『パラサイト 半地下の家族』でアカデミー賞®4冠に輝いたポン・ジュノ監督が、審査員長を務めた2021年ヴェネチア国際映画祭での最高賞受賞を皮切りに、世界の映画賞を席巻。決して見逃せない傑作が、ついに日本にも衝撃の嵐を送りこむ!
舞台は1960年代、法律で中絶が禁止されていたフランス。望まぬ妊娠をした大学生のアンヌが、自らが願う未来をつかむために、たった一人で戦う12週間が描かれる。この作品の特別なところは、本作と対峙した観客が、「観た」ではなく「体験した」と、語ること。全編アンヌの目線で描かれる本作は、特別なカメラワークもあり、観ている者の主観がバグるほどの没入感をもたらし、溺れるほどの臨場感であなたを襲う。
原作はノーベル賞に最も近い作家とリスペクトされるアニー・エルノーが、自身の実話を基に書き上げた「事件」。主演は本作でセザール賞を受賞したアナマリア・ヴァルトロメイ。
タイムリミットが迫る中、闇をくぐり抜け、アンヌがたどり着く光とは?身を焦がすほどの映画体験をあなたに──。
(映画公式HP)
映画公式HPの惹き文句から抜粋すると、この映画の切り口は、「妊娠中絶というテーマ」「1960年代のフランス」「特別なカメラワーク」「今年のノーベル賞作家であるアニー・エルノーの原作『事件』」で、パンフレットでもそれぞれについて詳しい内容がフォローされている。これらに加えて「とてつもない痛み」を感じる映画ということを書くと、この映画のレビューは完成する。
ただ、それらを書きだすと、自分が映画を観た感想ではなく、他の記事の寄せ集めになってしまうので、なるべくそれらに触れないようにして書きたい。
以下感想。
映画を観るまでに思っていたのと大きく違っていたのは、主人公アンヌの性格や行動。
中絶が犯罪である1960年代のフランスで、自分の妊娠が判明し、周囲の誰も助けてくれない状態。その中で悲嘆にくれて、やる気を失ったり泣きわめいたりするのかと思えば、そんなことが一切ない。それどころか、毎晩飲み歩き、好きでもない消防士と一晩を共にしたりする。
こう思ってしまったのは(被害者は、悲しみにくれて誰かに助けを求めなければならないという)自分の偏見なのかとも思うが、自分が同じ立場であると仮定しても(いわゆる他人の靴を履くことを考えても)、どうしても、アンヌのような行動をとるように思えなかった。
パンフレットの中ではアンヌを演じたアナマリア自身が「アンヌは戦争に向かう兵士」と語るように、この映画を評する人は皆、アンヌを「戦う人」と表現する。
実際、この映画はアンヌの目線で描かれるので、観客側も、戦うアンヌに感情移入をしやすい。
しかし、だからこそ、毎晩のようにパーティーに出かけてしまうアンヌにだけは共感しにくい。
だからパンフレットを読む際も、そのことについて触れている意見を探すようにして読んだ。
そうすると、監督・脚本のオードレイ・ディヴァンのインタビューの中に、まさにそれについて触れている部分を見つけた。
私の映画は愛ではなく、欲望について描いています。この映画のもうひとつの大きな主題は、私にとっても非常に重要なものである、官能的な快楽です。アンヌは暗黙のうちに快楽を得る権利のために戦っています。私は、女性の快楽は自分の気持ちの中にだけ留めておけば許されるという考え方が嫌いです。その意味で、アンヌの物語には現代的で喜びに満ちたエネルギーがあります。彼女は欲望だけでなく、それと同じくらい怒りも感じています。
そうか。通常の物語で「欲望」が描かれるときは、「愛」とセットだから違和感なく受け入れられるけれど、「欲望」だけが描かれると、「今まで見てきたさまざまな物語と違う」という意味で、違和感を覚えるのだろう。特に、女性の「欲望」が描かれる場合はそうだし、妊娠も「愛」とセットで描かれることが多いので、伝統的価値観(偏見)の強い人ほど、二重三重の意味で「欲望」をストレートに受け入れられなかったのかもしれない。
また、監督のインタビューには「欲望」と「怒り」が並べられている。アンヌが1人で考え抜いて実行する寡黙な人物だからこそ、「怒り」や「欲望」などの感情は、言葉としては映画に現れない。
そのうち「怒り」は、全観客が感じていることだから改めて言葉で表現する必要はないとして、「欲望」については映像として強調しておきたかったという表現手法上の理由があったのだろう。(そういう意味では原作小説は「小説の表現」として様々な内容をどのように描いているのかが気になるところだ。)
監督インタビューは以下の言葉で終わっている。「制約を打ち砕く」という意味でも、アンヌが連日、寮から抜け出る描写に意味があったと言える。
私にとって、映画における自由とは、制約を打ち砕くことです。この映画はとても抑制された内容なので、制約を打ち砕くことはなおさら魅力的に映ります。アンヌの物語は、ある種の逆流を生み出します。だからこそ、紙にペンで書く音に乗せて、「ペンをとれ」という言葉を映画のラストにすることが重要でした。誰にも指図されることなく、彼女自身が自分の物語を書くのです。
映画のラストでアンヌは作家を目指す(原作が自伝的小説なので当然とも言える)が、パンフレットには、アンヌが目指した職業である小説家の柚木麻子さんも寄稿している。
この作品を観るまで私は、女性が自分の身体の決定権をもてないことの理不尽を、そこまでリアルに感じてはいなかったことに気づき、衝撃とともに反省してもいる。妊娠中絶の権利をめぐる問題は、今なお、全く解決されていない。原作の短編には日本の「水子」が登場するが、我が国では中絶には今なお配偶者の同意が必要で、そもそもあらゆるコンテンツが、女性が自分の人生を優先することに罪悪感を抱くよう、しむけているところがある。命を生み出すことを公に望まれながら、女性当人の命はないがしろになっているのだ。
先日読んだ『日本の中絶』と合わせての感想だが、日本の問題は、「中絶」という個別の問題ではなく、女性の「自己決定権」がないがしろにされている問題であることを改めて感じる。そして、その権利の中には、ディヴァン監督の描こうとした「快楽を得る権利」も含まれていて、そう考えると、国が、とかではなく、多くの男性がその権利を侵害していると言えるのかもしれない。
なお、映画の公開に合わせて特集が組まれたラジオ番組「荻上チキsession」では、地続きの問題として「避妊」や「性教育」についても触れられていた。パンフレットでは「82年に医療保険適用が始まり、2013年には、中絶医療費は100%医療保険でカバーされることになった。22年1月からは、医学的避妊は緊急避妊薬を含め、25歳以下のすべての女性に無償で提供されている」と現在のフランスについて紹介されているが、日本との差に驚く。見直すと、パンフレットの文章とsessionのゲストは同じ人で、ライターの高崎順子さんだった。少子化対策は、日本にとって大きな課題であることを考えると、この人の本も読んでみたい。当然、今年のノーベル賞作家であるアニー・エルノーの原作も。
参考(過去日記)
pocari.hatenablog.com
改めて思い返すと、『僕の狂ったフェミ彼女』は、まさに、愛なしの欲望と怒りが書かれた作品だった。全体的にこの映画とスタンスが共通しているかもしれない。
pocari.hatenablog.com
『僕の狂ったフェミ彼女』→『日本の中絶』→『あのこと』というリンクが明確な読書(映画鑑賞)で、いわゆるフェミニズムはここ数年の中心的な読書のテーマだったが、法制度や具体的な権利の部分に興味関心が移っているのかもしれない。しかし、思い返すと根本は、言葉にするのも嫌だがプロ野球選手の坂本勇人の文春砲(今年の9月)が大きかったかもしれない。最近サッカー選手についても報道があったが、中絶強要のプロスポーツ選手が跋扈する状態は本当に腹立たしい。彼らに対して少なくとも日本代表選考には選ばない、謹慎期間を科す等、もっと厳しい処分を採らざるを得ない世の中であってほしい。