分にとっては、日本人がここまで「歴史」や「個人」の「人権」に疎いのは、教育よりも国民性の問題ではないかという疑問を捨てきれずにいる。

TN君が抱いた「明治維新」への疑問は、そのまま日本人の国民性を表しているようにも思えるのだ。

明治維新は、たしかに、古い日本の体制を新しいものに変えねばならないという考えに支えられて起こった。そして、今の指導者たちも、日本を変える努力はしている。(略)
しかし、それらの近代化とか、改革とかは、いったいなんのためだったのだろう。誰のためだったのだろう。(略)
明治維新は、もう一つの目的を持っていなかっただろうか。人民ひとりひとりの、古い制度に縛られてきた生活からの解放の期待を、担っていなかっただろうか。いや、そちらこそが、人民の願いだったのだ。自分たちの国をつくる、自分たちのための日本をつくる。それが新しい日本をつくることではなかったのだろうか。それはTN君自身が、あの激しく揺れ動いた時代に感じていたことなのだ。(略)四民平等も、最初のうち、政府の旗じるしでもあったのだ。だが、そうした維新の夢は、いつのまにか強い国をつくるため、日本をヨーロッパふうにすることが目的だったようにすり替えられてしまっている。しかし、日本にいる人間たちは、そのことに気がついていないようだ。p116

このような日本人の「健忘症」的なふるまいは、このあと、大日本帝国憲法発布の際にも発揮される。完全に政府寄りの内容であっても、憲法ができてしまえばお祭り気分になってしまうのは、2021の東京五輪をめぐる日本の状態と似ているのかもしれない。


さて、TN君は、問題は「日本人の国民性」ではなく「教育」だと考える。
TN君が日本に帰る頃(1873)、日本では民権運動としては重要な出来事である「民撰議院設立建白」が提出される(1874)。しかし、これは、征韓論の騒動が招いた政治的対立から生まれたものである(中央から退いた板垣退助らが大久保らへの対抗手段として講じた)ことをTN君は残念に思った。
所詮それらは「パリ留学時代に居酒屋でめぐりあった労働者たちのような、無名の人々の心の中に根を張ったもの」(p137)ではなかったのだ。
国民一人一人が人権意識を育てていく必要があると考えたTN君は、ヨーロッパから戻って私塾を作る。

わしは、日本に自由がないのは、遅れているからだ、そこまで進歩していないからだと考えた。これまで、ずっとそう考え続けてきたのだ。だがね、今になって、それが間違っていたことがわかった。文明開化は進むだろう。ほっといても、大久保がやろうが、西郷がやろうが、進むだろう。しかし、ほっといたら、自由はこない。大久保にやらせてただ待っていても、日本に自由はこないだろう。

より自由になるということは、より進歩することではない。より文明開化することではない。ひとりひとりが、より自己に目覚めることだ。誰もたよりにせず、誰に支配されずに生きることに目覚めることだ。TN君が、そのとき悟ったことはそのことだった。p163


本の後半では、日本の民権運動とその弾圧、TN君の成功と挫折について描かれ、とても面白かった部分だが、今回はここまで。

*1:ぼくの知ってもらいたいのは、彼の名前ではなくて、彼がどんなふうに生きたか、ということだからだ。そのためには、名前なんてじゃまになる。そう思ったから、名前は出さない。p11

*2:『青天を衝け』では仮面ライダービルドの犬飼貴丈が演じた。

すべての人に寄り添いたい…と思ってしまったときにオススメの2冊『正欲』×『きみはだれかのどうでもいい人』

今、キム・ジヘ『差別はたいてい悪意のない人がする』という本を読んでいます。

自分も差別的な発言をしていることや、そもそも自分が持っている特権への自覚のなさが、そういった差別を引き起こすことに気づかされる良い本だと思います。
こういう本を読むことは自戒の効果がある一方で、その分、世間の言動や街にあふれるポスター等に厳しくなってしまうという(気分的な)弊害もあります。また、身の回りのことをすっ飛ばして、「誰もが生きやすい世の中」とか、「すべての人に寄り添う」とか、どんどん頭でっかちな、ある意味で傲慢な理想主義に偏ってしまいがちになることには注意が必要だと思っています。

そんなときに冷や水を浴びせてくれる小説2冊を紹介します。

朝井リョウ『正欲』

一冊目は朝井リョウの作家生活10周年記念作品『正欲』です。

この小説は、多様性をテーマにした学園祭の準備を進める大学生女子、「彼氏いないの?作りなよ」という周囲からの言葉に嫌気がさすアラサー小売り販売員、Youtuberとなった不登校小学生を抱える検事の家族、大きく分けるとこの3つの話が交差しながら進む物語です。
この小説のテーマは鍵カッコつきの「多様性」です。小説内に特殊な性癖を持つ人が出て来て、その生きづらさが語られます。その当事者のセリフが「多様性」という言葉の欺瞞をよく表しています。

自分が想像できる”多様性”だけ礼賛して秩序整えた気分になってそりゃ気持ちいいよな
お前らが大好きな”多様性”って、使えばそれっぽくなる魔法の言葉じゃねえんだよ
自分にはわからない、想像もできないようなことがこの世界にはいっぱいある。そう思い知らされる言葉のはずだろ
p337

タイトルにもなっている、りっしんべんの「性欲」という観点で言えば、マジョリティの異性愛者が、OKかNGかを判断している状況。最近になって、同性愛者に対しても、「OK側」に入れてあげまよう。アセクシュアル…そういうのもあるのか…。それも「OK」にしよう。でも小児性愛は絶対に「NG」!
…という感じでしょうか。


この小説では最初に、小児性愛者集団の逮捕記事を持ってくることで、小児性愛はダメだよね、とある程度読者側にも線引きさせ、小説内では小児性愛ではない、特殊な性癖を持ってきて、その「線引き」と「多様性」という言葉の意味付けについて意識させます。

作中の、別の「当事者」の言葉をもう一つ引用します。

多様性とは、都合よく使える美しい言葉ではない。自分の想像力の限界を突き付けられる言葉のはずだ。時に吐き気を催し、時に目を瞑りたくなるほど、自分にとって都合の悪いものがすぐ傍で呼吸していることを思い知らされる言葉のはずだ
p188

自分は「多様性」を重視する姿勢は大切だと思いますが、ある種の思考停止を産みやすい言葉です。世の中にあふれる「多様性」という言葉を考え直したい人にオススメの小説です。

伊藤朱里『きみはだれかのどうでもいい人』

そしてもう一冊は、最近文庫化された伊藤朱里の『きみはだれかのどうでもいい人』です。

裏表紙の惹き文句をそのまま読みます。

同じ職場に勤める、年齢も立場も異なる女性たち。見ている景色は同じようで、まったく違っている――。職場で傷ついたことのある人、人を傷つけてしまったことのある人、節操のない社会で働くすべての人へ。迫真の新感覚同僚小説!

4つの短編の主人公4人は、県の税金事務所に勤める、25歳のまだ若い2人と、彼女たちの親世代である50歳の二人。
この小説が面白い一つ目のポイントは、同じ職場にいる4人がそれぞれ同期入社だったりするのに全く仲良くないこと。
仕事ができる人、できない人、職場復帰した人、お局様と煙たがられている人、でもそれぞれ仕事や家族のことで悩みながら生きている。
ここまでは普通。

決定的に特殊なのは、この4人とは別にいて、アルバイトで来ている38歳のストウさん。この人が全然仕事ができない。純真無垢で傷つきやすいイノセントな心を持っていて、そして全く仕事ができない。
吉田戦車の「いじめてくん」という漫画のキャラクター(爆弾)を彷彿とさせますが、主人公4人は、それぞれ彼女との会話の中でイライラを増大させ、「人として言ってはダメな一言」をストウさんに言ってしまいます。
どこの職場も、多かれ少なかれセクハラパワハラ防止や「働きやすい職場づくり」の問題に取り組んでいますが、その理想と現実を見た気がします。これが笑えないのは、4人が言葉に込めた「悪意」は、自分の中にも間違いなくあるからです。


『差別はたいてい悪意のない人がする』を手に取った自分は、「悪意のない人」として本を読んでいたのですが、いやいや、そもそも「悪意」はあるし、「悪意ある発言」をしてしまうこともあるよね、という当たり前すぎることに気づかされた一冊です。

この小説は、人を傷つけた人がしっぺ返しを食らう、とか、傷つけられた人が最後には救われる、という通常のセオリーがない物語なので、最初に読んだときは面食らいました。しかし、今回の文庫版では、島本理生さんの名解説が、色々とフォローしてくれるので、その意味でもオススメ。
朝井リョウ『正欲』も文庫化解説が今から楽しみです。

次に読む本

上の文章は、先日行われたビブリオバトル(2冊紹介のダブルバウトルール)の紹介の内容をベースにしていますが、その時に、大垣を舞台としている同時代高校生の物語として朝井リョウ桐島、部活やめるってよ』と大今良時聲の形』を紹介している方がいました。
どちらも映画のみしか観ていなかったので、それぞれ読みたいですが、『桐島』は伊藤朱里さんのデビューのきっかけとなった作品ということでちょうど気になっていました。

就職して4年目、長編執筆のきっかけが訪れる。
「27歳の時に、朝井リョウさんの『桐島、部活やめるってよ』を読みました。あまりにも面白くて、とてもおこがましいのですが、平成生まれの作家にこれだけやられてしまったら私なんかもういらないと思いました。同時に、どうしてもこの人と同じところで生きていくのだったら悠長なことは言っていられない、才能で書けないのは自覚しているから、時間をかけるしかないと思って、その年の冬に、仕事を辞めて執筆活動に専念するようになったんです」
インタビュー 作家 伊藤朱里さん|集英社 WEB文芸 RENZABURO レンザブロー

伊藤朱里さんは1986年生まれで自分の一回り下。(朝井リョウは1989年生まれ)
『きみはだれかのどうでもいい人』は50歳二人の心理描写が秀逸過ぎるので、少なくとも40代以上でいてほしい、と思いながら名前を検索してしまいましたが、執筆時は30代前半。その年でこんな風に書けるなんて、小説家はすごいなと改めて思いました。
ということで、伊藤朱里さんの太宰治賞受賞作と合わせて『桐島』は読みたいです。

参考(過去日記)

『きみはだれかのどうでもいい人』は、単行本のときに感想文を書いています。
pocari.hatenablog.com
朝井リョウは全然読んでない…。
pocari.hatenablog.com
pocari.hatenablog.com

公的支援だけでは問題は解決しない~石井光太『本当の貧困の話をしよう』

日本は国民の7人に1人が貧困層。君たちが幸せをつかむために今知るべきこと。最底辺のリアルから始まる「新しい世界」のかたち。人生への向き合い方が「180度変わる」感動の講座。

一度『遺体』を読みかけていたが、辛くて読み切れなかったので、石井光太さんの本は実は初めてだ。
この本は「はじめに」に「17歳の君たちへ」と書かれているように、高校生向けに書かれたもので、イメージ的には岩波ジュニア新書やちくまプリマー新書のような内容。基礎的な部分から語られているだけでなく、読者の「君」に語りかける文体で、読んでいて、石井光太さんの熱にあてられる。


良かったのは、まさに、その「熱」の部分だ。世界をより良くしたいという熱に満ちている。
日本や世界の貧困について、いくつかに分類・図式化して、わかりやすく説明することを心掛けており、読者は、誰もが貧困の問題を自分事として捉え、問題の「認識」だけでなく「改善」の方向に目が向くようになっている。


国内外の事例について相対的貧困絶対的貧困など、用語の説明も絡めながら、繰り返されるのは「自己否定感」。

石井さんは、貧困問題に対する国の「パブリック」な取り組み(生活保護など法制度によって社会制度を整える)だけでは、制度があったとしても日常生活の中で劣等感を積み重ね、自己否定感が払拭できないという。
そこで、子供たち一人ひとりに向き合う「プライベート」な支援を行うNPOなどが重要になってくる。
それらNPO団体の代表的な取り組みである「子供食堂」や「無料塾」は、実は表向きのものであり、彼らがもっとも大切にしているのは心の健康であるという。

なぜ食事や勉強以外のことに力を入れているのだろう。
貧困家庭の子供たちの自己否定感は、質素な食事や教育費の不足だけで生じているわけじゃない。スポーツをする相手がいない、母親が仕事で疲れきって会話がない、誕生日を祝ってもらえない、といったことが積み重なって大きくなっていく。
NPOの人たちは、そのことをわかっている。だからこそ、子供食堂や無料塾という場に子供たちを集めた上で、本来の事業以外でも様々な形で子供たちの生活を支援することで自己否定感を取り除き、自己肯定感をつみ上げてもらおうとしている。
いわば、子供食堂や無料塾は、自己肯定感を構築することによって「心のレベルアップ」を目指す取り組みなんだ。p43


また、支援の手を差し伸べても、すぐに悪い道に舞い戻ってしまう、海外のストリートチルドレンについて取り上げた部分での「学校」についての言及も心に残る。
自分の未来について考えていく力(イマジネーション)がないと、どうしても当面は楽になる悪の道を選んでしまう。
そうしたイマジネーションをはぐくむ場こそが学校だという。

学校生活を通じて身につけるのは次のようなことだ。

  • 学校という社会の中で居場所の見つけ方や自己主張の仕方を学んでいく
  • いろんな家庭や仕事や人を知り、自分にとっての夢や理想を見つける
  • 困難の壁が立ちふさがった時、誰に助けを求め、どうやって乗り越えるかを知る
  • 自分だけでなく、他人を思いやる気持ちが、最終的に自分を救うことに気づく

学校とは単に学力をつけるだけでなく、社会で生きていくために必要なスキルを身につける場なんだ。
当たり前のように学校へ通っている君であれば、先生の言葉や同級生と触れ合う中で、知らず知らずのうちにこのような術を身につけているだろう。p128

そんな大層なことを学校では学んでいない。
と反論したくなるが、全く学校に行っていない子どもたちと比較するとどうだろうか。
ちょうど先日の報道特集で、無戸籍の人たちが取り上げられていた。そのうちの一人は30歳を過ぎても義務教育を受けて来なかったため、足し算や文字の読み書きがままならない。そもそも集団での生活に不安を感じるとのことで、従事できる職業も限定される。
学校にも行きたかったが、何度聞いてもはぐらかされるので諦めてしまったというが、無戸籍者への支援活動をする方のサポートを受けるようになって、止まった時計が動き出す。


石井光太さんのいうように、社会の中での壁の乗り越え方を全く学ばないままに生きてくると、「諦めること」が基本になってしまい、自らトライすることどころか、他人に頼るという方法があることにすら気がつかない。

そこをサポートし、「心のレベルアップ」を図るような働きかけが、実は、読者一人ひとりができることなのだという。
最後に石井さんはマザーテレサの「もしあなたが100人の人に食料を与えることができないのなら、ただの1人の人に与えなさい」という言葉を挙げて次のように説く。

この講義を聞く前まで、君は貧困を解決するには政治家になっていっぺんに全員を救うようなイメージをもっていたかもしれない。でも総理大臣だって、国連の事務総長だって、そんなことをすることはできやしない。一人の力に任せるのではなく、僕たち一人ひとりが自分にできることをしていくことが重要なんだ。それが地域支援なんだ。そうした地域支援が日本各地に広まれば、未来の社会は想像もできないものになるはずだ。
(p252)

ちょうど、自民党公明党子育て支援を目的とした10万円給付を決め、賛否が分かれている。それとは別途、子育て支援以外に生活困窮世帯や経済的に困っている学生に向けた給付も行う予定がある。

貧困「問題」は、こうしたパブリックな支援だけでなく、NPOに限らず地域社会によるプライベートな支援が重要になってくる。そこには政治家でない自分たちがどうかかわっていくかが問われている。他人事のように政権批判をしているだけでは日本の未来は良くならない。

未来のために、自分なら地域社会で何ができるか、そういう視点をこれまでよりももっと強く持っていきたいと感じた一冊だった。

次に読む本

上には書かなかったが、本の中では、貧困の中から成功した有名人が何人か取り上げられている。伝記タイプの本は苦手意識があるが、読みやすいものから読んでみたい。


また、石井光太さんの本もちゃんと読まなくては…

面白い!けど終わらせ方にモヤモヤ~品田遊『止まりだしたら走らない』

ついこの前読んだ『名称未設定ファイル』の品田遊のデビュー小説。
pocari.hatenablog.com


自然科学部の都築くん(1年生)と新渡戸先輩(2年生)が東京駅から中央線に乗って高尾山まで行く間の会話をベースにした短編が13篇。その会話と若干リンクするような、やはり電車に絡む短編が12編入っている。
『名称未設定ファイル』に比べると「パスティーシュ」感(清水義範感)は薄れるが、ショートショート的に読めて読みやすい。
それぞれの短編に、時に見開きで入っている挿絵は表紙と同じerror403さんで、話に沿っていながら、イラストそのものとしても楽しく、美しい。都築くんと新渡戸先輩の話は青字、それ以外は黒字のフォントが使われているところも含めて、モノとしての本が楽しい一冊。
なお、error403さんは、本のデザインだけでなく、CDやゲーム、さんぽビンゴ(!)など活動が多岐に渡る。(グッズは無いみたいですが)Tシャツとか欲しい。

scrapbox.io


さて、肝心の内容の話。
都築くんは、自然科学部の部長からの「明日八時 東京駅 銀の鈴前集合」と課外活動のメールを受けて銀の鈴に向かうと、そこには新渡戸先輩だけがいる。先輩によれば、他の部員は先に出発してしまっているということで、課外活動先の高尾山まで2人で向かうことになる。

都築くんと新渡戸先輩の話は、完全に電車の中の会話なので、あだ名の話とか、自動操縦モード(身体が意思を離れて動き続けること。通勤通学だけじゃなく、相槌も自動操縦モードだったり…)の話、駅の並びが武蔵境→武蔵小金井→東小金井だったら並びが美しいという話など、物事の「認識」や「考え方」の話が多い。
それ以外の話も、やはり自意識の話で、最初の『タイムアタック』も通勤時に過去の自分の「ゴースト」と競争する話だ。
だから、最後の一つ前の『高尾山』が、これまで都築くん側から(変人として)しか語られなかった新渡戸先輩が一人称側となり、自らの内面を吐露する、という突然の展開は、どんでん返し的な味を含みながらも全体の流れに沿っている。


(以下ネタバレ)




その不自然な状況から、そもそも2人で東京駅から高尾山に向かう流れは、新渡戸先輩の企みによるものだと最初の時点でほとんどの読者が思っている。新渡戸先輩は何でそんなことを…?


最後になって、新渡戸先輩が女性であるということがわかって、突如、物語は甘酸っぱい話に装いを変えるのだが、この見せ方はやや微妙だと感じてしまった。
というのも、新渡戸先輩は都築くんに好意を抱いているんだろうな、ということまでは誰もが疑うはずなので、そこに「答え合わせ」のように、「新渡戸先輩は男性ではなくて女性でした!」という情報が来て、「そうか!それなら納得!」となってしまうのは単純に気持ちが悪い。
結局最後まで、新渡戸先輩はその好意を都築くんに直接言葉として伝えないのだから、男性のままでも物語は「甘酸っぱい話」として終わり、何も問題がない。
新戸部先輩を女性にしてしまうと、読み手としては「どんでん返し」への驚きは生まれるが、同時に「この驚かせ方ってどうなんだ?」という疑問が湧いてきてしまいノイズになる。
『止まりだしたら走らない』というタイトルは、「走り出したら止まらない」恋愛スピリッツの二の足を踏む新渡戸先輩の心理を表現したものなのだろうと思うが、その戸惑いもむしろ新渡戸先輩を男性とした方が理解しやすいのではないだろうか。


個人的にその恋愛観に若干の疑問を抱いてしまった品田遊の最新作は、『ただしい人類滅亡計画 反出生主義をめぐる物語』ということで、倫理・道徳的な部分に踏み込んだ本のよう。
「反出生主義」そのものに馴染みがないので、どのような小説なのか想像がつかないが、『止まりだしたら走らない』のラストのように読者によって見方が変わる問題について、どのような切り込み方をしているのかとても楽しみ。

民部公子とシャラメ~ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督『DUNE デューン 砂の惑星』

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映画を見た当日は、朝、国分寺~府中付近を18キロラン。
急いで戻り、前日に予約していた10時15分からの上映に間に合うように、長男と立川に向かったが、親子それぞれにミスがあって時間を取られ、開始数分経ってからの劇場入りとなった。
このすったもんだと、3時間近い大作であることに加え、飛び込んだ立川シネマシティ・シネマツーの「このスクリーン」は、ゴジラのときのまさにあの場所だ!と半分以上爆睡してしまった悪夢を思い出した。
今回、慎重に行ったものの、序盤、「字幕を追わないうちに会話が進んでしまった!」と感じる部分が何度かあり、眠り込んでしまうまで行かないものの不安に思う序盤。しかし、まさに映画的に盛り上がる「襲撃」のシーン以降は完全に集中して鑑賞することが出来て一安心。


映画では、砂虫が近づくにつれ海のように波打つ砂漠の表現が面白く、また「はばたき飛行機」に代表される機械類や保水スーツもカッコよく感じた。
しかし何より、ティモシー・シャラメ演じるポールというか、ポールを演じるシャラメの美しさに惹かれた。
そして、序盤から何度も大写しにされるシャラメを見ながら、この表情を最近見たことがあると思った。自分がシャラメを見るのは、かなり前に見た『レディ・バード』以来であるにもかかわらずだ。


映画を見ながら「誰だったっけ」と考えて思い至ったのは大河ドラマ『青天を衝け!』で民部公子(徳川昭武)を演じた板垣李光人。
確認すると、今回の映画の応援ゲストを務めているということで、ジャパンプレミアの髪型も少しシャラメに寄せている感じだ。
natalie.mu


途中で見るのをやめてしまった『仮面ライダージオウ』だが、彼が登場したときは、その中性的な魅力に「お!」となった。ちゃんと見通せば良かったと後悔だが、今後の活躍に期待。


さて大幅に話が飛んだが、シャラメに限らず役者は皆魅力的だった。
特にヒロイン・チャニ役のゼンデイヤ。シャラメに女性的な魅力があるので、釣り合う相手を見つけるのは大変だが、スパイダーマン*1の時とはまた違った雰囲気で魅力的。
そして、パート2を待たずに退場してしまったダンカン(ジェイソン・モモア)と父(オスカー・アイザック)。最強に「父」性を感じさせる二人がともに1979年生まれで自分の5つ年下なのはショックだ。
ジェシカ(レベッカ・ファーガソン)は、その動きがキャラクターの「強さ」に説得力を与える。

ということで、物語的には、次作が待てない!というほどのフックは無かったものの、役者のほかの作品を見てみたいと強く思うような映画だった。ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督の過去作や、『デューン』の関連作品など、確認したい映画がたくさん増えた。

続編は2023年公開(第三弾も予定されているとのこと↓)とのことだが、それまでに少しでも多くの作品に触れられれば…。
eiga.com



見るぞ!(↓)Amazonプライム見放題だけでもこれだけ!ストーリー・オブ・マイ・ライフも入っていたのか…

*1:ホームカミングのみ見てます。というかMCUはほとんど見てない…