Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

『ジェニーの記憶』と「性交同意年齢」と「性的同意」

ジェニーの記憶 (字幕版)

ジェニーの記憶 (字幕版)

  • 発売日: 2019/01/21
  • メディア: Prime Video

年末に、性交同意年齢の引き上げに関するtweetがいくつか回ってきて、その中で、多くの人が、この問題を考える上でオススメの一作として挙げており、しかもAmazonプライム見放題が年内いっぱいということで、滑り込みで鑑賞。
2020年最後に観た映画作品と言うことになる。

ドキュメンタリー監督ジェニファー・フォックスが劇映画のメガホンを取り、自身の体験をもとに性的虐待の問題に迫ったドラマ。ドキュメンタリー監督として活躍するジェニーのもとに、離れて暮らす母親から電話が掛かってくる。母親はジェニーの子ども時代の日記を読んで困惑している様子。心当たりのない彼女は、母親に送ってもらった日記を読み返すうちに自身の13歳の夏を回想しはじめる。サマースクールで乗馬を教えてくれたMrs.Gやランニングコーチのビルと過ごしたひと夏は、彼女にとって美しい記憶だったが……。(映画.comあらすじ)

こういったあらすじや、性交同意年齢に関する言説を見ていれば、どのような内容なのかは事前にわかっている。
わかっていても、見ていて驚きがあったし、とにかく「おぞましい」という言葉は、こういうものを見た時に使うのか、と感じた。それほどおぞましい。

映画の特徴

特徴的なのは、ミステリでは常套手段の「信頼できない語り手」が効果的に使われることだ。しかし、それは視聴者を騙そうとしているわけではない。むしろ語り手(主人公のジェニー)自身が意識下で、記憶を押さえ込み、捻じ曲げているのだ。

特に冒頭、回想シーンで、乗馬を教えてもらいに行くジェニーは、最初は高校生くらい?に見える。しかし、その後、ジェニーが当時の思い出話を聞き、写真を見返したあと改めて回想してみると、同じシーンでの当時13歳のジェニーは、まだ子どもに見える。

また、問題のコーチ(男性) だけでなく、「素敵な大人」という印象がピッタリな乗馬の先生(エリザベス・デビッキ、『TENET』の敵セイターの妻キャット役)が常に一緒にいたからサマースクール全体が「いい思い出」になっていたことは、映画を観る側の印象とも重なる。しかし、これもよくよく思い返せば、ジェニーがコーチと添い寝しているすぐ近くにも「先生」がいたことが分かる。(先生は、その「行為」について明確に知っていたのだ)

そして、その「行為」が実際には嫌で嫌でたまらなかったことを思い出したあと、ジェニーの回想シーンでは、トイレで吐くシーンが差し挟まる。見る側としては、(さすがにそんなことはないだろう)と思いつつも妊娠を疑う。
しかし、その後の話で初潮すらまだだったと言うことを知り、さらにぞっとする。

この映画では、半ば強制に近い状況であっても、自ら同意して行為に臨んだと思い込んだ結果、記憶が上塗りされて「良い思い出」に結晶化してしまう実例が示される。
精神的なアドバイスを行う立場のコーチと、アドバイスを受ける側の選手と言う関係もあり、結果として表に出にくいままに被害者ばかりが増えていくという構造がそこにはある。
そして、ジェニーの当時の年齢が13歳であったということも重ねて考えると、日本で議論になっているような、「性交同意年齢13歳」の引き上げは、どこからどう見ても必要と思われる。

性交同意年齢と性的同意

性交同意年齢の問題と関連付けた映画のレビューは、以下の監督インタビューの記事(2020年12月)がわかりやすい。
front-row.jp


また、外国の状況について伝える記事としてNHK NEWS WEBの記事(2020年6月)がわかりやすい。ここでは、2020年6月に性交同意年齢を13歳から16歳に引き上げた韓国、2018年にそれまでなかった性交同意年齢を15歳に定めたフランスの事例があり、「世界最低」の日本が、これを引き上げようとするのは必然的な流れだと感じる。
www3.nhk.or.jp


どう考えても「性交同意年齢引き上げ」を否定しようがないのに何故議論になるのか、と調べると、以下の小川たまかさんの記事(2018年3月)で、何がポイントなのかをやっと理解する。

「刑法の強制性交等罪(旧・強姦罪)については、保護法益が性的自由となっており(※)、この観点から、若者同士の性的自由を全面的に制限していいのか?という議論が必ず出てきます。

性交だけではなくて、わいせつ行為も同様に考えるので、(たとえば性的同意年齢が16歳に引き上げられた場合)14歳と15歳のカップルがキスしたことについて、二人とも被害者と加害者の立場を併せ持つというのは、いかにも不自然かと思います」(上谷弁護士)
日本の性的同意年齢は13歳 「淫行条例があるからいい」ではない理由(小川たまか) - 個人 - Yahoo!ニュース


つまり、「性交同意年齢引き上げ」の議論をする際に、『ジェニーの記憶』に見られるような性犯罪のみを念頭に置いてしまうと、見過ごしてしまう部分も多いという指摘だ。言われてみれば確かにそうかもしれない。
なお、この指摘も「保護法益が性的自由となっており」という部分が専門的でわかりにくいが、もうひとつ、さらに分かりにくいのが「性交同意年齢」と「性的同意」は完全に別の概念だという指摘で、以下のTogetterで議論されている。

togetter.com


ポイントを以下に列記する。

  • 重い犯罪について、本来、そんな重い犯罪として処罰することつもりがないものまで、条文上はカバーしてしまう内容になることそのものが副作用なんです。「15歳同士のカップルの性交も法律上は重罪」になった場合に、ただでさえ遅れている性教育のさらなる保守化を招かないかも懸念してます。
  • また、性交同意年齢の引き上げは、加害者と被害者の性別の組み合わせを問いませんので。例えば、15歳高校生男性による20歳女性との性交がかなり難しいことになる、という面もあります。15歳男性が告白しての場合でも、男性が被害者で女性は強制性交等罪(5年以上の有期懲役)です。
  • 性交同意年齢は、個別の被害者の方の具体的な精神能力を定義するような概念ではなくて。「同意があっても相手が◯歳未満と知って行為すれば、重罪を成立させてよし」という、処罰する国視点での線引きの話で、それ以上の意味はない
  • 「性的同意とは、すべての性的な行為に対して、お互いがその行為を積極的にしたいと望んでいるかを確認するということ」この意味での性的同意は、より良い関係性の構築のために大切だが、このレベルの「相互の同意確認」がない性的行為を全て刑法犯にはできない


小川たまかさんの記事でも「性的同意年齢」という表記になっているが、(慣用的には併用しているものの)法律用語としては「性交同意年齢」が正解ということになるようだ。実際の法改正や法律を設計する上では、よく言われる「性的同意」とは区別して考えなければならない、ということが何となくわかってきた。

そうすると、たとえば以下の清田隆之さんの記事は、基本的に「性的同意」について書かれたもので、やや法律的にテクニカルな「性交同意年齢」については、十分にその問題点を指摘できていない可能性がある。
qjweb.jp


ただし、そこまで理解しても「世界最低」の日本の「13歳」について絶対に見直しの議論が必要だろうという気持ちは変わらない。上のTogetterでも書かれている通り、「単純に引き上げればOK」という話では全くないが、「このまま」はまずいだろう。
また、小川たまかさんが色々なところで指摘されている通り、性交同意年齢「13歳」と比べると、義務教育において性教育が十分行われているとは言えない(むしろ「行き過ぎた性教育」は叩かれる)状況は改善する必要がある。
さらに、「性的同意」については、むしろ大人が勉強すべき概念だ。今回のような議論の中で、「性的同意」や「自己決定権」など、これまであまり触れてこなかった概念が重要な位置を占めることが、法概念に詳しい人とそうでない人のコミュニケーションが失敗している原因になっていると思う。
小川たまかさんの本は一度読んだのだが改めて読み直したい。また、清田隆之さんの本もそろそろ読まなくては。

「ほとんどない」ことにされている側から見た社会の話を。

「ほとんどない」ことにされている側から見た社会の話を。

  • 作者:小川たまか
  • 発売日: 2018/07/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
さよなら、俺たち

さよなら、俺たち

傑作!でも終わり方がしっくり来ない~柚木麻子『BUTTER』

結婚詐欺の末、男性3人を殺害したとされる容疑者・梶井真奈子。世間を騒がせたのは、彼女の決して若くも美しくもない容姿と、女性としての自信に満ち溢れた言動だった。週刊誌で働く30代の女性記者・里佳は、親友の伶子からのアドバイスでカジマナとの面会を取り付ける。だが、取材を重ねるうち、欲望と快楽に忠実な彼女の言動に、翻弄されるようになっていく―。読み進むほどに濃厚な、圧倒的長編小説。

途轍もなく面白い。
にもかかわらず、終わり方がしっくり来ない作品だ。


もともと、『BUTTER』を読んだきっかけは、ビブリオバトルで北関東連続不審死事件を題材にした小説『どうしてあんな女に私が』を紹介したときに、同じ事件を題材にしているこの本について質問を受けたことだった。
実は、それまでこの本を知らなかった。メジャー作家にもかかわらず、柚木麻子に全く馴染みがなかったことで、直木賞本屋大賞の候補にもなっていたにもかかわらずスルーしていた。


したがって、どうしても2作品を比較してしまうのだが、しっくり来ない一因は、『どうしてあんな女に私が』がエンタメに徹して切れ味鋭い終わり方が特徴だったのに対して、『BUTTER』が、尺が長めで、もう少し「文学」寄りで、切れ味が悪いからかもしれない。
それ以上に、「あれ?」と思ってしまった原因は、最後に主人公・里佳がカジマナとの直接対決を経ないままで物語の幕を閉じてしまったことにある。これの良し悪しについては、後述するが、「読み切ったー!(ガッツポーズ)」という読後感では無かったのは間違いない。

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素晴らし過ぎるタイトル、素晴らし過ぎるカバーイラスト

小説のタイトルは、多義的である方が良い。
読後にタイトルの意味を思い返したときに、「こういう解釈もできるのでは?」と色々と思いを馳せられる方が楽しい。
カバーも同様で、タイトルの文字と合わせて未読の際は想像を掻き立てられ、読後も、解釈の幅を持たせられるようなものが、読みたい気持ちを引き起こす。
『BUTTER』を読んでいて、先日読んだ『むこう岸』(生活保護をテーマにした児童文学)を何度も思い出したが、前者がいわば無駄が多く、色々な方向から楽しめるのに対して、後者は(児童文学ゆえに)メッセージが出来るだけ正しく届くように工夫を凝らされている分、誤読のしようがない。それは、タイトルと表紙にも表れていて、『むこう岸』のタイトルと表紙は、自分には、「あそび」の少ない、苦しくなるようなものと感じた。

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話を戻すが、『BUTTER』において、バターは、食材としてのバターでありながら、カジマナという一人の登場人物、そしてカジマナの生き方を象徴するアイテムになっている。
そして、作中でも何度も引用される絵本『ちびくろさんぼ』では、木の周りを回った虎が液体化してバターになり、最後にホットケーキになって登場人物の胃に収まる。
ちびくろさんぼ』は視覚的に食欲を刺激する絵本であり、『BUTTER』の表紙も、女性の髪がバターになっているだけでなく、その滴りがやはり視覚的に食欲をそそる。まさにこの小説にピッタリのイラストだと言えるし、読後に作品を振り返るときにも雑音にならない。

似ている3作品

この本を読むと、いくつかの本・映画を思い出す。
まずは、何といっても漫画『美味しんぼ』だ。
本当に美味しいものを知らなければ人生は楽しめない。
カジマナのそういう考え方だけでなく、「お前はわかっていない」というダメ出しこそが海原雄山*1的なのだ。

「私は亡き父親から女は誰に対しても寛容であれ、と学んできました。それでも、どうしても、許せないものが二つだけある。フェミニストとマーガリンです。」(略)
「バター醤油ご飯を作りなさい」
「バターはエシレというブランドの有塩タイプを使いなさい」
(p37-38)

上から目線の畳みかけるような命令口調が、むしろ快感に繋がる。
なお、バター醤油ご飯のバターは「冷蔵庫から出したて、冷たいまま」が正解だという。このあたりのディテールが本当に細かいし、やはり海原雄山的だと思う。


これ以外にも、ウエストのクリスマスケーキや、恵比寿のジョエル・ロブションを指定して食べてみろ、とカジマナ様からの命令が下るが、何といっても真骨頂はこれだろう。

新宿の靖国通りにTっていうラーメン屋さんがあるんだけど。そこの塩バターラーメンを食べて、どんな味だったか正確に教えてもらえないかしら?(略)
はっきりいって、普通に食べたんじゃ、たいして美味しくもないのよ。個々のラーメンを飛躍的に美味しく食べるには、ある状況が必要なの(略)
セックスした直後に食べること。夜明けの三時から四時の間。
(p164)

こういう無茶な要求をして、また、里佳がこれに従っちゃうからすごい。
このように、里佳はカジマナから事件のことについて話してもらおうと必死になるあまり、彼氏の話や自らの悩みについても語るようになる。


もちろんカジマナは殺人容疑で東京拘置所から出ることはないので出来ることは言葉を語ることだけだ。
里佳の拘置所訪問は、取材目的と言いつつも、頭の中のモヤモヤをカジマナであれば晴らしてくれるのではないか?「答え」を持っているのではないか?と、カジマナの言葉を欲する部分がある。
この状況に似ているのは『羊たちの沈黙』だろう。
里佳にとって、カジマナは、レクター教授のような存在なのだ。
行方不明になった里佳の親友・伶子の居場所を、カジマナに聞くシーンは最もレクター教授的な大きな見せ場になっている。


そして最後の一つ。
カジマナは、『夢をかなえるゾウ』におけるガネーシャ(関西弁を話す象の形をした神様)によく似ている。
最後にも述べるが、『BUTTER』は、短くまとめれば、主人公・里佳が、カジマナの指令に翻弄されながら自らの生き方を模索する自己啓発的な物語と言える。
つまり、人生に必要なものは、実は身近にあって、「気づき」によって自分をどんどん更新していけるという基本的な思考が軸にある。
言い換えれば、お使いRPGのように、淡々とタスクをこなしていくことで、「前に進んでいる」感じ。 
この本におけるカジマナというのは、倒すべき相手(海原雄山)であり、「答え」を知っているメンター(レクター教授、ガネーシャ)でもある。


女性の役割

首都圏連続不審死事件が多くの人の、とりわけ多くの女性の興味を引いた理由は、それが(女性に不利の多い)日本の性別役割分担の問題を意識させるから、というのがこの小説での分析ということになる。(以下に引用するp550)

特に、中堅記者として働きながら、結婚についてもぼんやり考えている主人公の町田里佳にとって、それは、自身の生き方と密接に関係するテーマとなる。
小説内では、カジマナを説得する中で、親友・伶子との会話の途中の独白で、そして、新居として購入する物件を紹介してくれた山村さん(弟が事件の犠牲者)への言葉の端々に、このテーマが現れる。

日本女性は、我慢強さや努力やストイックさと同時に女らしさと柔らかさ、男性へのケアも当たり前のように要求される。その両立がどうしても出来なくて、誰もが苦しみながら努力を強いられる。でもあなたを見ているとはっきり、わかるんです。そんなもの、両立できなくて当たり前だって。両立したところで、私たちは何も救われないんだって、いつまで経っても自由になれっこないんだって。p151(里佳のカジマナへの言葉)

でも、きっと…。何キロ痩せても、たぶん合格点は出ないのだろう、と里佳は、とうに気付いている、どんなに美しくなっても、仕事で地位を手に入れても、仮にこれから結婚をし子供を産み育てても、この社会は女性にそうたやすく、合格点を与えたりはしない。こうしている今も基準は上がり続け、評価はどんどん先鋭化する。この不毛なジャッジメントから自由になるためには、どんなに怖くて不安でも、誰かから笑われるのではないかと何度も後ろを振り返ってしまっても、自分で自分を認めるしかないのだ。p540(里佳の独白)

家庭的ってそもそもなんなんでしょうか。家庭的な味とか家庭的な女性とか。(略)
これだけ家族の形が多様化している現代で、そんなのもう、なんの実体もないものです。そんな形のないイメージに振り回され、男も女もプレッシャーで苦しめられている。実はこの事件の本質はそこにあるような気がします。p550(里佳の山村さんへの言葉)

このような状況に対して、(結局別れてしまう)恋人の誠は鈍感だ。
小説内でこのような物言いをしてしまう男性キャラクターは多く、もはやテンプレだが、実際、男性の方がそう考える人が多いのだろうし、自分も勉強しない子どもを怒るときは同じような論調になってしまう。

「そんな風に批判されないように、里佳がせいいっぱい努力すればいいじゃないか…。」(略)
里佳は悲しくなった。彼は面倒だから、こう言っているわけではない。おそらく本当に努力さえすれば、物事は解決すると思っている。この世界で起きる悲劇はすべて個人の責任であり、誰しも人に甘えてはいけないと思い込んでいる。
「あなたや世間を喜ばせるような努力の仕方を、四六時中、出来る自信はないの。もう若くなくなってきてるし、もう他人に消費されたくない、働き方とか人との付き合い方を、自分を軸にして、考えていきたいの」p427

ただし、このテーマは、作品全体としては、やや尻すぼみで、投げっぱなしの印象。
これも読後の印象がスッキリしない理由のひとつではある。

里佳VSカジマナの対決の勝敗

『BUTTER』の物語は、里佳が新居のお披露目パーティーで、七面鳥をふるまうシーンで終わる。
先ほど引用した山村への言葉の中にも「家庭的ってそもそもなんなんでしょうか」とあるが、里佳は、カジマナとの対話を通して、理想の生き方、理想の家庭のあり方を模索したと言える。
そして、辿り着いたのが、作り付けの立派なオーブンのある部屋であり、大勢にふるまう七面鳥料理、そしてそのレシピだった。


この落としどころが『BUTTER』という作品の一番わかりにくいところだ。
里佳VSカジマナという対決で見た場合、ラストに至るまでの勝ち負けはこんな感じだ。

  • 伶子の居場所を聞くために、里佳は自身の父親との関係(自分のせいで父親が死んだという思い込み)について告白せざるを得なくなる(p378、カジマナ勝)
  • カジマナが料理教室サロン・ド・ミユコに通ったのは、友達を作るためだったという言葉を引き出し、インタビュー記事の連載開始。(p436、里佳やや勝)
  • いつか七面鳥料理の集まりに来てほしいという言葉で、カジマナを嗚咽させる。(p502、里佳勝)
  • 獄中結婚をしたライバル誌編集者のスクープ記事により、里佳のインタビュー記事が嘘だというのと合わせてプライバシー暴露による精神攻撃を受ける(p513、カジマナの圧倒的勝利~虚実入り混じるこの展開は震えた…)


このあと、二人は顔を合わせていないし、里佳の受けた傷は深く、彼女の破滅を願う敵(里佳にとっての敵)は、カジマナだけでなく、ゴシップ大好きな「その他大勢」すらいる状況となってしまった。
しかし、この大敗のあとで、里佳は、カジマナが逮捕直前に、七面鳥料理の招待状をサロン・ド・ミユコの面々に出していた事実を突き止める。したがって、カジマナが望んで作れなかった七面鳥料理を作り、カジマナが呼べなかった大勢の客を招待してパーティーを開くことで里佳がカジマナに対してマウントを取る構図にはなっている。

そもそも生き方勝ち負けを求めてしまう考え方に疑問を呈するのが、このラストの流れなのだろうが、もう少し掘り下げる。

カジマナの弱点

カジマナの弱点は、「いつか」がないことだ。局面局面では、相手をコントロールし、死に至らしめるほどの言葉を持っているが、虚偽が多いので長続きしない。里佳が指摘した通り「今目で見たもの、今すぐ確実に手に入るものしか信じることができない」(p501)ので、いつか来る日を楽しみにして努力や準備をすることが出来ない。
そう考えると、七面鳥料理は、パーティー当日のためだけのもので、里佳の「マウント的勝利」の決定打ではない。そもそも「料理」は、「いつか」「誰かに」ではなく、今ここにいる人、そして自分のためにつくるものなので、カジマナと相性が良い。


だから、二人の圧倒的な差は、ダメージが大きく敗色濃厚な里佳が「いつか」のために新居を買ったことに現れている。
作中に書かれている通り、里佳が新居購入に踏み切ったのは、「いざというときの駆け込み寺」を求めたからだ。料理自体は「今ここ」のためのもの*2だが、そこに行けばみんなと料理を食べられるという期待感は、やはり「いつか」のためのものだ。

ふいに、ここと同じくらい、広いマンションを手に入れたいと思った。いや、一部屋の大きさよりも、一人になれる部屋がいくつもあるといい。複数のプライバシーを尊重できるように。(略)
ひょっとすると、自分にできる唯一の仕事は…。
近しい人たちのいざという時の逃げ場を作ることなのではないだろうか。p442

私、結婚ってまだよくわからないけれど、浮気とか不倫っていう意味じゃなくて、逃げ場があった方が辛くならないように思うんですよね。行き詰った夜に、ふらりと散歩して珈琲を一杯飲めるような場所。そこに、旦那さんがふっと迎えに来てくれたら、十分なんじゃないでしょうか。p496

珍しい形のオープンエンド

という風に、里佳とカジマナの対決に注目すると、物語の結末は、それなりに上手く「落ちている」=クローズしているような気がする。
しかし、やはりこの終わり方は、2つの理由でしっくり来ない。おそらく、クローズエンドに見せつつ、読者にテーマを放り投げるオープンエンドの作品なのだと思う。

しっくり来ない一つ目の理由は作中でも言及されている。

里佳が中心に居ると、みんな役割から自由になれるんだよ。性別とか地位が関係なくなるの。磁場が歪むっていうのかな。昔からそういうところあったけど、最近は特に…。p440(伶子の言葉)

いいですよね、大手マスコミの記者さんは。結局のところ、あなたたちはどんなに世間から糾弾されても、出来心でひと一人の人生をめちゃくちゃにしても、セーフティネットがある。そんな職業、この世界にどれだけあると思います?ふと思い立って30年近くのローンを堂々と組める独身女性が、今日本にどれだけいると思います?p549(山村さんの言葉)

この小説が最後に持ってきている新居購入&七面鳥料理パーティーというのは、里佳の性格と財力を持ってこそ成り立つ特殊過ぎる解決策で、現実感が薄い。
読者としても、こういう人がいたらいいなあ、こういう場所があったらなあ、とは思うが、参考にするのは難しい。これは『夢をかなえるゾウ』のつもりで『BUTTER』を読んできた自分としては納得がいかない(笑)
…というのは冗談だが、里佳の精神力の強さとコミュニケーション能力、財力を見せつけられると、読者が身近に感じていた里佳との距離は遠くなってしまう印象だ。


もう一つも個人的な理由だが、里佳が次の一歩として企画している「カジマナによって日常を狂わされた女性たちのインタビュー記事」に賛同できない。
そもそも、カジマナ事件に関連付けた記事を書くことは、引用した山村さん(弟が事件の被害者)の言葉にあるように「ひと一人の人生をめちゃくちゃに」しかねないリスクが確実にある。里佳本人も傷を負っている。
この物語の流れから考えれば、カジマナ事件から出来るだけ離れて、人と集まる場の特集記事や、男女の役割を離れた人間関係に関する記事であれば説得力がある。
つまりは、小説としてとりあえずのエンディングは用意するけど、多分しっくり来ないだろうから、あとは読者自身で考えて、という特殊なかたちのオープンエンドだと解釈した。
この作品のように、女性差別をテーマに含む作品(例えば↓の松田青子『持続可能な魂の利用』)は、作中での解決を求めず、ファンタジーに吹っ切るか、オープンエンドにすることが多いと思う。好みとしては、男性社会と政府をディスって終わってもらった方が落ち着く。
そうしないのは、読者は置いてけぼりにしても里佳という主人公を救いたかったからなのかもしれない。

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木嶋香苗現象

考えてみれば、同じ首都圏連続不審死事件を扱った花房観音『どうしてあんな女に私が』も、編集者が事件の取材をするスタイルで事件に対するアプローチは似ている。取り上げたテーマは、それぞれ「嫉妬」「家庭」と異なるが、どちらも、木嶋香苗という圧倒的キャラクターとそれにまつわる「木嶋香苗現象」をどう読み解くかという要素が、作中の重要な位置を占めている。
特に、本文中に本人(カジマナ)が登場する頻度の多い『BUTTER』では、読後に心に一番残っているのはカジマナの台詞だったりする。(「バター醤油ご飯を作りなさい」)
一方で、これはフィクションではなく、既に実刑が下っている犯罪事件で、実際に命を落とした被害者がいることは忘れてはいけない。
このままでは、首都圏連続不審死事件について、間違った認識をしてしまうこともあるかもしれない。
やはり、乗りかかった船なので、改めて木嶋香苗本人に関する本を読んでみようかと思う。

お、もう一冊、柚月違いでこちらも首都圏連続不審死事件にインスパイアされているのか。こちらも読みたい。


*1:美味しんぼ』の主人公・山岡士郎の父親で美食家・陶芸家。個人的な名言は「ポン酢のポンとはなんのことだ!」

*2:詳しく書かないが、この小説では「レシピ」も重要な意味を持っている、料理自体は「今ここ」のためのものだが、レシピは「いつか」「誰か」のためのものだ

2020年について

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春には家族で久しぶりの海外旅行。高校1年の長男は学校行事で海外研修に行って、東京五輪があって、盛りだくさんの1年だったね。
…とはならなかった2020年。
あまりに普通の年と違ってしまっていて、来年以降もこれが標準としたくない1年間だったので、忘れないようにメモをしておくことにします。

読書

今年は、ビブリオバトルは全てオンライン参戦。
改めて調べるとビブリオバトルの初参加は2012/3/24の西荻窪ビブリオバトル at KISSCAFE vol.9)。それ以降、少なくとも2~3か月に1度は、誰かしらビブリオバトルの人たちと「会食」をしていたのに、それが1年間無かったのは本当に驚きだ。

読書は、ここ数年の傾向だがフェミニズムに関する本を多く読んだ気がする。前田健太郎『女性のいない民主主義』をビブリオバトルで発表したときは、喋りながら怒りが溢れてくるというかつてない体験をした(笑)
小説、漫画、それ以外からそれぞれ1冊挙げるとしたら以下。

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映画

映画は、昨年は沢山見て、今年も!と思ったけれど『名探偵コナン』という定番の公開延期も含めて劇場公開の話題作自体が少なかった年だろう。
それでも、年初め含めて2度見た『パラサイト』、緊急事態宣言がそろそろ来るというタイミングで見た『37セカンズ』、そして子どもたち二人と観た『アルプススタンドのはしの方』の3本が印象に残っている。
特に『パラサイト』 と『37セカンズ』は、「風景」が印象に残る映画だった。最近、自分が、マラソンでいろんな場所を走るのは、「風景」を集めに行っているんだ、ということに気がついたけど、それについてはまた書きたい。
ところで、『アルプススタンドのはしの方』の感想を読んで思ったが、今年は、何度も「エンパシー」のことを書いているなあ。

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音楽(ライブ)

結局、1年間参加せず、です。
もともと、田島貴男の4/5弾き語りツアーは、さる方のご厚意でチケットをとってもらい、楽しみにしていたものの、コロナが猛威を振るう中、早々と参加を辞退し、その後、結局ライブ自体が中止になり、オンライン形式で振替公演に。
夏以降は、リアルライブも各所で開かれるものの、どうしても行く気になれず。かといって、配信ライブを見るかと言えば見ない。
結局、ライブに行く楽しみは、知り合いがいてもいなくても、以下のようなライブそのものと関係ない部分で成立しているところが大きいのだと思う。自分にとっては。

  • 「今からライブを見に行くんだ」という期待感いっぱいで早足になる駅から会場までの道のり
  • 同じような気持ちで観に来ているファンが近くにいてざわついている開演までの雰囲気
  • アンコール待ちのファンの一体感
  • 終演後の振り返りながらの帰り道

勿論、知り合いがいればそのあとで飲みに行ったりする楽しみもあるだろうし、人によっては、ライブ中にミュージシャンと視線が合うことが重要と考える人もいるだろう。そういうものなしに、パソコンでクリックして音楽が聞こえる音楽は、自分にとっては「違う」ものだ。ましてや一時停止や巻き戻しができるものは、とても便利だけど、どんどんライブとは離れてしまう。
ないものねだりなのはわかっているけど、来年も、この状況が続けばしばらくライブから離れてしまうかもしれない。

音楽

一方で、今年は近年には珍しくいろんな音楽を聴けた気がする。
理由のひとつは、Ryutist『ファルセット』が、楽曲を提供している多くのミュージシャンの音楽への橋渡しをしてくれたこと。
そして、もう一つ。AmazonミュージックのUnlimitedを、3か月無料に惹かれてお試しで入ったことが大きい。
藤井隆がプロデュースした『SLENDERIE ideal』や蓮沼執太フルフィル『フルフォニー|FULLPHONY』、chelmico『MAZE』、宮本浩次『ROMANCE』などの今年のアルバムは、どれもCDを買わずに聴いているし、BlackPinkやtoe、またいわゆる「流行っている洋楽」など、サブスクリプションサービスなしに聴くことはなかっただろう。
今は、今日で活動休止となる嵐のBESTのプレイリストを聴きながら書いている。
(なお、先日、子どもに携帯音楽プレーヤーを買ったが、こちらの進化は10年前くらいで止まっていることに驚く。)

いや、しかし、何度聞いてもRyutist『ファルセット』は飽きないんですよ。
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ラソン(大会)

当然のことながら通常開催の大会はほとんどが中止で参加できず。実際にはオンライン形式で開催された大会も多数あり、こちらも興味があったが、音楽のライブに書いたのと同じ理由で不参加。
なお、2015年から毎年参加していた湘南国際マラソンは、忙しい2月開催ということで発表当時から参加を見送っていたが、11月にフル→25㎞にする等、その方法を見直し、結局12月に入り中止を発表。
不参加を決めていたが、毎年の大会が中止になるのは残念。グッズ類はどこまで用意していたのかわからないが、可能であればTシャツを買う等の形で応援したい。

日々のマラソン

今年は、大会がなく、タイムをあまり気にしなかったということもあるが、コース開発が楽しかった。
特に、多摩湖自転車道という素晴らしいコースを知ることが出来たのは良かった。それ以外では、谷保天満宮駒沢公園武蔵関公園を含むコースが準レギュラー化した。
さらに、東京近郊でここ数年発達したレンタサイクル網が発達したことで、帰路に利用する鉄道を気にしないルートを開発することも可能となった。全部自転車だったが、羽村兄弟の像を見てから玉川上水国分寺まで8月に下ったのは良い思い出。今年買ったランニング用リュックが役立った。

来年

2020年は久しぶりに海外旅行を、と思っていたけれど国内旅行にすら行けず。
2021年は何とか旅行に行きたいなあ。
嵐の「We Can Make It!」を聴いて元気出してます。

女性キャラクターが戦う理由~王谷晶『ババヤガの夜』

ババヤガの夜

ババヤガの夜

  • 作者:王谷晶
  • 発売日: 2020/10/22
  • メディア: 単行本


ちょうど、Yahooの記事で、『鬼滅の刃』に登場する女性キャラクターについて取り上げた記事があった。鬼殺隊の中心メンバー「柱」を担う甘露寺蜜璃と胡蝶しのぶという二人の女性が、それぞれ何故鬼殺隊に入り「柱」となったのかという動機の部分に焦点を当てた、植朗子さんの記事だ。
記事はこのように結ばれる。

甘露寺蜜璃と胡蝶しのぶは、「鬼のいない平和な世の中」のために、その身をささげた、戦いの女神である。胡蝶しのぶは、小柄な女性という体格を克服するために、苦痛とともに自分の肉体を変化させていくことを選択した。甘露寺蜜璃は、女性という抑圧から脱却し、人々のために戦い続ける道を選択した。この2人の女神によって、鬼殺隊は、本来なら互角に戦うことすら困難な強大な敵・鬼を撃破していく。彼女たちの願った平和な世は、彼女たちの強靭な意思によって実現へと向かっていくのだった。
甘露寺蜜璃と胡蝶しのぶ 『鬼滅の刃』で2人の「女神(ミューズ)」が必要だった意味 (1/4) 〈dot.〉|AERA dot. (アエラドット)


かように、女性が戦うのには、「理由」が必要だ。
男は常に好んで戦いたがり、 「戦う理由」などいらないのに対して…。 


そこで、この『ババヤガの夜』の主人公・新道依子の特異性が際立つ。
新道は、「理由なく暴力をふるう女性」なのだ。

お嬢さん、十八かそこらで、なんでそんなに悲しく笑う――。暴力を唯一の趣味とする新道依子は、腕を買われ暴力団会長の一人娘を護衛することに。拳の咆哮轟くシスターハードボイルド! 


寺田克也によるカッコよすぎる表紙の二人は、とにかく強い新道依子と、新道が守る尚子。
生まれも育ちも全く異なる二人の関係性が、物語の一番のポイントで、最初はあくまでガードマンと主人。しかも、新道は、主人に対してすらぶっきらぼうで、どちらからも寄り添おうとはしない。
かといって、何かの出来事をきっかけに打ち解けるようになったというのでもなく、しかし、二人は段々と心を許していく。


もともと王谷晶さんは、『完璧じゃない、あたしたち』のときから気になっていたが、結局、この本が初読。アトロクのシスターフッド特集で王谷さん自身が出演されていたのが、最後の一押しとなって読んでみた。  

アトロクのシスターフッド特集のキャッチフレーズは「仲良しじゃなくたって、わたしたたちは戦える。 今こそ、女性同士の連帯を扱った『シスターフッド』な作品を見たり読んだりしよう!特集 by 王谷晶」。
この「仲良しじゃなくたって、わたしたちは戦える」というキーワードこそがシスターフッドの概念のキモだと受け取ったが、まさに『ババヤガの夜』は、「恋愛」でもなく「仲良し」でもない二人の関係性が面白い作品だった。


この面白さは、自分の感覚的にはBLを読んだときの気持ちと似ている。

『ババヤガの夜』を読み始めると、一時期好きだった花村萬月の暴力もの、もしくは夢枕獏のバイオレンス作品を読んでいるような気分になってくる。それでも、暴力描写に特化した、この種の作品で女性が主人公なのは初めてなので、どこに連れていかれるか分からずにワクワクする。
暴力団会長の一人娘 の尚子が登場すると、結局は「勇者がお姫様を救う物語」なのか、と思いきや、物語中盤に大きな仕掛けがあり、以降の展開には、そう来たか!と唸ってしまう。それと同時に、自分は、「何でもあり」のはずの小説にも、ステレオタイプの「型」を嵌めて見ていたのだろうな、ということに気がつかされる。

自分にとっては、「男+女=恋愛」という典型的な物語の流れから少し外れることによって、より「恋愛」や「嫉妬」を純化した形で感じられるのがBL作品で、それと同様に「枠を外される」快感が、この『ババヤガの夜』にもあった。

勿論、『鬼滅の刃』に戻れば、使命感を持って戦うというよりは、単に「異常に戦闘能力の高いクリーチャー」という側面もあった「竈門禰豆子」こそが、ある意味で女性キャラクターのステレオタイプの枠を外す重要な役回りを持っていたと語ることもできるし、鬼滅の女性キャラと言えば普通は禰豆子を扱うのに、そうしなかったのが冒頭の記事の面白いところだろう。

なお、アトロクの特集では、改めてセーラームーンの偉大さが取り上げられたり、ステレオタイプから外れる女性キャラクターの企画が通りやすくなった理由に村田沙耶香コンビニ人間』が挙げられるなど、新しい発見もあった。今まで読んだ作品も、女性キャラクターがどう扱われているか(ステレオタイプに縛られていないか)という視点で読み直すのも面白いかもしれない。


『ババヤガの夜』は単行本として出ているが、それほど長くなく中編。映画だったら90分作品というイメージであっという間に読み終わる。しかも、社会的な問いかけが強かったりするわけでもなく、痛快なエンターテインメントなので、是非、(暴力描写が大丈夫な人には)いろんな人にオススメしたい本だった。
王谷晶さんは引き続き、著作を追いかけようと思う。

完璧じゃない、あたしたち

完璧じゃない、あたしたち

  • 作者:晶, 王谷
  • 発売日: 2018/01/26
  • メディア: 単行本
どうせカラダが目当てでしょ

どうせカラダが目当てでしょ

炭治郎の「アジる力」~吾峠呼世晴『鬼滅の刃』全23巻

鬼滅の刃の23巻を読んだ。
最終巻も、最後になって無惨が自分の主義を変えるなど、一筋縄ではいかない意外な展開を見せ、全速力で駆け抜けた物語だった。
世間的には、最終巻発売日の新聞広告(大手5紙)が話題になったが、そこにも書かれた「想いは不滅」、その一言が貫かれた作品と言える。その点で考えれば、主要登場人物が全員死んで(厳密には1名生き残っているが)しまった世界においても、そして、鬼滅の刃を今読んでいるこの世界においても、彼らの想いは伝わり、残っていく、という上手い終わらせ方だと感じた。


さて、映画を観に行ったときも22巻までは読んでいたが、今回23巻を読むために、無限列車編のあと(9巻)以降を復習して、改めて感じたが、炭治郎の「アジる力」は途轍もない。
先にも書いたように23巻になって無惨でさえも、炭治郎の言葉に感化されて考え方を変えてしまうが、鬼殺隊の仲間だけでなく柱も鬼も、皆、炭治郎の言葉に影響を受けている。(もう一人、お館様も「腕力」がない分、その「言葉の力」は際立つ。「想いは不滅」も16巻の137話のお館様の台詞に出てくる)
十二鬼月で言えば、猗窩座に語り掛ける言葉は、作中屈指の名シーンと思う。

お前の言ってることは全部間違ってる
お前が今そこに居ることがその証明だよ
生まれた時は誰もが弱い赤子だ
誰かに助けてもらわなきゃ生きられない
お前もそうだよ、猗窩座 
記憶にはないのかもしれないけど
赤ん坊の時お前は誰かに守られ助けられ今生きてるんだ


強い者は弱い者を助け守る
そして弱い者は強くなり また
自分より弱い者を助け守る
これが自然の摂理だ

(17巻146話)


しかし、自分が一番感動した場面が登場するのは、戦いとしては比較的目立たない、刀鍛冶の里編。
ここでも炭治郎は、冷たい時透無一郎君や、投げやりな富岡義勇の心に次々と火をつけていくのだが、中でも、自分の実力不足を嘆いて木の上に逃げてしまった小鉄君(10歳)を説得するシーンが最高過ぎる。

諦めちゃだめだ
君には未来がある
十年後の自分のためにも今頑張らないと
今できないこともいつかできるようになるから

これに後ろを向いたまま「ならないよ 自分で自分が駄目な奴だってわかるもん」と拗ねる小鉄くん対して、なおこう説得を続ける。

自分にできなくても
必ず他の誰かが引き継いでくれる
次に繋ぐための努力をしなきゃならない
君にできなくても君の子供や孫なら
できるかもしれないだろう?


俺は鬼舞辻無惨を倒したいと思っているけれど
鬼になった妹を助けたいと思っているけれど
志半ばで死ぬかもしれない
でも必ず誰かがやり遂げてくれると信じてる
俺たちが…
繋いでもらった命で上限の鬼を倒したように
俺たちが繋いだ命が
いつか必ず鬼舞辻を倒してくれるはずだから


一緒に頑張ろう!!
(12巻103話)

前半部だけだったら、どの漫画のキャラも言うこと。
しかし「できるようになるよ」と説得して「できない」と答えた小鉄に対して、さらに言葉を用意しているところが炭治郎の凄いところ。
ジャンプの読者だって、「諦めたら試合終了」ということを色々な漫画で言葉を変えて何度言われても「できない」と思ってしまう場面はいくつもあるだろう。
鬼滅の刃』には、そういう読者にも届くような仕掛けが多いように思う。


なお、このあと、半天狗を相手に共に戦う玄弥に対しては「玄弥ーっ‼諦めるな‼」「絶対諦めるな!!」「柱になるんじゃないのか‼!不死川玄弥‼!」とシンプルに励ましているので、その柔軟性があるからこそ、その言葉が誰の心にも響くということも言える。
有名な、炭治郎の迷言「俺は長男だから我慢できたけど次男だったら我慢できなかった」も自分自身を鼓舞する言葉として、炭治郎的にはアリなのだろう。炭治郎は、相手によって人を鼓舞する言葉を使い分けることが出来る。


思えば、自分が自分を鼓舞するキャラクターとして心の中にいたのは、幕ノ内一歩や谷口タカオ等、ひたすら真面目で熱心、黙々と努力を続けるタイプだった気がする。
彼らは、炭治郎ほど能弁ではなかった。まだ「自らの背中を見せる」タイプのキャラクターに人気があった時代なのかもしれない。
そう考えると、敵キャラクターですら説得してしまう炭治郎の言葉の力は、価値観が多様化し、大人でも「自由」の中で迷ってしまう現代にフィットしたキャラクターなんだろう
今回の新聞広告も、作品のメッセージ「想いは不滅」に、コロナ禍や様々な理由で辛い状況にある人たちに届くよう「夜は明ける」を加えているのだと思うが、作者の吾峠呼世晴さんの言語センス、そして「アジる力」(人を鼓舞する力)があってこその大ヒットなんだと思う。

参考(過去日記)

pocari.hatenablog.com

アウシュヴィッツ生存者の父親のことを今でも許せない~アート・スピーゲルマン『完全版 マウス』

アウシュヴィッツの生存者、ヴラデックの体験記録。息子のアート・スピーゲルマンがマンガに書き起こした『マウス』と『マウス2』を一体化さた“完全版”。 


アウシュヴィッツホロコーストについてしっかり学んだことがない。『アンネの日記』ですら読んだことがない。
そういう自分にとって、この漫画は、とても入りやすい本だった。
基礎的な歴史的事実について詳しく書かれているわけではないので、学ぶのに適した本とは言えないかもしれないが、まずは、これをとっかかりにして、色々な本、漫画、映画に触れていきたい。


とはいえ、実は、この本を読んで一番印象に残っていることは、ヴラデックの過酷な体験よりも、作者(アート・スピーゲルマン)の父親ヴラデックに対する思いだ。
特に印象に残っているシーンが二つある。
そのうちの一つ、父の家からの帰り道、ぼそっと「…人殺しめ」と呟くシーン(p161)については、この漫画のための特設ページに、アート自身の言葉で述べられている。

「そう、ぼくを生んだ父の最初の妻アンジャは、10年前に亡くなった。自殺だった。ただ母は戦争中の日記を残していて、ぼくに見せようとしていたんだ。ぼくがマンガを描くようになっていたから、母はぼくに昔の両親のことを描き残してほしいと思っていたことは確かだ。ところが、この『マウス』のなかにも描いたように、父は母の日記を処分してしまったんだ。そのことを知ったぼくが父のことを“ひと殺しめ”と怒る場面がある。母の日記を捨てたことは、ぼくの母を殺したのと同じことだからね。父は、ぼくがこのマンガを描いている途中で、1年ほどまえに亡くなったけれども、ぼくは母の日記のことでは、いまでも父を許していないよ」
https://www.panrolling.com/books/ph/maus.html


この言葉の通り、作者の父親への憎しみが色々な場面で現れているのが特徴だ。
冒頭、アートが父親ヴラデックに久しぶりに会いに行くシーンでも、ヴラデックは後妻のマーラをいびっているが、とにかく神経質で非合理な程度*1にケチ。絶対に生活を共にしたくないタイプの人間で、自分はどうしても姫野カオルコ『謎の毒親』の理不尽な父親を思い出す。彼は、シベリア帰還兵だった。
『完全版マウス』は。実父のシベリア抑留体験をまとめたおざわゆき『凍りの掌』に似た地獄があるのだが、そこから還ってきた父親の性格的な理不尽性も見せたという意味で『謎の毒親』的でもあるのだ。

謎の毒親 (新潮文庫)

謎の毒親 (新潮文庫)


もうひとつ印象に残っているのは、アートの運転する車の中で妻のフランソワーズと一緒にヴラデックに当時の話を聞いていた場面。呼びかけられて、少しの間乗せてあげた黒人のヒッチハイカーに対して、ヴラデックは露骨に不快な態度を取り、ポーランド語で罵詈雑言を放つ。
ヒッチハイカーを下ろしてから、妻のフランソワーズは「許せないわ!よりによって、あなたが人種差別をするなんて!あなたの黒人への言い方、まるでナチスユダヤ人に対するみたいよ!」(p259)と非難するが、「黒人野郎とユダヤ人とは比較にもなりゃしないよ」「黒人はみんなどろぼうだ」と繰り返すばかり。
辛い経験をしているから優しくなれるわけでもなく、むしろ他人の身になって考える想像力は、身体的にも精神的にも余裕がないと生まれない、ということがよくわかるエピソードだ。


ヴラデックの体験は、前半部(「マウス」)が強制収容所に入る前で、後半部(「マウスⅡ」)が強制収容所に入ってからになる。
制収容所に入ってからのヴラデックが「上手くやっていく」能力が凄すぎて、こういう人しか生き残れないのであれば、自分は真っ先に死ぬだろうと確信した。
そもそも手先が器用で芸がなくてはならない。
将校らに取り入るのに、時にはブリキ職人、時には靴職人、時には英語教師、と様々な能力を利用して、生き延びる。
勿論、運によるところも多く、後半、ロシア軍が優勢になってからアウシュヴィッツに収容された人たちは他の場所に移動、移動を続けるが、チフスも流行し、多くの人が雪の汽車の中に閉じ込められたまま死んでしまう。
こんなことが二度とあってはならないわけだが、もし自分がそういう場面に出くわしたら…と考えて、辛くなってしまう。


なお、本の中ではユダヤ人はネズミ、ポーランド人は豚、ドイツ人は猫の姿で描かれる。このことと裏表紙の地図から、ドイツの東隣にポーランドがあり、アウシュヴィッツポーランド国内にあることを改めて認識した。(アウシュヴィッツが何処にあるのかということすら知らなかった)
また、この地図では、スロヴァキアがあってもチェコがない。ポーランドの北側に東プロシアという国がある等、よくわからない世界が広がっている。
今、職場にヨーロッパ出身の人(日本語ペラペラ)がいることもあり、興味が沸いているので、ヨーロッパの歴史地理は色々なアプローチで学んでいければと思う。
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関連作品

元々『マウス』が1986年、『マウスⅡ』が1991年刊行ということで、少し昔の漫画ということもあり、影響を与えた漫画も多いという。
先ほどの解説ページから再度引用する。

『マウス』の“出現”によって触発されたマンガ家は少なくない。
いまではルポルタージュ・コミックスの優れた作者として知られるアメリカのジョー・サッコパレスチナに滞在してその現実、人びとの生きている姿を『パレスチナ』というコミックスとして完成させたが『マウス』がなかったら、とても『パレスチナ』にとりくむ勇気は出なかったろう、とサッコは語っている。『パレスチナ』の日本版は私の翻訳でいそっぷ社から刊行されており(2007年)、作者には2010年にフランスのアングレーム国際コミックス・フェスティバルで会った。
またフランスのマンガ家エマニュエル・ギベールは、ノルマンディー上陸作戦に参加しフランスに住むことにしたアメリカ兵士を『アランの戦争』というコミックスに描いたが(これも小学館集英社プロダクションより野田謙介氏の訳の日本版が2011年に刊行されている)、来日したギベールも『マウス』の冒険のおかげで自分は『アランの戦争』を描けた。スピーゲルマンのおかげだ、と私に語った。この本は『パレスチナ』とともに、『マウス』以後の新しいコミックスを代表する画期的な作品と評価されている。『マウス』の成功によって「こういう内容もマンガにできるのだ。そうしていいのだ」と、新しい道を行こうとするマンガ家たちに刺激とはげましを与えたのである。
https://www.panrolling.com/books/ph/maus.html

パレスチナ』は、グラフィックノベルの特集か何かで聞いたことのある漫画であるし、やはり歴史を知るためにもこういった作品は積極的に読んでいきたい。

パレスチナ

パレスチナ

参考(過去日記)

pocari.hatenablog.com
pocari.hatenablog.com

*1:バラバラに割れた皿のかけらを「接着剤でつけて使うから捨てないで」と言うp233のはどうかしてると思ったが序の口。ガス代も家賃に含まれるからと、マッチを惜しんで一日中ガスを受つけっぱなしにしているというエピソードp182には本当に驚く。

「生活保護」をテーマにした児童文学の傑作~安田夏菜『むこう岸』

むこう岸

むこう岸

第59回日本児童文学者協会賞受賞作品。貧困ジャーナリズム大賞2019特別賞受賞作品。2019年、国際推薦児童図書目録「ホワイト・レイブンズ」に選定。
和真は有名進学校で落ちこぼれ、中三で公立中学に転校した。父を亡くした樹希は、母と妹と三人、生活保護を受けて暮らしている。『カフェ・居場所』で顔を合わせながら、お互いの環境を理解できないものとして疎ましく思う二人だったが、「貧しさゆえに機会を奪われる」ことの不条理に、できることを模索していく。立ちはだかる「貧困」に対し、中学生にも、為す術はある。児童文学作家のひこ・田中氏推薦。

ビブリオバトルで紹介のあった作品だが、「生活保護をテーマにした児童書」ということで読んでみたら、頭をガツンとやられる、真に教育的な小説だった。
真に教育的というのは、偽善的でなく、ご都合主義でもない形で「生活保護」という難しいテーマを扱い、かつ、貧困や、差別・偏見との向き合い方について、具体的なヒントがもらえる、ということだ。
何より、学ぶことの大切さ、なぜ勉強するのか、という説教臭い内容を扱っているという点では、いかにも児童小説的ではあるが、学ぶのに遅すぎるということはないのであって、むしろ大人が読むべき本と言える。


以下、児童小説的でないところを取り上げながら作品の具体的なエピソードからメッセージを読み解いていきたい。

天真爛漫ではない主人公

児童書で、生活保護をテーマにしていると聞き、真っ先に浮かんだイメージは、差別などとは無縁の天真爛漫な主人公(まさに『鬼滅の刃』の竈門炭治郎みたいな少年)が、まっすぐな正義感で、困っている人を助ける、といったもの。
しかし、その予想は大きく外れる。
主人公は、中学受験で一流中学に入学するも、中2でドロップアウトして公立中学に入り直した中3の山之内和真(かずま)。小説の語り手は二人おり、もう一人の語り手は、和真が転校先で出会った同級生女子の佐野樹希(いつき)。彼女は生活保護を受けながら、家事全般で幼い妹と病気がちな母親を支える。


和真は人から好かれるタイプではなく、勉強だけが取り柄の堅物なのだが、この物語の大きなポイントは、和真自身の生活保護や貧困に対する気持ちがどう変化していくかが描かれていることだ。
和真が、樹希とアベル君(樹希に頼まれて勉強を教えることになった中学1年生。父親はナイジェリア人)に出会った頃のモノローグを引用する。

はっきり言おう。ぼくは、生活レベルが低い人たちが苦手だ、怖いし、嫌悪感がある。中学受験塾にも蒼洋中学にも、そんな人たちはひとりもいなかった。彼らの生活も考えていることも、よくわからない。このアベルくんだって…。
(略)
ぼくには今まで黒人の知り合いなど、ひとりもいなかった、得体が知れず、ますます恐ろしい。
p64

和真は、自らの嫌悪感を認めているだけ、「客観性」があり、何も気がつかない人よりも一歩先に行っているような気もする。
しかし、「客観性」は重要ではない。
この物語を駆動するのは間違いなく和真の持つ「特性」によるのだが、それは、このような「客観性」であるとは思わない。

「むこう岸」にかける橋

「私はセクシュアルマイノリティに対する偏見を持っていませんが…」「私にも在日韓国人の知人がいますが…」
差別的発言をする人に限って、そういうことを口にする。
自らを客観視できる(と思っている)ことや、知り合いに当事者がいることは、差別・偏見を持たないこととは無関係である。
『むこう岸』の前半の展開を読んで、改めてそのことを考えた。


和真は客観的な見方が出来る人で、(おそらく独善的な父親を反面教師にしているせいで)すべてをすぐに決めつけずに相手の話を聞くことができる。
その和真でさえ、アベル君を目の前にして、最初は、黒人だからということで、恐怖を覚えてしまうが、勉強を教える中で、普通の友だちのように接することが出来るようになる。
つまり、自分のことを客観視できるだけでなく、相手と直接、共同作業をすることで、恐怖心や差別する心は減じることが出来る。…とも言える。
ただし、和真とアベル君との関係はかなり特殊だ。中3と中1というだけでなく、勉強を教える側と教えられる側ということで上下関係が成立し、かつ、アベル君は喋らない。


実際、アベル君以上に時間を共にし、話す機会の増えた樹希に対しては、なかなかギクシャクした関係が変わらない。
物語序盤には、会話のやり取りの中で樹希を苛々させてしまう決定的なシーンが登場する。

「あんた、金に困ったことあんの?」
(略)
「貧乏は…、たしかに知りません」
「ほら、見な」
「それは…、気の毒だとは思います」
「はぁ?」
p84

「気の毒」と言われたことに樹希は激怒するが、この段階では、和真の方は樹希を怒らせた理由に気がつかず、むしろ樹希の態度に苛々している。
こちらから見る「むこう岸」と、対岸から見る「むこう岸」が対等で同じ見え方をしていると思っている。

きみとぼくとのあいだには、きっと広くて深い川が流れているのだろう。その川に橋をかければいいのかもしれないが、はなから喧嘩腰の対岸に、なぜ渡っていかねばならないのか、ぼくにはその必要性がわからない。p89

序盤では、和真は「むこう岸」に橋をかけることすらしようとしない。
しかし、繰り返すが、和真の「特性」によって、「むこう岸」に橋がかかり、それが樹希を救うだけでなく、和真の世界を拡げることになる。

スティグマとエンパシー

恥ずかしい話だが、差別や偏見についての説明の中に出てくる「スティグマ」という言葉が長い間よくわからなかった。概念としての意味は理解できないわけではないが実感がわかず、ここ10年くらいでやっとわかった。それだけ幸せな生活を送ってきたということなのかもしれない(ただ鈍感なだけなのかもしれない)が、意味を伝えにくい言葉であるように思う。
『むこう岸』の中では、それは概念ではなく、「体操服」という実体を持って登場するので、理解がしやすい。
樹希は、小5のときに、生活保護を受けている ことが同級生の齋藤にバレる。両親が共働きで、裕福な家庭ではない斎藤は「得してるくせに隠してんのはずるい。生活保護受けてるやつは全員、生活保護Tシャツ着ろ」と樹希を罵る。
それを聞いて頭に血が上った樹希は、体操服の前面いっぱいに「生活保護」と大きく書き、背中に「ありがとう」と書いたのだった。

みんなから養ってもらっている。
施しを受けている。
そのことはうっすら感じてはいたけれど、はっきりと言葉にして突きつけられると、つくづく卑屈な気持ちになった。p43

このように生活保護を受けることを恥ずかしいこと、悪いことと捉えるのが「社会的なスティグマ」で、それが「生活保護」と書かれた体操服に具現化されている。樹希は、同級生からだけでなく、生活保護ケースワーカー(市職員)からも、繰り返しスティグマを刻まれるようなことを言われる。常に「生活保護」と書かれた服を着ている気持ちで生きていくことを強いられる。


樹希の抱くスティグマは自ら壁を作り、他人の干渉を拒む方へ働く。
それにもかかわらず、和真が「むこう岸」へ橋をかけようとする気持ちになったのは、和真の「エンパシー」の能力による。

エンパシーは、自分はブレイディみかこ『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』で初めて知ったが、シンパシー(同情、共感)に似ているが異なる意味を持つ。

エンパシーと混同されがちな言葉にシンパシーがある。(略)
つまり、シンパシーのほうは「感情や行為や理解」なのだが、エンパシーのほうは「能力」なのである。前者はふつうに同情したり、共感したりすることのようだが、後者はどうもそうではなさそうである。

ケンブリッジ英英辞典のサイトに行くと、エンパシーの意味は「自分がその人の立場だったらどうだろうと想像することによって誰かの感情や経験を分かち合う能力」と書かれている。

つまり、シンパシーの方はかわいそうな立場の人や問題を抱えた人、自分と似たような意見を持っている人々に対して人間が抱く感情のことだから、自分で努力をしなくとも自然に出て来る。だが、エンパシーは違う。自分と違う理念や信念を持つ人や、別にかわいそうだとは思えない立場の人々が何を考えているのだろうと想像する力のことだ。

ブレイディみかこ『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』p75)

エンパシーは感情の動きというよりは一種の「能力」であるが、和真はその能力が優れている。ブレイディみかこさんの息子は「エンパシーとは何か」というテスト問題に「自分で誰かの靴を履いてみること」と答えるが、この小説は、和真の心の動きを見せることで、読者に「他人の靴を履く」ように仕向けていると言える。


例えば、アベル君に寄り添って接することが出来たのは、間違いなく和真のエンパシーによる。
「ぼくはバカだから」と言う(書く)アベル君に対しては、蒼洋中で落ちこぼれて、自分のことをバカだと思い続け、惨めな気持ちになった自分自身を思い出すのだ。


蒼洋中の優等生・桜田君が、道で、かつての同級生である自分を見つけて、 屈託のない笑顔で話しかけてくるのに対して、和真は、いたたまれない気持ちになり、樹希のことを思い出す。このときの和真の考え方こそが、まさに「他人の靴を履く」ことの実践だ。

ああ、とぼくは思う。
きみにとってのぼくは、ぼくにとっての桜田くんなのかもしれない。
自分にないものをみんな持っていて、無邪気そうに微笑んでいるもの。気がつかない無意識で、他者を哀れんでいるもの。
哀れんでいるものは、自分の放つ匂いに気づかない。
哀れまれているものだけが、その匂いに気づくのだ。
p93

そして、樹希のことを説明したとき、(信頼していた)母親から出た「あー、びっくりした。生活保護んちの女の子と、おつきあいしているのかと思ったわ」「やっぱりうちとは、違う世界の人だと思うじゃない」という言葉には落胆し、激怒した上で、そこに少し前の自分自身を重ねる。

そうだ。少し前までのぼくも、母さんと同じだったんじゃないのか?
「生活レベルが低い人」の世界に、嫌悪や恐怖すら抱いていた。
そういう世界とは、一生関わりを持たずに生きていくものだと思っていた。
今の生活が、決して楽しくもうれしくもなく、居場所すらなくしていたくせに。
p167


このように、ある時はアベル君に、ある時は樹希に、そしてまたある時は母親の立場に自らの立場を置き換えることで、和真は、未知なるものに対する嫌悪や恐怖を克服していく。「他人の靴を履く」重要性を概念として示すのではなく、何度も別の形で例示されることで、読者は、それが生きていく上で重要な意味を持っていることが自然と理解できる。


そして、樹希にかけられた呪い(スティグマ)を解くような言葉も二度登場する。

ずるくはない。それは権利だ。(略)
貧乏は自己責任だと言う人もいるけれど、この法律はそんなふうには切り捨てない。努力が足りなかったせいだとか、行いが悪かったせいだとか、過去の事情はいっさい問わない。
(p189:和真の言葉)

きみは施しを受けているんじゃない。社会から、投資をされているんだよ。
(p229:エマの叔父さんの言葉)

このように、この小説は、スティグマやエンパシーという重要な概念を示しつつ、人生の中でそれとどう向き合い、どう生かしていくかを教える。道徳的というよりは、技術家庭科のように実利的な意味で「教育的な」本だと思う。

「思いやり」は困難を解決できない

小学校の道徳の授業では、人との付き合いの中で最上級に重視されるのが「思いやり」なのではないかと思う。
しかし、この本が後半に提示する最も大きな考え方は、貧困という具体的な困難に対して「思いやり」が何の役に立たないことだ。

樹希の小学生時代からの唯一の友人であるエマは、生活保護を受けるようになった樹希と心の距離が離れていくことに対して無力感を覚えていた。
エマは優しく「思いやり」のある子だが、それが樹希に対して何の意味も持たないことを知っていたのだ。

しかし、物語後半で、エマは、どのようにすれば、樹希が前向きな気持ちを取り戻すことを手伝えるのかを理解する。
必要なのは「思いやり」ではなく「知識」だった。


和真のアプローチによって、エマの叔父(社会学が専門の大学講師?)のアドバイスも受けながら、樹希は、生活保護制度について、具体的な知識を増やしていく。
また、子ども食堂にボランティアで参加していた看護学部苦学生からの奨学金について教えてもらうなど、具体的な情報が、どんどん樹希に希望を与えてくれることになる。


そして、「知識」は、樹希だけでなく、和真にもいい影響をもたらし、この物語は、世界のことをもっと知りたい、学びたいという和真の決心で終わる。

ずっと父さんに言われるがまま、勉強してきた。高得点をとるため、小さな解答欄に学んだことを書き入れ続けてきた。その作業に疲れていた。
けれど、ぼくの知識や思考を、もっと大きな場所に向けて放っていくとしたら?
今を生きる人々の中へ。
もがきながら、迷いながら、それでも生きていく人々の中へ。
p253

実際には、ひどく理不尽な事件が起きもするのだが、これ以上ない前向きなラストだと思う。
「なぜ勉強するのか」ということに対してはいくつもの回答があるのかもしれないが、「知識」「学び」が二人を前向きな気持ちにさせたこのラストは、その中でも、とても有効な回答だと思う。
そして、この本を読んで「勉強しなくちゃ」と思うのは子供だけではない。大人も常に勉強を続けなくてはならない。そんな気にさせられる。

差別や偏見を否定しない

そして、もう一つ、この小説で特徴的なのは、差別・偏見を持つ者が悪という描き方をしていないことだ。
例えば、スーパーで難癖をつけられたアベル君を助けたのは樹希の「生活保護体操服事件」のきっかけになった、斎藤のお母さんだった。彼女は正義感が強いが故に、無知から生活保護に否定的な見方をとることになった。
ケースワーカーも、前半部では樹希や母親を苦しめる一因という描き方をされていたが、エマの叔父の話すケースワーカー経験をはじめとして、その職業自体の困難さも見えてくる。


かといって、『鬼滅の刃』のように、悪者の悪行にすべて理由があるというわけではなく、小説の中で解決されていない困難も多い。
例えば、「努力は人を裏切らない(だから貧困はその人自身の問題が招いたものだ)」 と考え、和真の苦しみのすべての原因である父親は、小説内では、その父権的な態度を崩すことはない。
また、樹希と母親(樹希は、彼女のことを他人であるかのように「ハハ」と呼ぶ)との関係も全く進行しない。


最後は家族そろって前を向く結末というイメージのある児童小説において、この小説の中では、 素晴らしい家族に恵まれなくても、家族の理解がなくても、当人の気持ち一つで前に進むことが出来るということが示される。


そして、「すべての人がもがきながら、迷いながら、それでも生きていく」、その中でどうしても差別や偏見が生じることについて、和真は「優越感」という言葉で説明する。

そう、優越感…。プライドというより優越感だ。
他人との比較でのみ得られる、この感情。
十二歳の春、塾の仲間たちがぼくに向けた羨望のまなざし。
多くの中から、自分が選び抜かれたという甘美な気持ち。
蒼洋中学をクビになっても、あの時の気持ちはまだ胸の奥底にへばりついたままだ。捨てたほうが楽だとわかっているのに、捨てられない。自分はやはり人より優れている、恵まれていると思っていたい、この厄介な感情。
ぼくも、母さんも、そして父さんも、おばあちゃんも。
自分の中のこの気持ちを、どこかでつっかえ棒にして生きているのかもしれない。
ぼくらは幸せなのだろうか。それとも哀れなのだろうか。
p167

物語の中では、誰も「差別・偏見をなくそう」とは言わない。
むしろ、それを「つっかえ棒」にして生きている人さえいる、とまで描いている。
この話は誰かを断罪する物語ではない。
個人的には、和真の父親には物申したい気持ちもあるが、差別・偏見の塊のような人でさえも、そこに「つっかえ棒」がある可能性があるし、物語で最も理不尽な事件は「つっかえ棒」が外れた人によって起こされた。

その意味では、物語は、個々人が死ぬまで抱える「優越感」「劣等感」とどう付き合って生きていくかという、重い課題を読者に残しているのだと思う。

最後に

ここまで、色々な面から見た『むこう岸』の良さについて説明してきたつもりだが、唯一文句を言うとしたら、(装画を担当した西川真以子さんには大変申し訳ないが)この表紙は個人的には好きではない。
「むこう岸」に行くということは、「今を生きる人々」の中へ飛び込んでいく、それによって世界を拡げるということ。その意味では歩道橋から見下ろした都市の風景は作品のイメージ通りかもしれない。
そして、小説の中では、取り返しのつかない事件が起きたりなど暗い話題も多く、ある程度暗いイメージの表紙にするのは決して間違いではない。
しかし、前向きな終わり方が印象的な本で、かつ児童書でこの表紙はないのではないかと思う。


特に、児童書であれば、実際に本を手に取って読むかどうかを決めるということが多い。その際、どんな人に『むこう岸』を手に取ってほしいと思うのだろうか。自分だったら、男女が描かれたシンプルな表紙、という程度が適切だと思う。
「恋愛関係の本かと思ったら、生活保護を扱っていて、考えさせられた」というくらいの本との出会い方がベストだと考える。
この表紙では、「怖い」「悲惨な話なのでは」「真面目な本っぽい」という第一印象が邪魔して、偶然この本を手に取る可能性をかなり下げていると思う。
読後の印象も違ってくる。ラストを読んだ後の前向きな印象は、表紙を見てむしろ打ち消されると思う。自分の読んだのは「可哀相な話」だったような気がしてくる。表紙を見ても「むこう岸」に渡ってみたいと思えない。
この独特な表紙を評価する声もあるようだが、大人向けということであれば理解できる。小中学生の頃の自分を考えてみると、この表紙は推せない。


と、最後に少し不満を書きましたが、児童小説として大傑作でした。
おそらく大人も読みやすい形で文庫化されるのではないかと思います(望みます)。
そのときに表紙をどうするかというのは興味があるところです。

参考(過去日記)

pocari.hatenablog.com
→この本の「はじめに」で「私はセクシュアルマイノリティに対する偏見を持っていませんが……」という枕詞について触れられています。勉強のためにもう一度読み直したい本です。


pocari.hatenablog.com
ブレイディみかこ『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』は感想を残していないのですが、この映画の感想でも「エンパシー」について掘り下げています。2019年の本ですが、年末に読んだので、「エンパシー」は2020年の個人的流行語大賞に入りますね。