Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

1960年代のフランス×現代日本~オードレイ・ディヴァン『あのこと』

『パラサイト 半地下の家族』でアカデミー賞®4冠に輝いたポン・ジュノ監督が、審査員長を務めた2021年ヴェネチア国際映画祭での最高賞受賞を皮切りに、世界の映画賞を席巻。決して見逃せない傑作が、ついに日本にも衝撃の嵐を送りこむ!

舞台は1960年代、法律で中絶が禁止されていたフランス。望まぬ妊娠をした大学生のアンヌが、自らが願う未来をつかむために、たった一人で戦う12週間が描かれる。この作品の特別なところは、本作と対峙した観客が、「観た」ではなく「体験した」と、語ること。全編アンヌの目線で描かれる本作は、特別なカメラワークもあり、観ている者の主観がバグるほどの没入感をもたらし、溺れるほどの臨場感であなたを襲う。

原作はノーベル賞に最も近い作家とリスペクトされるアニー・エルノーが、自身の実話を基に書き上げた「事件」。主演は本作でセザール賞を受賞したアナマリア・ヴァルトロメイ。

イムリミットが迫る中、闇をくぐり抜け、アンヌがたどり着く光とは?身を焦がすほどの映画体験をあなたに──。

(映画公式HP)


映画公式HPの惹き文句から抜粋すると、この映画の切り口は、「妊娠中絶というテーマ」「1960年代のフランス」「特別なカメラワーク」「今年のノーベル賞作家であるアニー・エルノーの原作『事件』」で、パンフレットでもそれぞれについて詳しい内容がフォローされている。これらに加えて「とてつもない痛み」を感じる映画ということを書くと、この映画のレビューは完成する。
ただ、それらを書きだすと、自分が映画を観た感想ではなく、他の記事の寄せ集めになってしまうので、なるべくそれらに触れないようにして書きたい。
以下感想。


映画を観るまでに思っていたのと大きく違っていたのは、主人公アンヌの性格や行動。
中絶が犯罪である1960年代のフランスで、自分の妊娠が判明し、周囲の誰も助けてくれない状態。その中で悲嘆にくれて、やる気を失ったり泣きわめいたりするのかと思えば、そんなことが一切ない。それどころか、毎晩飲み歩き、好きでもない消防士と一晩を共にしたりする。
こう思ってしまったのは(被害者は、悲しみにくれて誰かに助けを求めなければならないという)自分の偏見なのかとも思うが、自分が同じ立場であると仮定しても(いわゆる他人の靴を履くことを考えても)、どうしても、アンヌのような行動をとるように思えなかった。


パンフレットの中ではアンヌを演じたアナマリア自身が「アンヌは戦争に向かう兵士」と語るように、この映画を評する人は皆、アンヌを「戦う人」と表現する。
実際、この映画はアンヌの目線で描かれるので、観客側も、戦うアンヌに感情移入をしやすい。
しかし、だからこそ、毎晩のようにパーティーに出かけてしまうアンヌにだけは共感しにくい。


だからパンフレットを読む際も、そのことについて触れている意見を探すようにして読んだ。
そうすると、監督・脚本のオードレイ・ディヴァンのインタビューの中に、まさにそれについて触れている部分を見つけた。

私の映画は愛ではなく、欲望について描いています。この映画のもうひとつの大きな主題は、私にとっても非常に重要なものである、官能的な快楽です。アンヌは暗黙のうちに快楽を得る権利のために戦っています。私は、女性の快楽は自分の気持ちの中にだけ留めておけば許されるという考え方が嫌いです。その意味で、アンヌの物語には現代的で喜びに満ちたエネルギーがあります。彼女は欲望だけでなく、それと同じくらい怒りも感じています。

そうか。通常の物語で「欲望」が描かれるときは、「愛」とセットだから違和感なく受け入れられるけれど、「欲望」だけが描かれると、「今まで見てきたさまざまな物語と違う」という意味で、違和感を覚えるのだろう。特に、女性の「欲望」が描かれる場合はそうだし、妊娠も「愛」とセットで描かれることが多いので、伝統的価値観(偏見)の強い人ほど、二重三重の意味で「欲望」をストレートに受け入れられなかったのかもしれない。


また、監督のインタビューには「欲望」と「怒り」が並べられている。アンヌが1人で考え抜いて実行する寡黙な人物だからこそ、「怒り」や「欲望」などの感情は、言葉としては映画に現れない。
そのうち「怒り」は、全観客が感じていることだから改めて言葉で表現する必要はないとして、「欲望」については映像として強調しておきたかったという表現手法上の理由があったのだろう。(そういう意味では原作小説は「小説の表現」として様々な内容をどのように描いているのかが気になるところだ。)

監督インタビューは以下の言葉で終わっている。「制約を打ち砕く」という意味でも、アンヌが連日、寮から抜け出る描写に意味があったと言える。

私にとって、映画における自由とは、制約を打ち砕くことです。この映画はとても抑制された内容なので、制約を打ち砕くことはなおさら魅力的に映ります。アンヌの物語は、ある種の逆流を生み出します。だからこそ、紙にペンで書く音に乗せて、「ペンをとれ」という言葉を映画のラストにすることが重要でした。誰にも指図されることなく、彼女自身が自分の物語を書くのです。


映画のラストでアンヌは作家を目指す(原作が自伝的小説なので当然とも言える)が、パンフレットには、アンヌが目指した職業である小説家の柚木麻子さんも寄稿している。

この作品を観るまで私は、女性が自分の身体の決定権をもてないことの理不尽を、そこまでリアルに感じてはいなかったことに気づき、衝撃とともに反省してもいる。妊娠中絶の権利をめぐる問題は、今なお、全く解決されていない。原作の短編には日本の「水子」が登場するが、我が国では中絶には今なお配偶者の同意が必要で、そもそもあらゆるコンテンツが、女性が自分の人生を優先することに罪悪感を抱くよう、しむけているところがある。命を生み出すことを公に望まれながら、女性当人の命はないがしろになっているのだ。

先日読んだ『日本の中絶』と合わせての感想だが、日本の問題は、「中絶」という個別の問題ではなく、女性の「自己決定権」がないがしろにされている問題であることを改めて感じる。そして、その権利の中には、ディヴァン監督の描こうとした「快楽を得る権利」も含まれていて、そう考えると、国が、とかではなく、多くの男性がその権利を侵害していると言えるのかもしれない。


なお、映画の公開に合わせて特集が組まれたラジオ番組「荻上チキsession」では、地続きの問題として「避妊」や「性教育」についても触れられていた。パンフレットでは「82年に医療保険適用が始まり、2013年には、中絶医療費は100%医療保険でカバーされることになった。22年1月からは、医学的避妊は緊急避妊薬を含め、25歳以下のすべての女性に無償で提供されている」と現在のフランスについて紹介されているが、日本との差に驚く。見直すと、パンフレットの文章とsessionのゲストは同じ人で、ライターの高崎順子さんだった。少子化対策は、日本にとって大きな課題であることを考えると、この人の本も読んでみたい。当然、今年のノーベル賞作家であるアニー・エルノーの原作も。

参考(過去日記)

pocari.hatenablog.com
改めて思い返すと、『僕の狂ったフェミ彼女』は、まさに、愛なしの欲望と怒りが書かれた作品だった。全体的にこの映画とスタンスが共通しているかもしれない。

pocari.hatenablog.com
『僕の狂ったフェミ彼女』→『日本の中絶』→『あのこと』というリンクが明確な読書(映画鑑賞)で、いわゆるフェミニズムはここ数年の中心的な読書のテーマだったが、法制度や具体的な権利の部分に興味関心が移っているのかもしれない。しかし、思い返すと根本は、言葉にするのも嫌だがプロ野球選手の坂本勇人の文春砲(今年の9月)が大きかったかもしれない。最近サッカー選手についても報道があったが、中絶強要のプロスポーツ選手が跋扈する状態は本当に腹立たしい。彼らに対して少なくとも日本代表選考には選ばない、謹慎期間を科す等、もっと厳しい処分を採らざるを得ない世の中であってほしい。

中絶のスティグマを減らす方向に舵を取らない日本~塚原久美『日本の中絶』

小説『僕の狂ったフェミ彼女』で取り上げられていて気になった「中絶」の問題。
もう少ししっかり勉強したいと思って読んでみたのが、今年8月に出た本書。

目次は以下の通り。

  • 第1章 なぜ中絶はタブー視されるのか
  • 補論1 刑法堕胎罪と母体保護法
  • 第2章 日本の中絶医療
  • 補論2 日本の中絶方法の特殊さ
  • 第3章 中絶とはどういう経験か
  • 第4章 安全な中絶
  • 補論3 中期中絶とはなにか
  • 第5章 性と生殖の権利
  • 補論4 経口中絶薬をめぐる情報
  • 第6章 これからの中絶
  • 補論5 不妊治療の保険適用


著者の塚原久美さんについては、Amazonに説明のある内容が詳しい。

著者は20代初めに人工妊娠中絶と自然流産を経験し、長いあいだ心理的に苦しめられた経験から、中絶をめぐる諸問題に取り組むようになった。フリーランスで翻訳とライターの業務に従事してきたが、30代の終わりに出産することを願うようになり、軽い不妊治療を受けて妊娠し、出産に至る。助産院での出産とその後に巻き込まれた男性助産師反対運動を経て、リプロダクティブ・ヘルス&ケアの問題を痛感するようになる。
パートナーの転職で石川県に移り住み、金沢大学大学院に入学。子育てをしながら、中絶問題に関してジェンダーの視点で医療史、歴史学、法学、倫理学等にまたがる学際研究を行い、2009年に博士号(学術)を取得した。博士論文を加筆修正した『中絶技術とリプロダクティヴ・ライツ』を刊行し、山川菊栄賞とジェンダー法学会西尾学術賞を受賞。その後、金沢大学や放送大学等の非常勤講師としてジェンダー関連講座を担当するほか、数々の講演会や記事執筆、RHRリテラシー研究所の設立などを通じて、リプロダクティブ・ヘルス&ライツや中絶問題の改善に努めている。


塚原さんが自身が苦しんだ経験から中絶問題について研究し、問題についてリプロダクティブ・ヘルス&ライツの観点からアプローチしているのがこの本ということになる。

今回は、感想というよりは学んだ事実について整理していく。
まずは、中絶の「方法」の歴史について。

  • 海外では1970年代に掻爬法から吸引法に一気に置き換えられたが、日本では現在でも過半数の中絶手術で掻爬法が用いられている。そもそも掻爬法は、海外では、1970年代の中絶合法化以前には違法の堕胎師が行っていた安全性の低い方法である。
  • 経口中絶薬は1980年代に開発され、当初懐疑的に見られていたが、長年の研究の結果、2003年にWHOガイドラインの「安全な方法」に(吸引法による外科的処置と並んで)指定。2012年のガイドライン2版でも安全性が再確認。掻爬法は「安全性の低い廃れた方法」とされ、使われている場合は切り替えが勧告される。
  • FIGO(国際産婦人科連合)では、2020年にはパンデミック下では経口中絶薬のオンライン診療による処方を導入し、遠隔医療による自己管理中絶を恒久化すべきだと宣言。

ところが、日本においては、経口中絶薬をすぐに導入できない。
本を読むと、「保守的」な議員や、中絶手術を食い扶持にしている一部の医師などが世界的な流れに乗らないように歯止めをかけているような状況にある。

  • 日本では、1948年の優生保護法(96年改定で母体保護法)制定と改正を経て、他国に先駆けて事実上中絶を自由に行える国となっていた。反対に1970年代になるまで中絶が原則禁止となっていた欧米からは「中絶天国」と呼ばれていた。
  • 1970年代に入り、欧米で中絶を女性の権利として認めるのと反対に、日本では「実質的な中絶の自由」に対する逆風が強まり、一方、オカルトブームの中で「水子」という言葉がもてはやされる。商業主義的な水子供養キャンぺーン*1や保守的な議員らが中絶を「女性の罪」「母の罪」として女性を糾弾し、中絶のスティグマが強まる。
  • 1994年のカイロ会議で「リプロダクティブ・ヘルス&ライツ」が定義され、日本にも「ジェンダー」などの概念が紹介されたタイミングで、2000年代前半の「性教育バッシング」「ジェンダーバッシング」によって状況は一転。性教育の代わりとなった「いのちの教育」では中絶への罪悪感を増幅するような内容が教えられるようになった。

日本はことごとく世界の流れと逆行していることに驚くが、この問題について触れる度に、何故まだ?と思ってしまうのは「堕胎罪」についてで、本書では、女性の権利の観点から、堕胎罪の撤廃について何度も書かれている。

日本も批准している国連の女子差別撤廃条約では、女性にのみ刑罰を科す法律を禁じており、堕胎罪の撤廃は世界の本流です。カトリック教徒が人口の大半を占めるアイルランドでさえ、2018年に国民投票で中絶が合法化されました。そして、第二次世界大戦後、日本の制度を真似て堕胎罪を制定していた韓国でも2021年の1月1日から堕胎罪が無効となっています。
日本も批准している国連人権規約にも、「女性と少女の中絶の権利」(社会権規約、2016)、「女性と少女の中絶に関する自己決定を妨げられない権利」(自由権規約、2019)が明記されました。世界では「女性の中絶の権利」はすでに確立しているのです。
刑法堕胎罪とスティグマのために「中絶は罪」という意識が根強くあり、法外な料金設定でアクセスが妨げられているいまの日本では、中絶の権利が守られているとは言い難い状況が続いています。しかも日本では、法外な値段をつける「中絶ビジネス」とでも言うべき事象が起きており、女性や少女の中絶へのアクセスが阻まれているのです。p200

刑法堕胎罪を100年以上にもわたって維持し、中絶に関する配偶者同意要件を70年間にもわたって保持してきたことにも表れているように、日本政府は女性の権利侵害を無視してきました。さらに女性のRHRを改善する国としての義務も放棄し、「自由診療」の名のもとに医師が暴利をむさぼることができる制度を等閑視してきたのです。p230


強く感じたのは、これも文章中で何度も繰り返される「中絶のスティグマ」。
この中で、近年カトリック国でも次々と中絶が合法化されているのは、経口中絶薬の導入で中絶観が様変わりしているから、という指摘が興味深かった。
日本では「掻爬」の「掻き出す」イメージが中絶のスティグマ化を助長しているが、それに対して経口中絶薬であればイメージ的にも随分受け入れやすい。
技術の進化によって、倫理観も変わって来ているということがよく理解できる。と同時に、経口中絶薬へのアクセスに制限をかけ続ける日本政府と、掻爬法にこだわる日本の医療業界は、まだまだ中絶の罪悪感を温存したいのだな、と思ってしまう。
さらに、そもそも根本的には「堕胎罪」をなくさなければ、(たとえば中絶薬へのアクセスの方法によっては)中絶は「罪悪感」ではなく「罪」そのものということになってしまうのはおかし過ぎる。憲法改正にこだわるよりも、100年以上に作られた時代遅れの法律改正に力を入れて欲しい。


そんな視点で政府の女性政策のニュースを見ると、白々しく映ってしまう。

ジェンダー平等への課題や女性活躍の取り組みを議論する政府のシンポジウム「国際女性会議WAW!」が都内で3日開かれ、「新しい資本主義に向けたジェンダー主流化」をテーマに議論が交わされた。開会式で岸田文雄首相は「女性の経済的自立は(政権が掲げる)『新しい資本主義』の中核だ」と述べ、すべての分野で女性の視点をとり入れた政策づくりを進める考えを強調した。
岸田首相「女性の自立は『新しい資本主義』の中核だ」 国際女性会議 [岸田政権]:朝日新聞デジタル

いいこと言っている風の「女性の視点をとり入れた政策づくり」などというアピールは、女性の人権侵害を無視している状況では、素直に受け取れない。
もちろん、国会で、人権の概念を理解していると感じられない国会議員*2に総務政務官を任せ「適材適所」と言い切るのが岸田首相なので、「やる気がない」ことは分かっているが。


なお、本書では、主に5章で、女性の権利、性と生殖の権利について、歴史を辿って説明があり、リプロダクティブ・ヘルス&ライツについても理解が進む。
中絶については、今年6月にアメリカの最高裁で過去の判決が覆され、中絶の権利が狭められる方向に向かったことが話題になったように、「考え方はそれぞれ」という部分もあるのだろうと何となく理解していたが、世界の趨勢はそうではなく、女性の人権を尊重できるよう法と医療を整備する方向に向かっていることがわかった。
これに限らず日本政府の政策を評価しようと思えば、国内外の状況について広く目を向けて勉強する必要がある。
…と書いていて、それは面倒くさいな、と思うのと同時に、知ることが出来て良かった部分も当然大きい。
選挙など政治参加できる場で正しい選択をするためには、後者の気持ちに目を向けて勉強を続けるしかない。

参考(過去日記)

pocari.hatenablog.com

*1:つまり水子供養は昔からあるものではなくこの時期に作られた風習

*2:「日本に女性差別というものは存在しない」というかつての自身の発言に対して「命に関わるひどい女性差別は存在しないという趣旨だ」という答弁をする杉田水脈議員。問題発言を指摘されてそれを撤回せずさらに新たな問題発言を繰り出し、増え続けるばかり。「適材適所」がゲシュタルト崩壊してきています。

再読時の感動が深い歴史ミステリ~深緑野分『ベルリンは晴れているか』

1945年7月、ナチス・ドイツの敗戦で米ソ英仏の4カ国統治下におかれたベルリン。ドイツ人少女アウグステの恩人にあたる男が米国製の歯磨き粉に含まれた毒による不審死を遂げる。米国の兵員食堂で働くアウグステは疑いの目を向けられつつ、なぜか陽気な泥棒を道連れに彼の甥に訃報を伝えに旅出つ――。

ざっくり言えば、1945年7月のベルリンを舞台にしたロードノベル。


メインは17歳少女+成人男性のコンビというと『すずめの戸締まり』と似ているが、『すずめの戸締まり』のような長距離ではなく、ベルリン中心部からポツダムのバーベルスベルクまでの30キロを車、地下鉄、歩きを駆使して進む。
1945年7月は、英米ソ3か国の首脳が、まさにポツダムに集まり、ポツダム宣言を出す直前の状況で、ベルリンは英米ソ仏による分割統治が行われている。
17歳の少女アウグステ・ニッケルが旅を共にするのは、あらすじでは「陽気な泥棒」と紹介される元俳優のファイビッシュカフカ(ジギ)。
命を救った恩人クリストフの甥にあたるエーリヒにクリストフの死を告げに行く旅、というそもそもの設定が「?」なところはありつつ、色々な登場人物と出会いながら旅は進む。


ところが全469ページ中300ページを進んでも話の全貌がよくわからず収束が見えないまま、疑問点(特に、による位置の把握)ばかりが増えていく。380ページ目でやっと、エーリヒに辿り着いたと思ったら、そこで大きな発見があるわけではなく、柔らかい展開で、いよいよ「どう締めるんだこの話?」と思った矢先に、絶体絶命のピンチから、急転直下の「犯人は私です」というアウグステの告白。
ロードノベルとしての面白さを重視したここまでと一転して、このあとは、怒涛の伏線回収が始まる。戦争を題材にして、多様な人間たちの人生を描く、純文学寄りの小説だと思っていたら、かなりしっかりした「ミステリ小説」であることが判明して驚く。
すべての謎が、ジギ(カフカ)の手紙の中で次々と明らかになる流れは、詰め込み過ぎと思いつつも、圧巻だった。


ジギ以上に、常にアウグステの近くにいた『エーミールと探偵たち』(英訳版)をラストシーンに持ってくるのも巧い。
そもそもケストナーの本は党の焚書の対象だったと書かれているが、ベルリンにいながら反政府的な言動を止めなかった作家だから当然だろう。政治的要素がほとんどない『エーミールと探偵たち』も閲覧制限があり、なおかつ英訳版ということで、ナチス統治下では所持を許されない本。したがって、これが自分の手に戻ってきたことは、まさに自由が戻ったことを意味する。だからこそ、このラスト。

自由だ。
もうどこにでも行ける。何でも読める。どんな言語でも…
失ったと思っていた光が、ふいにアウグステの心に差した。そしてその光は、今のアウグステには白く、眩しすぎた。


ラストの文章としては違和感がないが、読んだ誰もがアレ?と思う。この「自由だ。」は、物語の始まる前の台詞だからだ。
これは、これまで1945年7月のベルリンの旅の様子を補うように、過去の出来事が「幕間*1として挟まれる構成で進んできたのに、最後が「幕間」で終わってしまう構成による。


読者は、真相が明らかになったあとのアウグステのことが知りたいのに、アウグステのことは描かれない。この小説では「Ⅳ」の最後の台詞が、時系列的には最後のアウグステの言葉となる。

「私はあのことを今までずっと"戦争だったから"と自分に言い聞かせてきた。でもわかったんです」
ドブリギン大尉は興味深そうな目つきで私を見ている。
さっきまで、今日の空がこんなに美しくなければよかったと思っていた。私の心と同じく、雨が降り出しそうな重苦しい曇天であればと。だけどそうじゃない。これで正しかった。晴れていてよかった。
「ベスパールイ下級軍曹…トーリャ。どうか他の人たちにも通訳して伝えてください。大事な話をします。
私はクリストフ・ローレンツを殺しました。(略)
私が直接歯磨き粉に毒を入れて、クリストフ本人に持たせたんです。なぜなら
p403-404


このあと、小説は以下のように締められる。

  • 「幕間Ⅳ」:1940年のベルリンの空襲から1945年7月。クリストフに歯磨き粉を渡す直前まで。(クリストフの死の真相)
  • 「Ⅴ」:ジギからアウグステに向けた手紙(後日談と種明かし)
  • 「幕間Ⅴ」:クリストフに会ってから『エーミールと探偵たち』が戻るまで。物語が始まる直前のエピソード。

つまり、これまで「Ⅰ」~「Ⅳ」までアウグステの一人称で進んできたにもかかわらず、「Ⅴ」はジギの手紙になるため、「Ⅳ」のラストで真相を告白したあとのアウグステの心情が見えない。
このラストは表情が見えない少女が描かれるカバーのイラストと符合する。
ダメ押しで『ベルリンは晴れているか』というタイトルが改めて読者に問いかける。
アウグステの心は晴れているのかと。

再読

初読時にも、アウグステに大きなインパクトを与えたことが読み取れるセリフがいくつかある。

「ええ。私もあなたたち赤軍に辱められました」
大尉はにやりと唇を歪ませ、紫煙を吐いた。
「フロイライン、あなたも苦しんだのでしょう。しかし忘れないで頂きたいのは、これはあなた方ドイツ人がはじめた戦争だということです。”善きドイツ人”? ただの民間人? 関係ありません。まだ『まさかこんな事態になるとは予想しなかった』と言いますか?自分の国が悪に暴走するのを止められなかったのは、あなた方全員の責任です」
この人はあれが私のせいだというのか。ドイツの女性たちは父や兄や弟が他国で人を殺した代償に、凌辱されたのか。p239

このドブリギン大尉の発言は、彼の立場を考えれば詭弁に過ぎないのだが、アウグステにとっては大きい影響を与えたようだ。
勿論、この前後には、ジギの複雑な半生や、レニングラード包囲戦で飢えに苦しんだベスパールイ下級軍曹の話が出て来て、ユダヤ、ドイツ、ロシア(ウクライナ)それぞれの立場で悲惨な出来事があることを理解する。
しかし、ドブリギン大尉の発言を聞く前は、そのような悲惨な出来事は「みんな、戦争が悪いんです」と、戦争を、皆に平等に降り注ぐ「天災」のようなものとして捉えていた。しかし、そうではなく、「戦争を始めた人」がいて、その「責任」の一端が自分にもあるという感覚を強く持つことになる。


その後、もう一つ決め手となったのは、(同性愛者であることでナチス化で苦しんだ)ハンスの発言だ。

私はずっと心にのしかかっている思いを、ふとハンスに訊ねてみたくなった。
「…ハンスなら、憎らしい相手に会ったらどうする?」
(略)
「僕だって、薔薇色の三角形で僕に印をつけて矯正させようとしたあの人たちに、復讐したい気持ちはあるよ。女の子の裸のブロマイドをスライドで見させられたり(略)
もし今だったら、あの時の医者や心理学者たちを殺しても咎められないかも。だってナチスの悪いやつらだからさ」
(略)
「でも僕は臆病だし、正義って何なのかわからなくなった。だからあの人たちが、もうとっくに死んでて、復讐しなくて済めばいいなって思うよ」
(略)
さっきハンスと話してから、私は頭の中で彼の言葉を反芻し続けていた。無視したくても、骨に達するほど深く刺さったナイフのように、容易には抜けない。もし抜いたら血が大量に溢れて、私は死んでしまうだろう。


17歳のアウグステは2件の殺人に携わっている。
赤軍に辱められた直後に、その相手に銃を撃ったのが一件目。
そして、恩人でありながらイーダの死の原因と判明したクリストフに毒入り歯磨き粉を渡した件。
初読時は、読者には後者の事実は伏せられているので、前者の事実を思い浮かべながら読むが、これはミスディレクション(一種の叙述トリック)だ。
ハンスの言葉を聞いた時に思い浮かべていたのは間違いなくクリストフの件だろう。


つまり、この小説は、2件の殺人のうち、特にクリストフの件についてアウグステがどうすべきかを迷いながら最終的な結論に至る話と読むことができる。
だから、初読時は、(ドブリギン大尉から命じられているとはいえ)エーリヒに会いに行く意味がよくわからなかったが、わかった上で再読すると様々な発見がある。


特にエーリヒに会ってからの場面は読みごたえがある。
エーリヒに、クリストフが毒を飲んで死んだということを告げたときの、エーリヒの顔に浮かんだ表情の描写の背後は、アウグステの「自分の行動は正しかった」という安心が見える。その後も以下のように「たどり着いた」「私の役割もこれで終わり」と書いている。

だけど今、私の心をいっぱいにしている感情はただひとつだ。それは共感だった。
やっとたどり着いた。

クリストフの死をエーリヒに伝えられたし、下級軍曹がちゃんと報告してくれれば、エーリヒへの妙な疑いも晴れるだろう。
戦争は終わった。世界は美しい。そして私がやるべき役割も、これで終わりだ。あとひとつを残して。でもそのことは、まだ今は考えたくない。

そしてその後のエーリヒと2人での会話シーン。(この直後にドブリギン大尉がやってきて、本性を現し、最後の告白に繋がる。)

「大変だったでしょう、あのふたりと一緒に歩くのは」
いつの間にか隣に来ていたエーリヒが苦笑して、私もつられて笑ってしまう。
「確かに色々ありました。でも今は、灰色の曇天がやっと晴れた心地でいます」
「僕を見つけて、叔父の訃報を伝えられたから?」
穏やかに言うエーリヒに、私は頷いた。

でのアウグステの台詞から、クリストフの死を伝えることで、すでに彼女の心は(半分)晴れていることがわかる。


彼女が行うべき「もうひとつ」は何かを考えながらアウグステの最後の言葉を読むと、それが丁寧に書かれている。

私はクリストフ・ローレンツを殺しました。毒入りの歯磨き粉を彼に渡したのは、外ならぬ私自身です。誰にも売っていません。人狼なんていないんです。こんな格好をしてまで、エーリヒにどうしても会って伝えたかったのは、彼をおびえさせた人はもうこの世にいないと、安心してほしかったから。そして、告白すべきだったから。
私が直接歯磨き粉に毒を入れて、クリストフ本人に持たせたんです。なぜなら

さらにジギの手紙の内容からアウグステのその後の行動を見ると、彼女が行うべきと考えていた「もうひとつ」は「クリストフを死に至らしめたことを告白し、その罪を償う」ことだった。
彼女の正義感と勇気が、道化者のジギにも影響を与え、ナチスプロパガンダに荷担したことを自首するかどうか悩んでいることが手紙に書かれている。

だったら見なければいい。戦争ってそういうものだから、ひとつひとつ見ていたらきりがないから、誰しもみんなすねに傷があるから、言い出したらきりがないから、見ないし、話さない。俺はそれでいいと思う。だけど君は誤魔化さずに、一歩前に踏み出した。
俺は悩むのが苦手だ。楽な方ばかり選んで生きてきた。勇気なんて持つ必要ない人生を送ってきた。だのに、君に出会ってから、俺は考えたくないことを考え続けている。

物語序盤では、主人公のアウグステが、市街戦の際に赤軍兵から強姦され、直後にライフルで相手を殺したことが語られる。
戦争の中での出来事だったから…。
そう言い聞かせてはきたが、人を殺してしまったことが、彼女の心にずっと重くのしかかっていたのだろう。(クリストフの殺害は直接手を下してはいないにしろ)彼女はこの2件について「償わなければならない」とずっと考えていて、心は雨が降り出しそうな重苦しい曇天だった。 
エーリヒに出会い、彼女の心が晴れるまで、彼女を支えたのはラストシーンでも登場するケストナーの本。この本は自由の象徴であること以上に、英語学習のテキストであり、過去の自分の努力の象徴だった。
先日の『すずめの戸締まり』とも重なるが、自分を救い、勇気づけるのは過去の自分であるということだろう。だからこそ、未来の自分に恥じないよう、誠実に日々を過ごしていく。間違いを犯してもそこに向き合う。
「戦争だから」に逃げないで自分を貫くアウグステのまっすぐな生き方に、こちらも勇気づけられるような作品だった。

これから読む本

2次大戦はこれまでしっかり勉強したことがないので、今回の登場人物であるトーリャことベスパールイ下級軍曹が苦しんだエピソードが語られるレニングラード包囲網の独ソ戦については知りたい。
また、ナチスドイツは、以前『マウス』を読んだことがあったが、改めて、ヒトラー関連の本を、そして今回、登場しないがポツダム宣言の3首脳(チャーチルスターリントルーマン)のうち、スターリンが気になる。アウグステの父親も共産党員で、二次大戦前のドイツでは、ソ連に憧れを抱き、ナチス独ソ不可侵条約を結んだスターリンに幻滅した人がいたようだ。と考えると、やっぱりドイツ、ソ連ウクライナあたりの本、ということで独ソ戦かな。


また、そもそも『ベルリンは晴れているか』は、『ベルリンうわの空』をビブリオバトルで発表した際に、関連本としてお借りしたもの*2だった。その意味では香山哲さんの本を読みたい。この本はかなり面白そうでは…。

*1:「まくま」と呼んでしまったが通常は「まくあい」と読む。確かに。

*2:数年借りっぱなしだったものを、今回お会いする機会があったので、それに合わせて読みました!読んで良かった!ありがとうございました。

戸惑いと感動と~新海誠監督『すずめの戸締まり』


今回、どの程度がオープンになっているのかあまり理解していないが、話題作は徐々にネタバレOK圧が高くなっていくので、早く行っておきたいと思っていた。
結局公開1週後に観たが、観るのを急いだのは公開直後に「震災の映画」ということを聞いたため。「震災」とは…?
その一言以降、それこそ厳重に心の「戸を締め」て、それ以外の情報が入らないようにして映画館に向かった。

以下、実際に観たときに感じたことを列記していく。


物語の始まりは宮崎県。
東北ではなく、しかも十分遠いことに安心する。
その後、緊急地震速報と「みみず」の登場に、そうか、「東日本大震災ではない地震」の話なのだなと改めて安心する。
そして、舞台は愛媛、兵庫へと移り変わっていく。

新幹線で東京に行くあたりで、東北に近付いていくのは嫌だなと思いつつも、どうも東京が地理的に重要なポイントらしいとわかり、作品で扱うのは「これから起きる関東大震災*1なのだとひとまず理解して、気持ちを落ち着ける。


しかし、物語が進み、最後に訪れるべきは「夢で見た場所」であることがわかる。
ここで、ああそうなのか、と。やはりここで東北に行ってしまうのかと観念した。
それ以降は、ちょっと普通のアニメ映画を観ているのとは気の持ちようが全く違う。


福島の帰還困難区域が出てくるにつけ、これは架空の場所ではなく実際の日本を描いている映画なのだと、さらに気を引き締める。
海の見えない巨大防潮堤に「ああ、今はこんな風になっているのか」と思ったタイミングで、車は田んぼに突っ込み自転車での移動に。
ここまで明るい気分にさせてくれてくれた(カーステレオから流れていた)懐メロには感謝しつつクライマックスへ。


自分が泣いてしまったのは、すずめと環が訪れた「以前自宅のあった場所」の風景。


震災直後の2011年の夏に出張で仙台に行った際に、立ち寄った閖上で見た光景が重なったからだ。
仙台在住時にはプールや市場にもたびたび訪れていた、かつての閖上の町だが、津波で大きな被害を受けた結果、家の区画だけが残る状態が連なり、まさに映画で見るのと同じ景色が広がっていた


とにかくこれはとても複雑な気持ちだった。
今自分が泣いているのは、物語の進行とは全く無関係な理由で、むしろ自分の記憶の扉が開いたことが原因。
さらに、こういうアプローチで辛い気持ちになる人が多数いる映画であることが、良いことなのか、悪いことなのか。


しかもその後は、異世界に入ったとはいえ、中での風景は、気仙沼津波火災。ここに至って、住居の上の船は、震災遺構として保存の話もあった大槌(岩手)のものだということが分かる。
東日本大震災の実際の光景が積み重なり、こんなに扉を開いたら、映画自体を「締められない」のではないか、とかなり戸惑った。「後ろ戸」の「戸締まり」が成功したときもスッキリしない気持ちだった。


しかし、その後の、高校生のすずめが12年前のすずめに語りかけるシーンが印象を一変させた。
最後に、主人公が生きる望みを与えられるのは、エヴァンゲリオンのテレビ版の最終回の拍手シーン等も似ているかもしれない。しかし、受け入れてくれるのは未来の自分。
素晴らしい仲間が迎えてくれるのではなく、未来の自分が自分を勇気づけてくれるという構図は、友だちのいない人、家族を失った人、誰にとっても救いになる。

「心配しないで。あなたはちゃんと成長していける」(うろ覚え意訳)
これを言ってほしい、他の人ではなく未来の自分からこれを言ってほしい人たちは、特に若い世代にはたくさんいると思う。ここに新海誠監督の次世代に向けた優しさを感じて、ここは物語に泣かされた。


また、映画を観たあとパンフレットおよび入場者特典の『新海誠本』*2を読むと、監督自身、東日本大震災への強い思い入れがあり、けじめをつけたい気持ちでこの作品を手掛けたということがよくわかった。
その意味でも、改めて新海誠監督の誠実さに触れられたし、日本を代表する監督の作品だからこそ、アニメでこのテーマを扱うことができたのかと思う。


思えば、昨年の朝ドラ『おかえりモネ』も気仙沼を舞台にし、直接的に東日本大震災を扱っていた。しかも「おかえり」「ただいま」の話であり、「いってきます」の本作ともその点で繋がりがある。
あの日から10年が経過し、直接の当事者でない人達にとっては、エンタメ作品で直接扱うことで向き合う時期なのかもしれない。
ただ、繰り返しになるが、当事者に近い場所にいた人たちがどのようにこの作品を捉えるのかはわからない。そういった人の評価も聞き、安心し、もっと好きになれる作品になると良いなと思う。

「場所を悼む」と「ソウルがある」、そして「正しさ」

東日本大震災」が前面に出てくる前に、メインとなっていた「場所を悼む物語」というテーマは、とても良いと思った。特に、今は廃墟となってしまった場所でも、かつては多くの人が言葉を交わし、訪れ、生活していたということは、もっと意識されるべきだと思う。

11/16に発売されたばかりのオリジナル・ラブ『MUSIC, DANCE & LOVE』のラストを飾る「ソウルがある」は、ウクライナへのロシアの軍事侵攻に反対する反戦歌となっている。

ミサイルが落ちたそこには
ソウルがある
ソウルが血を流している
愛が生きている
愛が叫び声を上げている

ロシアの侵略を非難する内容だが、「ソウルがある」という歌詞は、その地名や地図の背後にある人間について想像することを促す歌だ。
『すずめの戸締まり』は、より近い場所で起きたことを想像することを促す。
東日本大震災に限らず、地域の歴史を振り返り、忘れない。
現在進行形の遠い場所のことも、近い場所で過去に起きたことも、そこに暮らす人たちのことを、僕たちは想像することができる。
そういったことが出来ることが人間の強みだろうし、そうして欲しいと思って監督は映画を作ったのだろう。

「観客の何かを変えてしまう力が映画にあるのなら、美しいことや正しいことにその力を使いたい」

映画監督のすべてがこうあってほしい、とは思わないが、こんなことをストレートに言う新海誠監督はいいひとだと思う。そして、日本で一番売れる映画の監督がこういう監督で良かった。
「正しい」「美しい」は、もちろん危うさを持った言葉だが、この「正しさ」というキーワードが主題歌の歌詞にも引き継がれている。

愚かさでいい 醜さでいい 正しさのその先で 君と手を取りたい

毎度ながら作品に絡めた歌詞が上手く、野田洋次郎の才能を感じるが、『君の名は。』『天気の子』と比べても、まさに「正しさ」を探求したような作品だと思った。
多くの観客に監督の思いが伝わると良い。

そのほか

すずめ(岩戸鈴芽)を演じるのは、ドラマ「真犯人フラグ」で見知っていた原菜乃華は全く違和感なし。
(顔で選んでいないか?といつも監督を疑ってしまうが)


それに対して宗像草太を演じた松村北斗SixTONES*3は冒頭シーンが棒読みで不安だったが、以降は慣れる。
しかし「かしこみかしこみ」のシーンは違和感。『来る』の松たか子ですら違和感があったので、神道の言葉(祝詞?)を、通常の台詞から連続的に発声するのは難しいことなのかもしれない。でも、いつも最後は「かしこみかしこみ」だったので、何とかしてほしかった。


キャラクターとしては「椅子」は良かった。予告編では「可愛い?かな」と思っていたダイジン、サダイジンは「とても怖い」という印象になった。ぬいぐるみを買うとしたら「椅子」一択です。

参考(過去日記)

pocari.hatenablog.com

*1:ただ、みみずが出てくるのが丸の内線だったので、え、地下鉄サリン事件?と勘違いして一瞬怯えてしまった

*2:パンフレットより充実している部分が多数あり、これが無料…?

*3:また「これ何て読むんだっけ」「ストーンズ」「えーーーー!読めないよ!」というやり取りを繰り返してしまった。

人口減少と「男性の育児休業取得」~メアリー・C・ブリントン『縛られる日本人』

人口減少が進む日本。なぜ出生率も幸福度も低いのか。日本、アメリカ、スウェーデンで子育て世代にインタビュー調査を行いデータとあわせて分析すると、「規範」に縛られる日本の若い男女の姿が見えてきた。日本人は家族を大切にしているのか、日本の男性はなぜ育児休業をとらないのか、日本の職場のなにが問題か、スウェーデンアメリカに学べることは――。アメリカを代表する日本専門家による緊急書き下ろし。

狙いを広げ過ぎず、メッセージはシンプル。
人口減少への危機感からスタートする話なのに、この本が狙う原因と解決策のメインは「男性の育児休業取得」に絞られる。
それだけ聞くと、疑問に感じてしまうが、それこそが重要であることがよくわかる本になっていた。


目次は以下の通り。

序章 日本の驚くべき現実
第1章 日本が「家族を大切にする社会」だという神話
第2章 日本では男性が育児休業を取れないという神話
第3章 なぜ男性の育児休業が重要なのか
第4章 日本の職場慣行のなにが問題なのか
第5章 スウェーデンアメリカに学べること
第6章 「社畜」から「開拓者」へ―どうすれば社会規範は変わるのか


日本を研究する米国人が著者というところも興味深いが、この本の一番の特徴は、「日本と外国の違い」という切り口ではないところ。
もっと言うと、「日本とアメリカとスウェーデンの違い」という観点から日本人の特殊性に迫るという点。
この3者の比較というところがポイントなのだが、この3者の違いを端的に表現した部分を引用する。

共働き・共育てモデルの支援に関して、日本が「社会政策は強力だが、社会規範が脆弱」で、アメリカが「社会政策は脆弱だが、社会規範が強力」だとすれば、「社会政策と社会規範の両方が強力なのがスウェーデンだ。p201

それでは、具体的に何が違うのかについて主に5章から引用していく。

日本とアメリカの違い

政策面でのサポートがほとんどない(育休は会社との交渉で取るしかない、保育料が高すぎる等)アメリカの出生率が日本より高い理由については、こうまとめられている。

第一に、第1章で指摘したように、私たちが話を聞いたアメリカの若い世代は、家族の定義を広く考えていて、核家族のメンバーだけでなく、それ以外の家族や親戚、友人、近所の人たちなどを含む支援ネットワークを築いている場合が多い。この点は、人々が結婚して子どもをもつことを後押しする効果がある。第二に、アメリカでは、ジェンダー本質主義的な発想、つまり男性の役割は主として稼ぎ手で、女性の役割は主としてケアの担い手だという考え方が日本よりも弱い。そのため、アメリカのカップルは共働き・共育てモデルを柔軟に実践しやすい。そして第三に、本章で述べてきたように、アメリカのほうが労働市場流動性が高く、少なくとも一部の教育レベルの高い層にとっては、家庭生活とのバランスが取れた働き方を雇用主と交渉しやすい。p200


このうち、一点目については具体的な例が、1章にインタビュー調査の結果としてまとめられている。

  • 家族とはどのようなものか
    • 男女のカップルと少なくとも一人の子どもで構成されると考える人がほとんど。(日本)
    • ペットや友人関係も含む。養子を採ることも考える。友人夫婦や親戚、自分たちの親などの力を借りて、育児や介護を行う。(アメリカ)
  • 子どもが幸せに育つために母親と父親が必要か/「父親と母親の両方がいる家庭」以外の家族形態
    • 父親には父親の役割があり、母親には母親の役割がある。両方がいる方がよい/シングルマザーは望ましくない(父・母がいない家族形態として思い浮かぶのはシングルマザーだけ!)(日本)
    • 父親と母親にそれぞれ異なる役割があるとは考えない。母親と父親の両方が必ずしも必要とは考えない。/シングルマザー、シングルファザー同性カップルでも適切な子育てができる。(アメリカ)


例えば、インタビューの質問の中で「父親と母親の両方がいる家庭」以外の家族形態を問われて、日本人のほとんどが、シングルマザーを想定したのに対して、アメリカ人はシングルマザー、シングルファザー同性カップルを思い浮かべたというところが典型的だが、このあたりの基本的な部分が、タイトルで言われている、日本人が「縛られている」部分だ。
友人関係についても、アメリカ人は「夫の友人」「妻の友人」ではなく、「夫婦の友人」をどんどん増やしていくのに対して、日本人の場合は、ほかの夫婦と親しくするのを躊躇すると答える人がいる。「家族の問題」を夫婦内で抱えてしまうことで、どんどん生きづらくなってしまう。この辺も実感に合っている。
アメリカと日本との違いである「社会規範」の持つ力の大きさが理解できる。

日本とスウェーデンの違い

最初に書いた通り、日本とスウェーデンの共通点は「社会政策は強力」という部分だ。
全く知らなかったことだが、日本の女性向けと男性向けの育児休業制度はスウェーデンよりも充実しているという。
それにもかかわらず、制度の使い方がここまで異なる(スウェーデンでは男性の90%が育児休業を取得する)のはなぜか。
長いが引用する。

スウェーデンでは男性の育児休業制度が導入されてからの歴史が長いため、男性たちが制度を利用することに慣れているからなのか。それもひとつの理由ではあるだろうが、それだけではない。見落としてはならないのは、スウェーデン政府が意識的に、女性の職業生活を支援し、同時に夫婦が望む数の子どもをもてるようにすることを目指してきたという点だ。スウェーデン政府は、共働き・共育てモデルを広めることこそ、二つの目標を同時に達成するうえで有効だと、早い段階で気づいていた。そして、そうしたモデルを確立するための取り組みの一環として、女性だけでなく、男性も仕事と家庭を両立できるようにする政策を採用してきた。
それに対し、日本の両立支援政策は、女性に仕事と家庭を両立する方法を教えることに終始してきた。男性稼ぎ手モデルを改めず、男性の人生が職場の規範に大きく左右される状況も変えようとしてこなかった。このように政策上の動機が異なるために、日本とスウェーデンの現状に大きな違いが生まれているのだ。スウェーデンでは、日本よりも男性の育児休業取得率が高く、家庭と職場でジェンダー平等が進展している結果として、日本よりも大幅に高い出生率を維持できている。p208-209

つまり、政策の意図や、別の制度との組み合わせ*1が異なれば、政策の効果も全く変わってくる。このあとでも述べられているように、日本の政策は「男性稼ぎ手モデルを維持するべく設計され、企業の現場で実践」されている。
逆らえない異動や単身赴任などの悪習と多くの「社畜」に支えられる「男性稼ぎ手モデル」を中心とした社会規範を変えないと、制度だけ用意されてもなかなか利用できない、というのは本当によくわかる。

問題点を踏まえた政策提案

この本が非常に上手くまとまっているのは、5章までの内容を踏まえて第6章で、社会規範を変えるための政策提案がなされていることだ。

  1. 子どもを保育園に入れづらい状況をできる限り解消する
  2. 既婚者の税制を変更する
  3. さらなる法改正により、男性の家庭生活への参加を促す(→男性の育児休暇の義務付け)
  4. ジェンダー中立的な平等を目指す

個別には、具体的な政策主体や政策内容、効果がまとめられているがここでは割愛するが、4点目の「ジェンダー中立的な平等」についてだけ、少し触れる。

いわゆる「ジェンダー平等」を達成するアプローチは2種類あり、女性を男性に近づけてもいいし、男性を女性に近づけてもいい。日本で取られてきたのは前者の政策で、日本の女性たちは、男性のように有償労働を行い、そのうえで、家庭での無償労働としての家事と育児の責任を果たすことも求められている。
これについての作者の文章は冷静でいて熱い。以下に引用する。

日本の女性は男性に近づくために最大限の変化を遂げてきたが、日本の男性は女性に近づくための変化をほとんど遂げていない。本書の記述を通して理解してもらえていると願っているが、私は変化の遅さを理由に日本の男性たちを「非難」したいとは思っていない。日本の厳しい労働環境、雇用主が男性社員の職業生活を(ひいては家庭生活も)強力にコントロールする状況、そして、そのような夫の状況に合わせて妻がみずからの職業生活と家庭生活を調整しなくてはならない現実は、日本社会全体にとって不健全ではないか…私が心配しているのはこの点だ。
この状況がいったい誰の得になるのか。日本の社会のあり方は非常にゆっくりとしか変わっておらず、現状が安定した均衡状態になっているように思える。このような状態は、家族や個人、そして社会全体に恩恵をもたらしているのか。それとも、この状態は、賛同者が減り続けている社会規範により支えられているにすぎないのか。
(略)
いま必要なのは、男性がもう少し女性のようになることを促すしくみだ。私がこのようなことを主張するのは、私の国であるアメリカも、ジェンダーのバランスが取れたジェンダー平等ではなく、男性的なジェンダー平等に向かっているように思えるからでもある。
(略)
第1章で述べたように、アメリカは日本よりも家族にやさしい社会だと言えるかもしれない。その一因は、アメリカ人のほうが家族の定義を広く考えていることにある。その点は、これからも変わらないだろう。しかし、日本の職場とアメリカの職場はいずれも、いまや多数派である共働き夫婦のニーズに合わせて、北欧諸国のような共働き・共育てモデルをもっと支援すべきだ。私の最後の政策提案の土台には、そうした認識がある。p250


実は、自分の職場でも、今年、直属の部下の男性社員が育児休暇*2を取った。
「育児休暇制度を利用したい」と言われて、会社でも「多様な働き方」を推進しているし、ここで断ることはできないな、と思いつつも、他の社員へのしわ寄せにばかり頭が行ってしまい、3か月の申し出については2か月に短縮してもらった。
というように、男性が長期の育児休暇を取ることに否定的な気持ちもあったのだが、事前に、この本を読んでいれば、制度の目指すところや社内の雰囲気づくりという意義にも自覚的になり、もっと育児休暇制度の活用を後押しするような気持ちになれたのかなと思う。


コロナのおかげでテレワークが進み、テレビ会議の背後に聞こえる泣き声などを通して、職場に「家庭」が漏れ出す副次的効果も生まれている気がする。
とはいえ、長時間労働そのものは大きく変わっておらず、この本で繰り返し書かれているように、職場慣行がジェンダー平等を妨げている部分は否定できない。
そんな中で、男性の育児休暇取得が「ジェンダー中立」的な平等の第一歩なのだということがよくわかった。
身の回りでは少しずつ良くなっている実感もあるが、もっとジェンダー平等を土台とした少子化対策が既定路線になっていくように、政治や社会に広く目を向けていきたいと思う。

*1:ノルウェースウェーデンの「父親クォータ」制度(夫婦に認められる合計の育児休業期間の一部を夫しか取得できないものとする)や、スウェーデンでのスピード・プレミアムという第二子出産を促す制度など興味深い制度がいくつか紹介されていた

*2:育児休業は、「国が法律で定めた公的制度」で、育児休暇は会社の制度だということを初めて理解しました。しっかりとした育児休暇制度のある会社に勤めている自分は恵まれていることがわかりました。

山に挑む人たち~NHK『激走!日本アルプス大縦断』×ドニ―・アイカー『死に山』

息を飲むような雄大な眺め、漆黒の闇に浮かぶ仲間の灯、

烈風に晒され追いつめられる自分、悲鳴をあげる身体、

絶望的な距離感、何度も折れそうになる自分の心、

目指すのはあの雲の彼方。

日本海/富山湾から太平洋/駿河湾までその距離およそ415Km。

北アルプスから中央アルプス、そして南アルプスを、

自身の足のみで8日間以内に踏破する

Trans Japan Alps Race

日本の大きさを感じ、アルプスの高さを感じ、自分の可能性を感じよう。

TJARとは? | トランスジャパンアルプスレース 2022 | Trans Japan Alps Race 2022

「トランス・ジャパン・アルプス・レース(TJAR)」
日本海富山県)をスタートし、日本アルプスを縦断して太平洋(静岡県)のゴール地点を目指す山岳レースで、全長415km、標高差27,000m、8日以内という条件で、これまでの実績と実技選考(テントの技術、地図読み等)も含めて選ばれた人のみが出場できる。


この過酷なレースのことは、3~4年くらい前にビブリオバトルで関連本が紹介されていて知った。
かなり昔の話だが、ずっと気になっていたのだろう。CMで見かけて、「これはあの時の!」とすぐに思い出し、2週にわたるドキュメンタリー番組『激走!日本アルプス大縦断』を見てみた。*1


実際に見てみると、見る前にはイメージできていなかったことが多数あった。

  • テントや食料は参加者自身で背負って運ぶ必要があり、これがスタート時点で10㎏程度ある。
  • しかも、コースは試走しているものの、明確に示されているわけでなく、道に迷って数キロをロストすることもある。
  • アルプスは尾根を進むことになり、高い標高での景色は格別。しかし滑落の危険がある。
  • また、晴れていれば景色が良いが、ガスってしまうと目の前も見えづらく危険度が増す。そもそも夜も走るレースなので、天気が良くても夜になれば視界は悪い。そしてコンディションは天候に大きく左右され、前回大会は台風の影響で中断。

というようにどこからどう見ても過酷な条件ばかりのレースに見えるが、出場者それぞれに目標があり、順位というよりは、それぞれの目標を達成することに精力を傾け、人生を賭ける、そんなレースだった。
今回見た2022年大会は、大会のレジェンドである望月将吾が一旦は走る意味を見失い、また、大腸がんから復帰した選手が、それぞれ、走る中で挑戦する意味を見出していく、という、ストーリー的にもよく出来過ぎた大会だった。
なお、大会最終盤に南アルプスを走っていた最後尾集団がリタイアを選ばざるを得なくなった台風は、今年、静岡市清水区で大規模な断水を引き起こした台風15号。台風によらないリタイアや関門でのタイムアウトを含め30名参加中10名の途中離脱者がいて、完走できたのは20名だけという、まさにサバイバルレースだった。

死に山

同時期に読んだ『死に山』で、冬のウラル山脈を目指した学生たちの姿は、トランスジャパンアルプスレースの挑戦者たちに重なって見えた。
彼らはトレッキング2級の資格を持っていたが、指導者になれる3級(最高級)の資格を得るには、

  • 最低300キロを走破、うち200キロは難度の高い地域
  • 旅行期間は16日以上、うち8日以上は無人の地域で、6日以上をテントで過ごす

という条件を満足する必要があった。
10人でスタートした彼らのうち1名は途中離脱したが、9名の挑戦者たちを不可解な悲劇が襲う。それがディアトロフ峠事件だ。

世界一不気味な遭難事故《ディアトロフ峠事件》──
その全貌と真相を描く衝撃のノンフィクション!

1959年、冷戦下のソ連ウラル山脈で起きた遭難事故。
登山チーム九名はテントから一キロ半ほども離れた場所で、
この世のものとは思えない凄惨な死に様で発見された。

氷点下の中で衣服をろくに着けておらず、全員が靴を履いていない。
三人は頭蓋骨折などの重傷、女性メンバーの一人は舌を喪失。
遺体の着衣からは異常な濃度の放射線が検出された。

最終報告書は「未知の不可抗力によって死亡」と語るのみ――。
地元住民に「死に山」と名づけられ、事件から50年を経てもなお
インターネットを席巻、われわれを翻弄しつづけるこの事件に、
アメリカ人ドキュメンタリー映画作家が挑む。
彼が到達した驚くべき結末とは…!


この本は、都市伝説化した遭難事故の真相を暴くということで、それだけで面白いが、構成が素晴らしい。
以下の3つの時点が並行に流れ、すべてが「事件の真相」が語られる最終エピソードに収束していく形になるのだ。

  • 1959年1~2月:ウラル工科大学の寮で暮らす9名(男7名、女2名※旅の途中で男1名合流)の20代前半の学生グループ(リーダーはイーゴリ・ディアトロフ)は、旅の準備を終え、鉄道、バス、トラック、スキーと交通手段を変えながら、のちに「ディアトロフ峠」と呼ばれる場所を目指す。
  • 1959年2~5月:ディアトロフ隊が返って来る予定だった2月13日以降になると、メンバーの家族から不安の声があがり、捜索隊が組織される。しかし、捜索は難航し、テント発見、数名ずつの犠牲者の発見など、すべてが終わるのに数か月を要した。
  • 2010年~2013年:作者のトニー・アイカー(米国人)は取材のためにロシアに渡る。現地での協力を受け、グループの生き残りであるユーリ・ユーディーンへのインタビューを行ったあと、事件が起きたディアトロフ峠を目指す。

それぞれのエピソードで、1959年当時のロシア(ソ連)の状況や、2010年代のロシアの人々の考え方に触れること自体が興味深い。
1959年は、フルシチョフが、スターリン(1953年没)時代の文化的抑圧を緩和しようとしていた「雪解け」の時代で、ロシアの若者にとって将来の希望を感じられる時期だったという。
一方で、生き残ったユーディンに2012年に話を聞くと、スターリン共産党支配全般に対して忠誠を表明しながら、事件の真相を政府が隠蔽していると政府に対する不信感を表明する。作者は「ロシア人の遺伝子に刻み込まれている二面性」と評するが、ウクライナ侵攻に対するロシア人の動き(プーチン支持が多数派だったが、部分動員令が出て、多くの人が大急ぎで国外への脱出を図る)を見ていると、何となく理解できる気がする。


さて、ディアトロフたちを追った章が、味気ない記録文書にならないのは、写真の数々があるからだ。
旅の記録を残すスナップ写真という位置づけのものであり、死の直前まで、時におどけたポーズで撮影されている。
このことで、1959年のことでも、フィクショナルな都市伝説の登場人物ではなく、トランスジャパンアルプスレースの挑戦者たちをテレビで見るのと同様に、目標達成に向けて懸命な人間として映って来る。


そんな彼らに何が起きたのか?


これに対してアイカーは中盤でとある仮説を結論づけ、これを読んだ自分は唖然とした。

この2週間、ユーディンにインタビューしたり、事件に関する自分のメモを見返したりしてきて、私は結論に達しつつあった。トレッカーたちがテントから逃げたのは、兵器とも、銃を持った男たちとも、それに関連する陰謀ともなんの関係もない。雪崩の統計データは信じられないほど説得力があった。スキー関連の死亡事故のうち、80%近くは雪崩が原因なのだ。結局、それがいちばん可能性の高い説ではないだろうか。p199

いや、雪男だ、UFOだ、ソ連の新兵器だ、殺人鬼だ、とさんざん煽って「雪崩」とか、それはないでしょう。そんなわけあるか!(怒)


で、当然、「雪崩」が結論ではなかった。おそらくだが、早々に「雪崩」を言い出すような構成にしたのは、アイカーらが、実際にディアトロフ峠を訪れた意味を強調したかったからなのかと思う。つまり、現地を訪れて初めて、テントがあった斜面は、雪崩が発生するような場所ではなかったことが判明したのだった。


そして、真相は…。
(以下、ネタバレを避けたい人は飛ばしてください)



この本が真相として結論付けたのは「超低周波音」だった。
地形および気象の条件を考えると、テントを立てた位置は、超低周波音が発生する絶好の位置だったというのだ。

「まるで目に見えるようです。」ベダードは言った。「みんなでテントに入っていると、風音が強くなってくるのに気がつく…そのうち、南のほうから地面の振動が伝わってくる。風の咆哮が西から東にテントを通り抜けていくように聞こえたでしょう。また地面の振動が伝わってきて、テントも振動しはじめます。今度は北から、貨物列車のような轟音がまた通り抜けていきます…より強力な渦が近づいてくるにつれて、その轟音はどんどん恐ろしい音に変わり、と同時に超低周波音が発生するため、自分の胸腔も振動しはじめます。超低周波音の影響で、パニックや恐怖、呼吸困難を感じるようにもなってきます。生体の共振周波数の波が生成されるからです」

確かに説得力のある真相だが、このオチのつき方を見て名探偵コナンを思い出した。
名探偵コナンに時々ある、コナン君が、突然、トリックの説明に最新技術の解説をしだす流れ。


「真実を知っている」と告白してきた人が、翌日に殺されたり、人が変わったように無口になったりして、「これは何か大きな力が…」と気がついていく…。
そんな陰謀論的な流れをどこかで期待して読んでいたのに、最新技術でぶん殴られたような気持ちになり、「ネッシーいないのか…」とでもいうように、少しガッカリする自分がそこにはいた。


ただ、陰謀論的な話が否定され、原因が明らかになることで、9人の若者の死に改めて焦点が当たる。
『死に山』*2は、その「真相」ではなく、山に挑んだ若者たちそれぞれに目を向けるようになるという意味で良い本だったと思う。
改めて亡くなった9人のご冥福をお祈りしたい。


最後に改めてTJARについて

ここで終わらせたら、『死に山』の感想のマクラのためにTJARを取り上げたようになってしまうので、改めて戻る。
集英社オンラインに、番組プロデューサーが自ら語っている記事が、レースの魅力を伝えている。
shueisha.online
shueisha.online


番組を見ていると、遭難事故を想起させるような場面が出てきて、何度も「無事でいてほしい」と祈るような気持ちになった。
記事にあるような「幻覚」もその一つだ。

そもそも、通常の登山者なら踏破するのにコースタイムで1か月以上を要するこのコース。選手たちはただでさえ睡眠時間を削って進むしかないのだが、予定よりペースが遅いなどの事態に陥ると、ほとんど眠れなくなる。
そうなると、冒頭で掲げた幻覚のお出ましだ。

「山中を白い軽トラックが走り回る」
「女子高生の集団が手招きをしているので寄っていくと崖」
「ないはずの山小屋が林立」
「人の顔がびっしり刻まれた石」
「見たことのない奇怪な漢字で埋め尽くされる家の壁」
「右足と左足がそれぞれ人格を持って語りかけてくる」

と枚挙に暇がない。
幻覚だけで済めばよいが、判断能力が弱まると、何度も同じルートを行き来する者や、道ばたの草を何十分と、突っつき続ける者まで現れる。

そんな、まさに「死に山」級のレースに挑戦するのが、筋骨隆々のアスリートではなく、見栄えも世代も自分と変わらないような人たちであるのが驚きで、より強く一人一人に共感してしまうところだ。記事でも、まさにそこが魅力と書かれていたが、他のプロスポーツを見るよりも深く自分の人生に重ねて感じ、味わうことのできた番組だった。


ちょうど自分も、今年は3年ぶりに出場する湘南国際マラソンを12月に控えている。
番組で見た彼らの強い意志を受け取り、自分なりの目標を達成できるように頑張りたい。

なお、TJARの関連本はいくつかあるので読んでみたい。

*1:なお、後編を見た日は、チャリダーが「乗鞍ヒルクライム」特集で、こちらも熱かった。特に年の近い49歳の猪野学が頑張っている姿が熱い!うじきつよしは64歳!

*2:なお、タイトルの『死に山』が素晴らしい。原題の「dead mountain」は、原住民マンシ族がディアトロフ峠を指す「ホラチャフリ」の言葉の意味で、通常だったら「死の山」と訳すだろうし、実際、本文中にも「死の山」で出てくるが、「不気味」さを取れば明らかに「死に山」が正解だろう。

被害者家族の思いと少年Aの「更生」~奥野修司『心にナイフをしのばせて』

この表紙とタイトルが ずっと以前から気になっていた本。その印象から小説だと思い込んでおり、改めて手に取って初めて、ルポルタージュだと気がついた。
ましてや題材としている事件が自分の生まれる前、1969年の事件に起きた(酒鬼薔薇事件を思い起こさせる)凄惨な事件とは想像もしなかった。
(事件については、Wikipediaを参照→高校生首切り殺人事件 - Wikipedia

そして読み進めるほどに、想像の枠から外れていく不思議な読書体験。


少年のイラストが描かれた表紙とタイトルからは、加害者少年の「心の闇」に迫る内容を想定したが、作者は被害者家族を丹念に取材する。
当時高校1年生の息子・洋君を殺された母親のくに子さんが、事件後数年経ってから喫茶店を開こうとする話。その母に反抗した洋君の妹・みゆきさんが、常に親の言うことに逆らって、進路を決めていった話。
そんな諸々を読んでいると、当初想定していた本の内容と違い過ぎて、自分は何が読みたくてこの本を読んでいるんだっけ?と考えてしまうほどだった。


実際、11章+終章の計12章のほとんどは、殺された少年の母親・くに子さんと、妹・みゆきさん(くに子さんの娘)の一人称で書かれており、その気持ちは直接事件の方には向けられない。ただし、その苦労の源には事件が、洋君の死が常にある。
だから、11章「少年Aの行方」で、加害者少年の現在が取り上げられたときに読者として感じる感情の高ぶりも大きい。あとがきから引用する。

「あいつをめちゃめちゃにしてやりたい」
みゆきさんは、兄を殺したAが弁護士になっていると聞いたとき、ほとばしる憤懣を従妹の明子さんに涙で訴えた。みゆきさんにはめずらしく、半狂乱のようだったという。驚いた明子さんは電話口で必死になだめたが、みゆきさんの興奮はおさまらなかった。
1人の命を奪った少年が、国家から無償の教育を受け、少年院を退院したあとも最高学府にはいって人もうらやむ弁護士になった。一方のわが子を奪われた母親は、今や年金でかろうじてその日暮らしをしている。にもかかわらず、弁護士になったAは慰謝料すら払わず、平然としているのだ。みゆきさんでなくても釈然としない。
「1人の命を奪いながら、国家から無償の教育を受け、知りたいことをいくらでも知ることができ、あったこともなかったことにできて、最高じゃないですか」
みゆきさんは精一杯の皮肉を、涙とともに吐き出した。


11章と文庫版あとがきでは、弁護士になった少年Aとの接触についても触れられ、慰謝料をめぐるやりとりが記載されている。これも被害者家族の立場からすると、本当に胸糞悪い、辛い内容だ。
少年Aの人生は、「更生して社会復帰」という少年法の一種の理想的な姿のようにも映る。自分も教科書的に、厳罰化よりも社会復帰の可能性を増やした方が良いのでは?と思ってきたが、これでは被害者家族が救われなさすぎる。


解説では、テレビでも見かける大澤孝征弁護士が「本書は日本の法廷を変えた画期的な書物」と位置づけ、この本がきっかけとなって、2004年の犯罪被害者等基本法など被害者の立場に立った法制度の仕組みが整ったとしている。

ただ、永遠にクリアできないのかもしれないが、根本的な部分として、作者の以下のような疑問もよくわかる。

ごく単純なことだが、Aが「更生した」といえるのは、少なくとも彼が加賀美君の遺族に「心から詫びた」ときだと思う。「更生」とは、そのとき遺族が加害者のAを許す気持ちになったときにいえる言葉ではないだろうか。

「どこまで謝れば」という話もよく出てくる話であり、交通事故を思い浮かべれば、自分が加害者の立場にいつなるともわからない。それでも、このようなルポルタージュで、被害者家族の事件後の30数年の人生を追体験してしまうと、「その後の人生」の重みを強く感じる。この事件を通じて、少年Aは一件の殺人だけではない、3人の被害者遺族の生活を大きく乱しているのは間違いないのに、それに無頓着に暮らしていいわけがない、と思ってしまう。
一方で、「更生」を信じたい気持ちもある。この本の取材のきっかけとなった酒鬼薔薇事件も含め、加害者がどのようにして罪を償おうとしているのか、被害者遺族はどのようにそれを捉えているのか、については、もっと色々な本を読んでみたいと思った。

参考(少年法改正について)

2014年までの少年法改正については、以下のページが経緯も含めてコンパクトにまとまっていた。20004年成立の犯罪被害者等基本法についても触れられている。
www.nippon.com

2021年の少年法改正については、以下のNHK解説がわかりやすい。
www.nhk.or.jp