Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

ツール・ド・フランスを迎撃~近藤史恵『サクリファイス』×映画『パンターニ/海賊と呼ばれたサイクリスト』

今年は、色んなタイミングが重なり、ツール・ド・フランスを見てみようということになった。
ロードレースの小説の傑作と言われる『サクリファイス』のシリーズを、これを機会に読み直してみよう、そういう流れになるのは当然のことだ。
ということで、ツール・ド・フランスは既に始まってしまっているが、開始前に読んだ感想と、併せて観た映画の感想を。

近藤文恵『サクリファイス

自分にとって、この小説は「速い」。
ここまであっという間に読めてしまうと、本を読むこと自体がもたらす快感に嬉しくなる。
11年ぶりの再読となるが、持ち前の記憶力の無さを存分に発揮し、ミステリとしての驚きも十分に味わえた。
小説冒頭では悲劇的な結末が予見できる文章があるが、その悲劇が誰に起きるのか覚えていなかったのだ。(笑)


文庫版は、大矢博子さん(書評家)の解説に熱がこもっていて素晴らしい。
ロードレースの仕組みについて説明したあとで、このようにまとめる。

そしてまた、そんなアシストたちの犠牲の上を無駄にしない唯一の方法、それはエースが優勝することだ。本書の中でエース石尾のこんな言葉がある。
「俺たちはひとりで走っているんじゃないんだぞ。(中略)非情にアシストを使い捨て、彼らの思いや勝利への夢を喰らいながら、俺たちは走っているんだ」
そんなエースのために走る白石は、捨て駒であることが自分の仕事だと感じている。そしてそういう仕事が「好きなんだ...なんか、こう、かえって自由な気がする」と笑う。

つまり、ロードレースの仕組みとキャラクターの性格が「犠牲」という言葉を中心にしてきれいにまとまっている。それがこの小説の一番の特徴だ。
そして「悲劇的結末」にもかかわらず、後味の悪さがない前向きな終わり方をする。
それは、事件を通した、主人公・白石誓のアスリートとしての成長、人間的成長が明確に感じられるからだ。
終章は「快晴だ。日本ではありえないほどの快晴だ。」という一行から始まり、事件の1年半後、スペインで選手として活動しているチカ(白石誓)の様子が描かれる。
初めてのグラン・ツール。そして来年はフランスへ。
ジャンプ漫画のような下克上感にとてもワクワクする。

パンターニ/海賊と呼ばれたサイクリスト』


今回、ツール・ド・フランス開始前に、ジロ・デ・イタリアの2022のレースもダイジェストで見たが、まず手始めにマルコ・パンターニの映画を観た。
タイトルからは想像していなかったが、まさに「悲劇的な」としか言いようのない最期と、街を埋め尽くすような葬儀の様子に驚いた。パンターニを苦しめる後半のテーマは、『サクリファイス』の核の部分とも重なる。
ジロ・デ・イタリアに興味を持ったのは、パンターニが達成したダブル・ツール(グラン・ツールと呼ばれる3大レースのうち2つを同一年度に制覇すること)の様子を見てだったが、自分にとっては、実際のロードレースの入り口として、とても良い映画だった。(とはいえ、後半が辛過ぎるのですが…)


www.youtube.com

参考(過去日記)

pocari.hatenablog.com
→「犠牲」の話と絡めて、『鋼の錬金術師』の話を書いている!読み直したくなってきたなあ。

pocari.hatenablog.com
pocari.hatenablog.com
pocari.hatenablog.com

みんな最悪なんだからみっともなく生きていい~ヨアキム・トリアー監督『わたしは最悪。』

水曜日の仕事終わりに時間が取れそうと思ったとき、ド派手なエンタメや主張のはっきりした作品「ではない」作品を観ようと思って選択した映画。


で、実際、観に行って良かった。
こういう風に、何だかわからないものを観に行って、何だかわからない感じで帰って来るのは久しぶりだ。
映画を観に行くときは多かれ少なかれ、「この俳優の演技を」とか「監督の過去作と比較して」とか「社会問題をどのように扱っているか」とか「巷で批判されてるけど…」とか、色んな文脈を準備して観に行くけど、今回、ノルウェー映画は初めて見るし、批評等を読んでいない。
あまりにこの状態が勿体なくて、パンフレットを読むのも感想を書いてからにしようと思って、まだ開いていない。

ユリヤの選択

数年間のユリヤの人生をなぞる物語の中で、一番観た人と話をしたくなるのは、あれだけ仲が良く、長く同棲している恋人のアクセル*1がいながらの、唐突な浮気、そして、別れという選択。
その理由について彼女は「自分が主人公のはずの人生で、いつも自分は脇役だった」という言い方をしていた。アクセルがグラフィック・ノベル作家として輝き過ぎていたから、そしてそれに憧れを抱いていたから、それにひきかえ自分は…と感じてしまったのかもしれない。
別れの喧嘩のときに、「自分はテキトーな人間で…」と言うユリヤにアクセルは「テキトーなところがいいんだ」と言ってくれるが、そのちょうど良い関係性の中で、ユリヤは何かを貯めてしまっていたのだろう。
でもやっぱり唐突だよな…と彼女に対して批判的にも思ってしまう。アイヴィンに会えたのは幸運であって、そんな風に上手く行くわけじゃない。男女を置き換えて考えると、(唐突な浮気は)割とありそうなことではあるけど、男でも、あの状態での行動は軽はずみだろう。


一方で、主人公が「30歳前後の」「女性」であることは、この映画の核になっている。
ユリヤは、母親もその親も、30歳は人生の転換期だったというプレッシャーがあった。
だけでなく、恋人の家族に会えば、皆が子どもの話をする。
子どもを産むか産まないかの話は、周囲の状況によっては「自分が主人公のはずの人生」の人生設計にも大きく関わってくる。
ユリヤは子どもを欲しくないわけでなく、子ども「も」欲しかった。でも仕事も恋人も転々としてきた飽きっぽい彼女は、子どもだけは、途中でやめられないので、その覚悟を持てなかったのだろう。(逆に、子どもを持たない、と決める覚悟も持てなかった)

ユリヤの「自分勝手」

彼女の考え方の根本部分は、映画の大きな見せ場である2つの特殊なシーンに現れている。
まずは、時間の止まったオスロの街を駆け下りてアイヴィンとデートする妄想シーン。ポスターにもなっている、ある意味一番楽しいシーンだ。
長崎や尾道のように高低差がある美しい大都市オスロは、この映画では、彼女が活躍する舞台として機能している。時間の止まった世界では、ユリヤは人からの束縛を受けなくていい。そこにあるのは街と恋人だけだ。
一方で、マジックマッシュルームで見るドラッギーな夢のシーンでは、彼女の周囲は束縛に満ちている。人から見られること、子どもを作ること、そして子どもを持つ「母親」としての体に変化すること。そこには、彼女にとって煩わしいものばかりが並ぶ。
こう書くと、とても自分勝手な人間にも見えるが、色々なプレッシャーに囲まれていて、そこから抜け出したいと思う気持ちは、男女問わず、年を重ねれば重ねるほど共感しやすいように思うし(演技の力もあると思うが)、とても魅力的に映った。

わたしは最悪。

このタイトルは、おそらく、彼女が一番落ち込んだときに呟く台詞なんだろう、と映画を観る前は思っていた。特に「選択」の映画であることから、「あそこで逆の道を選んでいれば…」と後悔するようなストーリーを想定していた。
実際、アクセルがいい人過ぎることから、浮気~別れの流れは、「あとで後悔するに違いない」と思いながら見ていた。
その後の彼女の妊娠をめぐる展開は皮肉に満ちている。病床のアクセルが、彼女の妊娠を真摯に祝ってくれ、ある程度は覚悟を決めたのに対し、アイヴィンはそれを受け入れられない。少し前の彼女と同様に、覚悟ができない。
結局、子どもは流産してしまい、アイヴィンと別れてしまう。にもかかわらず、エピローグでは、彼女は新たな仕事を手に入れ一人で充実した生活をしているように見える。


あれ?ユリヤは全く後悔していないじゃないか…と振り返り、タイトルの意味は「わたしは最悪。(てへっ)」という意味だと分かった。世間からどう言われても、自分の道を行く!という宣言のようにも思える、とても前向きな映画だった。

パンフレットを読んだ

パンフレットを読むと、自分の見方はそれほど外れていないと知った。安心。


タイトルについては大九明子監督の捉え方が自分のものとほぼ同じだった。
大九監督は自身の『勝手にふるえてろ』との比較もした上で、タイトルの意味についてこうまとめる。

これが私、世界最悪の人間ユリヤでございます、なんて。そもそも人間なんてみんな最低最悪、あなたも私もみんな最悪なんだから、みっともなくてもいいから自分自身が気持ちいいと思う生き方をしていくしかないんですから。


山崎まどかの批評はとても興味深く、本も読んでみたくなった。

ユリヤの悩みは贅沢なようだが、現在のノルウェーの女性たちが感じている重圧も背景に見える。ノルウェージェンダー先進国で、女性が働く環境も整っているが、自己実現とキャリアを築いて社会に貢献することがイコールに考えられていて、追い込まれる女性もいる。特に「仕事と家庭の両立」の悩みは大きく、板挟みになる女性は多い。キャリアからも結婚して子供を持つことからも自由でいたいユリヤがどんな環境にいるのかは、ジャーナリストのリン・スタルスベルグの著書である「私はいま自由なの?男女平等世界一の国ノルウェーが直面した現実」にくわしく書かれている。



パンフレットで一番感動したのは、インタビューからわかる監督・脚本・製作総指揮ヨアキム・トリアーの聡明さ。
例えば、以下のQAが特徴的だけれど、切れ味が鋭く、的を射ている。

Q:ユリヤはアクセルと別れて、アイヴィンとつき合います。アイヴィンを選んだ決め手を教えてください。
A:自由の感覚です。アイヴィンはユリヤとほぼ同い年で、カフェテリアで働いている。彼と一緒なら、彼女は自分の野心や、母親になることや、未来の妻としての自分を考えなくてもいい。アイヴィンはとても優しくて、穏やかで、アクセルほど押しが強くない。誰かと親密になるのが不安だということを暴露できるのもアイヴィンなんです。人生は短く、時間には限りがあり、時には物事が正しい順番で起こらないものです

トリアー監督は、作品の大きなテーマを「時間」と言うが、この回答にもそれが強く現れている。第五章のタイトルが「バッドタイミング」だったが、映画の中で、タイミングの悪さが強調される理由も分かった。人生は短いが故に「物事が正しい順番で起こらない」ことに多く遭遇するように感じる。ユリヤ側から見れば青春映画だけれど、そのほかの登場人物も併せてみると、まさにそういう映画でもあった。*2


まとめると、2022年の第94回アカデミー賞で、国際長編映画賞だけでなく、脚本賞にもノミネートされたというのは大納得の脚本の素晴らしい映画でした。特に書きませんでしたが、プロローグ+12章+エピローグの特徴的な構成も、特に章タイトルのアクセントが効果的で内容に入り込めました。

大九監督の言う「あなたも私もみんな最悪だからみっともなくていい」という言葉通りの、前向きになれる映画でした。
あと、音楽が良かった。新旧入り混じる感じでしょうか。サントラは未だみたいだけど出たら聴きたい。

*1:アクセルは、テニスのジョコビッチに似てるなあと思いながら見ていました。癌が進行していくにしたがって、どんどんHPが減っていく見た目が壮絶でした。減量しているのでしょうか…

*2:なお、アイヴィンの元恋人の我が道を突っ走る人生選択も、ユリヤと鏡映しになっている気がする。この辺も面白い。

2022年上半期の振り返り(鎌倉関連、SF、映画、そのほかのベスト)

5月以降は特に定期的に更新が出来たこともあり、上半期振り返りをしようと思い立ちました。
上半期は大きな傾向が3点あり、この3点に沿ってそれぞれのベストを挙げます。

  • 『鎌倉殿の13人』関連の、源平合戦鎌倉時代の本が多い
  • なぜか珍しくSFが多い
  • 映画をそれなりに見た。

『鎌倉殿の13人』関連ベスト

北条義時関連の新書2冊、学習漫画2冊から小説、アニメ、そして映画(犬王)まで、と多ジャンルにまたがり、色んな作品に触れましたが、ベストはやはりこの作品です。

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実際、勉強になりエンタメとしても読みやすく、このタイミングでなければ読まなかったという点は大きいです。
『鎌倉殿の13人』は、先週、源頼朝が死に、これから「鎌倉殿の13人」体制が成立し、その後、本格的な権力争い、という流れになるのでしょう。
まずは、関連新書を読んで予習しておきたいですが、合わせて『宗像教授』シリーズなど、伝奇的な方向の本にも手を出していきたいです。

SF関連小説ベスト

久々に上下巻のハードカバーSFを買って読んだということでは断然『プロジェクト・ヘイル・メアリー』なのですが、自分の文章が、本の紹介としてしっかり機能している(再読したくなった)という意味では以下です。

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この本は短編集でもあり、読みやすく、誰にでもオススメしやすい本です。
ただ、本好きとしては、もう少し重厚なものも読んでみたいので、『プロジェクト・ヘイル・メアリー』を読んだ勢いで、とうとう積読棚の中から『三体』を取り出すときが来たな…と思っています。

映画ベスト

上半期は珍しく月一本くらいの本数で映画を観ています。『香川1区』『コナン』『死刑にいたる病』『シン・ウルトラマン』『犬王』『トップガン』『マイスモールランド』、あと、感想を書いていない『ウエストサイドストーリー』で8本。
このうち映画館で見て良かった!という意味では断然『トップガン マーヴェリック』ですが、やはりこちらでしょうか。

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文章中でも挙げていますが、『家族を想うとき』と鑑賞後の感覚が似ています。
映画の中で「一件」が全然「落着」していない。いや、そもそも「映画の中」の話ではない。その意味で、映画で見た家族は、地続きの世界で今も暮らしているはずだし、自分の脳内世界でも生活をしています。今度、関連するニュースを目にしたときに、彼らのことを確実に思い出すでしょう。そういう映画体験は、意識して増やしていきたいと思いました。

そのほか

音楽は、それほどたくさん聴いているわけではないですが、実質的に聴いている回数では、宇多田ヒカル、中村佳穂、フィロソフィーのダンスの新譜が上半期のヘビーローテーションということになりそうです。

が、高校サッカー青森山田高校の話と、橋本絵莉子の楽曲が、自分の中では非常に対照的に捉えられた、という意味で、タイミングの妙が面白い以下の文章が個人的に好きです。

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お正月から半年経ってしまったのか…。
下半期は、あるスポーツ関連に少し手を出そうと思っているので、本や映画にとどまらず、世界を広げていきたいです。

悪人が裁かれない嫌な事件~『そして陰謀が教授を潰した ~青山学院春木教授事件 四十五年目の真実~』

教授による教え子強姦事件は有罪か、無実か。

本作は、1973年に青山学院で起きた「教授による女子学生強姦事件」の真相を、
元新聞記者である著者が執念をもって追いかけた45年の集大成となるノンフィクション。

青山学院法学部・春木猛教授(当時63歳)が、教え子の同大文学部4年生の女子学生へ、3度に亘る強制猥褻・強姦致傷の容疑で逮捕される。

春木教授は懲役3年の実刑が確定し、一応の決着とされるが、
教授自身は終生「冤罪」を訴え、無念のまま亡くなった――

事件当時、新聞記者だった早瀬氏は、事件の裏にある、
女子学生の不可解な言動や、学内派閥争い、バブル期の不動産をめぐる動きなど、
きな臭いものを感じ、45年かけて地道に取材を続けます。

有罪なのか、冤罪なのか、
事件だったのか、罠だったのか……。

本書は、その取材の記録と、
早瀬氏なりの「事件の真相」に迫る作品。

小説家の姫野カオルコ氏による文庫解説も必読です。

このあとに読んだ本の体感速度が、かなりハイスピードだったこともあり、それと比較すると、特に終盤が退屈でなかなか進まない読書となった。
しかし、この本の成り立ちを考えると、それも当然のことだと考え直した。


こういった実事件についてのルポルタージュは、通常数年前=十数年前の事件の真相に迫るものが多いだろうが、そもそも、この事件は1973年で、自分は1974年生まれだから生まれる前の事件。
しかも、あらすじにある通り捕まった春木猛教授は当時63歳で、1994年にすでに亡くなっている。本の出版は2018年ということで、亡くなって24年後に改めて冤罪を訴えた本ということになる。
したがって、「予想外の展開」が生じるわけはなく、この事件が冤罪であることも、その冤罪を誰が仕掛けたかも、前半である程度整理して示されており、だから後半が退屈に感じてしまう。


この事件については、数年おきにいくつかの雑誌が取り上げ、記事になっていたが、それらの記者の取材資料(いわばバトン)を受け取った*1元新聞記者の早瀬圭一が、背後関係をさらに精査したのが、この本の功績であり、この本の単行本のときのタイトルが『老いぼれ記者魂』だった理由なのだ。
そういった「この本の読み方」を、姫野カオルコの文庫巻末解説を読んでからやっとわかった。


繰り返すが、著者の早瀬氏が追究したのは「何が起こったか」ではなく「なぜ事件関係者がこのように動いたか」である。そのために、情実入学、地上げ、学内派閥争いの詳しい状況について詳しく調べてある。
そして、事件の「被害者」とされた、当時女子大生のT・A子さんが、何故、教授を陥れるような行動をとり、「嘘」をついたのか、という、事件の根源に行き着く、というのが、この本のクライマックスに当たる。


解説の姫野カオルコは、事件当時中学生で、ニュースで取り上げられるぼんやりした情報から春木教授が「罰されるべき人間」としてとらえていたという。
そういう人にとっては「45年目の真実」には意味があり、当時の自分を反省したりすることにも繋がるだろう。
しかし、この事件自体が初耳である自分のような人間からすると、ひたすらに春木猛教授が気の毒であり、春木教授を陥れた人間たちに腹が立って仕方がなく終わる本である。
この本では悪人は罰されないし、そもそも彼らも亡くなってしまった。
姫野カオルコは、解説で、本書のことを徹頭徹尾「腹の立つ本」と書いているが、まさにそのとおりだ。

終始腹を立てて読了したあとには、鳥肌の立つ落胆に包まれる。
正直に規則を守って生活している市民には見えぬところで、一部のだれかは、司法さえも操作しているのか。良心が鮮やかに抜けているほうが、労なく快適な生活を送れるのか。そうなのか。そうなのだろう。

1973年当時と比べて、勿論、状況が改善していると信じたいが、司法関係者の人から「こんな事件、こんな法判断はいまではありえない」と言ってほしい。

*1:『チ。』のように。

アニメ『平家物語』×映画『犬王』×小説『平家物語 犬王の巻』

アニメ『平家物語

平家物語』を見終わったのは、まさに『犬王』を観る一週間前くらいのことだった。
見始めたのは3月ころで、最終回を観たのは『鎌倉殿の13人』での壇ノ浦回くらいだったので、鎌倉殿とのキャラクターの違いを面白がりながら見た。


また、特に結びつきを考えずに行った4月頭の和歌山旅行も、良い感じに作用した。
アニメ『平家物語』4話では重盛が熊野古道を登り熊野那智大社を参拝し、10話では、維盛が那智の滝近くで、びわと会ったあとに、補陀落渡海から入水。
また、アニメや大河ドラマでは扱われなかったかもしれないが、源平の戦いでも活躍した熊野水軍が舟を隠したと言われる三段壁洞窟など、見どころが多く、タイミングが良かったと今さらながら思う。


全体を通して興味深く感じたのは、話が分かっているせいもあり、終盤に行くほど落ち着いていくように感じたこと。普通のアニメなら最終3話くらいは大盛り上がりだが、『平家物語』は気持ちが凪いでいく。
そんな中、最終話(11話)の壇ノ浦でのイルカの大群の登場(全く知らなかったが原典にも当然ある)は特に印象に残った。そしてラストまで見ると、アニメ全体の印象は、エンディングテーマ(agraph feat.ANI)の、ANIのラップが終わったあと、一転して音響的なインストに転じる、あの流れに似ている。
それは、平家物語のキーワードで言う「諸行無常」という言葉にも重なるが、物語の終わりまで知った上で、語り歌う主人公びわが配置されているからこその特別な感覚なのかもしれない。


アニメ『平家物語』は、主人公びわが、平家の滅亡、母親との再会と別れを通して、「語り継ぐ」道を選ぶという、彼女自身の物語となっていることが、最後まで視聴者を惹きつける要素になっていたと思う。

映画『犬王』

『犬王』についてはあまり知らなかった。

と、多少混乱してきたところで、アトロクで湯浅政明監督インタビューの放送を聞いて、大きな筋と、音楽に力を入れた作品だということを理解した。


さて鑑賞。
冒頭に現代の映像が挟まるので驚く。
また、今回、ビジュアルの予習をほとんどしてこなかったので、始まってから松本大洋がキャラクターデザインであることを知る。
そして、友魚&犬王のパフォーマンスが始まると、想像以上に曲の演奏に時間を取る演出に驚く。手拍子要求や、琵琶の背面弾き(というのか?)など、友魚たちのステージパフォーマンスの派手さもだが、衣装も楽しい。後半に行くほど、ほとんどふんどし一丁で、舞台が室町時代ということを忘れてしまう。


中でも一番楽しんだのは、そのステージが魔法だったり、アニメ演出上の非現実ではなく、室町時代でもこれなら出来るかもしれないと思わせるローテクで成立しているところ。
このあたりは、パンフレットに載っていた野木亜紀子(脚本)のインタビューが楽しい。

(能の描き方について)そのために勉強もしたし時間と労力をかけたんですが、必要なかったじゃん!と(笑)。あんなに真面目に能について考えたのは何だったんだと思うくらい、湯浅ワールドが炸裂してましたね。


~脚本では、しっかり能の形式をふまえたものとして書かれていたんですね。
そうです。思い返せば最初の打ち合わせのころから、湯浅さんがポップスターやフェスという言葉を出していたんですけど、喩えだと思っていたんです。でも作品を観て「喩えじゃなくて本当にそうだったんだ!」と。


~あのステージシーンに関しては、完全に演出の産物なんですね。
そのとおりです。あの舞台表現、すごいですよね。土の中から大量の腕が出てくる仕掛けとか、プロジェクション・マッピングのような演出とか、最後のバレエとスポットライトの乱舞とか、脚本にはまったくありませんから。まさに完全な「湯浅演出舞台」を私たちは見せてもらっているわけで、本当にポカンとしながら見入ってしまいました。


ということで始終魅了されながら見たステージシーンだが、不満な点もある。
足利義満の前で舞う最後の「竜中将」は、クライマックスで明らかになる犬王の直面(ひためん)が、デーモン閣下のような化粧をしているのがよくわからなかった。ここは当然ノーメイクの「素顔」が現れると思っていたので興醒め。

そして、結局、犬王と友魚(友有)の二人が袂を分かち、友魚が悲劇的な最期を迎える流れも、そのあとのフォローがあったので特に疑問を挟まずにエンディングまで進んだが、振り返るとよくわからない部分はあった。


とはいえ、森山未來の歌う「見届けようぜ」の声が、3週間過ぎた今も耳に残る、中毒性のあるステージシーンが圧巻だった。
今回、犬王を演じるアヴちゃん(女王蜂)のことは書かなかったけど、パンフレットもネットのインタビュー記事も、アヴちゃんの姿が出ているだけで、映画『犬王』の話というより、圧倒的にアヴちゃんの話にしか読めない唯一無二の存在で驚いた。


最後に湯浅監督のことを。
パンフレットにある各人の湯浅監督評が面白い。

  • 大友良英(音楽)「正直に書きます。湯浅監督の具体的なのか抽象的なのかさっぱりわからない無茶苦茶な注文と、素人目には何が描かれているか皆目見当がつかないスケッチ段階の動画に翻弄されまくった3年間でした」
  • 亀田祥倫総作画監督)「湯浅さんといえば業界内でも天才、鬼才と言われている方なので、現場に入るまで自分に何がやれるのか想像出来ず緊張していました。というのも絵コンテを見ても正直何が描いてあるのかわからずで(笑)湯浅さんの手振り身振りの作画打ち合わせでとっかかりの一端が見えた感じでした」
  • 野木亜希子(脚本)「こんなに言葉が伝わらないことってあるんだ!」と思うこともありました(笑)。やっぱり違う世界を見ている人なんだな、だからこういうものを作れるんだろうな、とも思います。私にとっては「リアルな鬼才」を目の当たりにした体験でもありましたね」

どの人も湯浅監督のことを奇人変人扱いしているが、終わってみたら傑作が出来ていたという評価が共通しており、監督への信頼を感じさせる。問題の絵コンテの一部はパンフレットにも載っているが、確かにラフではある(笑)
湯浅監督作品も、『マインドゲーム』と『映像研には手を出すな!』くらいしか見ていないので、もう少し手を出しておきたい。

小説『平家物語 犬王の巻』

結局今回、映画を観たあとに読んだのだが、驚いたことに、原作小説もとても面白い。
良かったことの一つは映画でピンと来なかった人間関係や展開がしっかり理解できたこと。
具体的には、犬王と、犬王の父親の率いる比叡座(ひえざ)、そして『犬王の巻』との関係が明確にわかった。

  • 比叡座を猿楽の諸座の中で一番人気にのし上げたのは犬王の父親の功績。
  • その源泉は、圧倒的に面白い新作群にあり、その面白さは、数多くのいけにえを引き換えにした妖術によるものだった。
  • …というような暴露話も含めて、実在の演者(犬王)の半生と合わせて平家物語を語り直する『犬王の巻』を友魚と犬王は語り演じ、人気を博す。
  • 「竜中将」で犬王が将軍からも賞賛を得たタイミングで、父親が死に、比叡座はトップ不在となる。数年後には犬王が比叡座のトップに登り詰め、友魚は「魚座」を立て、その魚座も比叡座も、それぞれで『犬王の巻』を語り演じることとなる。
  • しかし、平清盛を敬愛する足利義満は、異聞を禁じて平家物語の統一を図る。すなわち『犬王の巻』を語ることは禁止された。犬王(比叡座)はこれに従い、友魚は語り続け処刑される。
  • 歴史的事実として、当時、猿楽の能で将軍の愛顧を受けたのは、一番が比叡座(犬王)、二番が観世座(観阿弥)だったという。『犬王の巻』を禁じられた犬王は、観阿弥の演目に倣いながら興行をつづけたのだという。

こうして全体ストーリーを眺めると、この物語は、タイトルの通り『平家物語 犬王の巻』にまつわる内容であることがよく理解できる。


しかし、この小説の一番の特徴は、こういったストーリー的な部分よりも、「音」としての小説の面白にある。
古川日出男は、朗読ライブを行う人と聞いていたので、声に出したときの言葉を大事にする作家という印象だったが、解説で池澤夏樹はこう書く。

小説はプロットだと人は思っている。
あるいは登場人物。
時代や社会。
しかし、小説は文芸なのだ。だからまずは文体。
この『平家物語 犬王の巻』の文章はどのページを開いてもわかるとおり、速い。センテンスが短く、改行が多く、形容に凝らない。ばきばきと進む。

この解説の中で、「池澤夏樹=個人編集 日本文学全集」で「平家物語」を頼む際に一瞬も迷うことなく古川日出男を挙げたという。*1
実際、その池澤夏樹の意図は、小説を読むと十分に果たされていて、故に読後感は、とても独特だ。古川日出男の本も久しぶりに読んだが、「高速」な文体をもっと堪能したいと思った。

これから読む本

今回、『平家物語』に関する3作品に立て続けに触れてきたが、肝心の『平家物語』をまだ読んでいないので、ぜひチャレンジしてみたい。
また、池澤夏樹解説では、こうも書かれている。

古川さんに「源氏物語」は頼まない。あのうねうねと続く微細な情感描写に満ちてねっとりとした文章は彼にはそぐわない。そちらは角田光代さんにお願いすることにして快諾を得、長い歳月の後、すばらしい訳が仕上がった。ぼく自身は簡潔にさくさくと進む「古事記」を担当した。

これを読むと3作とも読みたくなる。特に、角田光代源氏物語』は以前から気になっていたが、池澤夏樹古事記』が気になる。『古事記』のあとで雄略天皇を主人公とした小説も書かれているということでそちらも読んでみたい。

*1:ここで意図したのは「『ベルカ、吠えないのか?』のように広大な小説空間を亜音速で走り抜ける作」とあるので、『ベルカ…』も読まなくちゃいけない。

サーリャは今も頑張れているのか~川和田恵真監督『マイスモールランド』


『マイスモールランド』は、同僚から最近見た映画として薦められて、その名を知った。
クルド人難民の映画と聞いて気にはなったが、「社会問題」をテーマにしたドキュメンタリー映画(と勘違いしていた)は、少し敷居が高い。『シン・ウルトラマン』など観たい話題作もあったので、後回しになっていた。
しかし、その後、毎週見ているお馬鹿番組『全力脱力タイムズ』(5/20)で、ゲスト出演した嵐莉奈が『マイスモールランド』を「自らの主演映画」として宣伝していて驚き、俄然、興味が湧いた。
あれ!こんなにザ・モデルな感じの人なのに、恋愛映画じゃなくて、クルド難民の女子高生を演じる?一体どういうことなのか?


その後は、アトロク「ムービーウォッチメン」のコーナーで取り上げられ(5/27)、さらには、同番組内での川和田監督のインタビュー(6/14)もあり、気になりながらも上映館数と上映時間が限られるので、土日は上手く時間を合わせられず先延ばしになっていた。
が、水曜の会社帰りにちょうど良い時間に上映していることを知り予約してみたら舞台挨拶回ということで、得した気分で6/22新宿ピカデリーに向かったのだった。

今回はアトロクで事前情報もかなり仕入れているし、どんな映画か大体わかっているつもりだったが、実際に見るとやはり新たな驚きがあった。

「青春映画」だった

自分は、ヒロインが可愛く見える映画が大好きで、ストーリーが破綻していたって問題ない。演技はむしろ下手くらいの方が推せると思ってしまう。*1
嵐莉奈さん主演だったらそんなタイプの映画もあり得る。
でも、「社会問題」を取り上げた映画であることを考えると絶対にそうはならないはず。どうやって…?
というのが、自分のひとつの注目点だった。


結論を言えば、嵐莉奈さんは可愛く撮れている。
しかし、演技の巧さとストーリーがそれに勝り、10倍印象に残るので、この映画を観て「嵐莉奈が可愛い映画だった」という感想を持つ人はごくごく少数だと思う。嵐莉奈ではなく「サーリャ」のことが気になる映画だ。

また、彼女が演技が巧いことが目立ち過ぎると、それもマイナスの印象となるが、相手役(聡太)の奥平大兼が、これまた相当に巧い。
2人で会話をするシーンはたくさんあるが、2人とも台詞のない演技がとても多い。しかも「笑う」とか「泣く」とかではない。相手のことをじっと見つめて相手を傷つけないように考えながら自分が何を言うか、どんな顔しようか悩む、そんな演技ばかり。


2人の関係性も面白い。サーリャは、同級生にも内緒にしていた祖国のことを聡太に初めて話すし、聡太も自分の夢を語る。かといって、ずっと昔からの幼馴染だったり「運命の人」だったりするわけではなくて、さよならを言ったあとずっと会わない可能性もある。お互いが「探り探り」の状況なのだ。
この映画の聡太がリアルなのは、常にサーリャのために動くのではなく、自分の夢に向かう行動が9割で、残りの一部がサーリャに向いている、というバランス。
だから、「しょうがないよ」というサーリャに「そんなことない!」と反論していた聡太は、状況をある程度理解してから2度目にその言葉を聞いたときは、何も言えなかった。


反対に、サーリャの「大阪について行く」という言葉も、聡太への思いというよりは、自らが、今の世界から逃げ出す「出口」を、少し離れた場所に求めたいという気持ちが言葉として出たものだろう。


色々なことができる、でも、色々なことができない、
それが『スモールランド』青春映画としての面だ。
でも、サーリャには普通の日本人なら当たり前の自由を享受できない…。

家族の映画だった

最近、アニメの『SPY×FAMILY』を一気見していたせいもあり、末っ子のロビンは(スパイファミリーに登場する)アーニャに重なって、とても可愛かった。
しかし、2作品の家族は、同じ家族でも大きく違う。
SPY×FAMILY』は偽物の家族だが、『マイスモールランド』の家族は役柄どころか実際にも本当の家族。だからというべきか、家族の嫌な面もたくさん見える。


サーリャが父親から「聡太に二度と会うな」と言われる場面や、同じクルドの中で結婚相手を勝手に決められていることがわかる場面は、束縛する父親の嫌な面が見える。
もうひとつ強烈なのは、妹アーリンが、サーリャに嫌味を言う場面。クルドの同胞の手助けで忙殺されているサーリャを見て「自業自得だよ」と。これだけ周りのために、勿論、家族のために一所懸命になっているのに、何でそんなことが…と思ってしまうが、原宿に行きたくても行けないアーリンも悩みを抱えていたのだろう。

こういう負の場面があるからこそ、最後の面会室の場面などは本当に印象に残る。
一連の家族映画としての流れを考えると、これに似た映画は『家族を想うとき』だろうか。*2

「社会問題」が前面に出ない映画だった

舞台挨拶は、川和田監督と西川美和監督の対談だったが、その中で西川監督が言った言葉が印象に残っている。

この映画には悪い人が出てこないのが特徴で、成功している。
悪を描くと、自然と観客は主人公と同じ側に立って安心してしまう。


また、川和田監督は、ドキュメンタリーではなくフィクションを選んだ理由を問われて、社会問題として扱うことで、自らの問題として捉えられなくなることを挙げていた。このあたりの意図と思いはパンフレットの川和田監督インタビューにも書かれていた。

取材で出会ったあるクルド人のかたに、「社会問題としてではなく、それぞれ生活や文化、物語をもった人間として、見てほしい」と言われたことは大きかったですね。遠くにある問題ではなく、物語の中に入って、自分のことのように理解しながら観てもらえるものを作りたいと思いました。

つまり、この映画は、「社会問題」を伝えるようには作られていない。
何が問題か、ということは示している。
しかし、西川監督の指摘する通り、「悪」は描かれない。
登場人物で言うと、難民申請が通らなかったことを伝える出入国在留管理局の職員が「悪」に近い人になり、サーリャの父が激怒する相手も彼だが、彼には何の権限もない。

「悪」は描かれないが、サーリャと聡太の「青春」が強調されればされるほど、サーリャの置かれた状況の理不尽が際立つ。

  • アルバイトもできない
  • 優秀な成績をとっていても進学先はかなり制限される
  • そもそも埼玉県から出る自由がない
  • 健康保険に入れない

ほとんど決まっていた推薦が断られ、高校教師が「先生も一緒に進学先を探すから頑張ろう!」と言ったときの、サーリャの「もう頑張ってます」という言葉が心に刺さる。
ここまで必死にやっているのに報われないという感覚は、『家族を想うとき』と似ているが、サーリャ達は、日本人と同様の生活をしているのに、日本(国)から拒否されているので、余計に辛い。
入管施設への長期収容を断念して、強制送還を受け入れる(それは死を意味するかもしれない)父親の決断も辛い。末っ子のロビンはそのことをしっかり理解できていない。


物語は、サーリャが顔を洗って前を向く場面で終わる。
気合を入れ直している場面に見えるが、「もう頑張ってる」のに…と、もっと辛くなってしまう。
立場の違う人の気持ちを想像し追体験する「他人の靴を履く」という言い方があり、「社会問題」を前面に出さず、主人公の苦境に焦点を当てた『マイスモールランド』もまさにそのタイプの映画と言える。日本の難民やクルドの問題に触れるたびに、サーリャは今も「頑張れている」だろうかと考えるだろう。

他の作品での描かれ方

「社会問題」をテーマにした他の作品は、問題をどう描いているか、過去のブログの文章を読んで少し考えてみた。


pocari.hatenablog.com
『むこう岸』は「生活保護」をテーマにしており、生活保護を受ける女子中学生と、同級生の男子がメインで描かれるので、『マイスモールランド』と似ている部分はある。
しかし、この作品の特徴は、生活保護と縁のない男子中学生(『マイスモールランド』の聡太にあたる)の目線で描かれ、彼が同級生女子の問題解決に向けて奔走すること。そして、生活保護という法制度が、困っている人を支援してくれるということだ。
『マイスモールランド』では、徹底的にサーリャの視線で描かれ、彼女はほとんど泣き言を言わない。聡太は彼女を助けようと奔走するわけではない。(そもそも、彼女の置かれた状況についてしっかり理解してあげられていない)
そして、生活保護制度とは異なり、難民に関する法制度は、彼らを助けてくれない。(とても理不尽だ)


pocari.hatenablog.com
『ふるさとって呼んでもいいですか: 6歳で「移民」になった私の物語』はイランから日本に来たナディさんの話。ナディさんの一家は「ビザのない外国人」として来日し、いつ強制送還されるかという不安とともに学校生活を過ごしていたと言い、置かれた状況はサーリャにとても良く似ている。
進学に関する悩みについても書かれており、ナディさんは無事に進学を果たすことができた。そういう意味では成功例にも見える。


しかし、サーリャがクルド人であることは、問題の解決をさらに難しくする。

日本の難民認定率はわずか0.4パーセント(2018年)で、他の先進国と比べても極端に低い。さらにクルド人については、難民認定された例は過去1件もない。日本政府がトルコとの友好関係を重視し、トルコ国籍のクルド人を難民と認めようとしないからだと言われている。
「国がないことが、私を一番悩ませる」クルド人の少女が求める自由 | ハフポスト 特集

上の文章の引用先の元記事や関連記事を読むと、本当に、今の日本は、外国人に優しくない国であると恥ずかしく思う。

www.huffingtonpost.jp
www.nhk.or.jp


「マイスモールランド」

パンフレットのインタビューで川和田恵真監督は、アイデンティティを重要なテーマに挙げている。

私も海外にルーツを持っていて、「自分は何人なのか。自分の国はどこなのか」という問いは、いつも心にありました。
日本で生まれ育ち日本語しか話せないのですが、見た目で判断されてしまうので、今もよく日常生活の中で「外人」とか「日本語上手ですね」と言われるんです。幼い頃からずっとそういう状況なので、すごく揺らいでいるというか…自分にとって、アイデンティティはとても大事なテーマですね。
そういう想いが、国を持たないクルドの人たちへの興味につながったのだと思います。
また、クルド人の家族の中でも、クルドの文化を大切にする親世代と、日本で育った子ども世代では、考え方にギャップもあります。
私は父がイギリス人なので、その点への共感は大きく、父と娘の関係は物語の骨格になりました。
本作はアイデンティティに悩んでいた10代の頃に自分が観たかった映画でもあるんです。

特に言及はなかったが、本作のタイトルは、国(ランド)を持たないクルド人を念頭に、日本で育ったクルド人にとっての「マイランド」としての日本があり、しかし、(埼玉から出られない人も含み)特定地域に集中して住んでいるクルド人同志で助け合うしかない「マイスモールランド」としているのではないかと思う。
つまり、実質的な「ふるさと」でありながら、日本の法制度で生活に著しい制限を受けた「ちっぽけな場所」という皮肉もこもっているのではないか。


サーリャは、本作一番の「胸糞」場面であるカラオケのシーンで「国へ帰れ」と言われるし、いわゆる入管施設の問題に対して同じように思う日本人も多くいるのだと思う。(多くの人が問題を感じていたら、容認されないのでは…)
しかし、他の日本人と同様に、長期間に渡って日本で暮らし、日本に生活の基盤がある外国人が、ちっぽけな「マイスモールランド」で暮らすことも許されず入管施設に収容され、長期収容か強制送還(≒自国での逮捕≒死)かを選べと迫るような現在の仕組みは、やはり間違っているように思う。


この問題については、上でも触れたナディさんの本の「あとがき」がとても良かったので改めて引用する。

何かを必要とする人が近くにいたとき、その人が「なに人であるか」と考えるよりも、「何が必要なのか」を考えるほうが、ずっとたいせつだと私は思います。
生まれや育ちにとらわれず、性別、年齢、見た目、国籍など、お互いの環境をいかに多角的に想像しあえるかが、とても重要なことだと思います。
困っている人がいれば、助けあえばいいのです。
来日したての私たちに、日本のご近所さんたちがしてくれたように。
(略)
法律や社会のありかたは、時間をかけてだんだんと人に寄り添うかたちに変化していくものです。
しかし、その変化の過程で取り残されてしまう人がいることを忘れてはいけないと強く思います。
これは、日本で育った日本人にも無関係ではありません。(略)
一度踏み外したらリカバリーのきかない社会が変われば、多くの人が生きやすくなると思います。
「多様性を認める」とは、そのような社会をめざすということではないでしょうか。
「日本人らしい日本人」や「外国人らしい外国人」だけの時代はもう終わろうとしています。
私たちは、見た目や国籍を超えて、同じ社会でともに生きています。

私のふるさとも、ここ日本です。

最近、名古屋入管施設の幹部不起訴処分(6/17)、大阪地裁の同性婚訴訟判決(6/20)と立て続けに、「多様性を認める」社会とは逆方向の司法の判断が出て、また日本が嫌いになっている。
そんな中で『マイスモールランド』が上映館数を増やしているというのは嬉しいニュースだ。映画を観た人は、国の姿勢の理不尽には気がつくだろうし、外国の人への向き合い方について少しずつ認識が変わると思う。
マザーテレサは「もしあなたが100人の人に食料を与えることができないのなら、ただの1人の人に与えなさい」と言ったという。入管施設の問題を含む、日本の外国人政策全体は途轍もなく大きな話だが、川和田監督の映画は、自分にとっては大きなものになった。自分も作品の紹介や日常の会話の中で、同志を増やしていければと思った。

*1:その最高峰は主演女優4名が皆可愛く、間宮祥太郎のカッコよさも光る『殺さない彼と殺さない彼と死なない彼女』です。

*2:ラストシーンを思い返して「ここで終わるのかよ」という絶望感が胸いっぱいに広がる。一方で『家族を想うとき』を観たときより『マイスモールランド』を観たときの絶望感が自分にとって少ないのは、やはりまだクルド難民の問題を他人事として見ていることが原因なんだろうと思う。

軽い気持ちで読んだら歴史的名作でした~高木彬光『成吉思汗の秘密』


またもや『鎌倉殿』関連の読書。

『成吉思汗の秘密』というタイトルからは、昔流行した『人麻呂の暗号』を思い出すが、この本は名探偵が登場するタイプのミステリであることが大きな特徴だ。
それどころか、ここで登場する名探偵・神津恭介は、明智小五郎江戸川乱歩)、金田一耕助横溝正史)と並んで「日本三大名探偵」と称されるという。
それなのに、このトリッキーな内容。

兄・頼朝に追われ、あっけなく非業の死を遂げた、源義経。一方、成人し、出世するまでの生い立ちは謎に満ちた大陸の英雄・成吉思汗。病床の神津恭介が、義経=成吉思汗という大胆な仮説を証明するべく、一人二役の大トリックに挑む、歴史推理小説の傑作。

つまり、病床の名探偵が時間つぶしのために歴史的な謎に目を付け、アームチェア・ディテクティブならぬ、ベッド・ディテクティブ形式でストーリーが展開する。
全体を通して言えば、「義経=成吉思汗」説は、それなりに説得力のある内容になっていると納得して終わる。これはあらすじから想定した通りの内容なのだが、読後の満足度は想定していたものを大きく超えていた。
その理由は以下の通り。

構成が巧い

一人二役のトリックが成立するか否か」を調査の目的とし、まず二人の英雄が同時期の活動がないことを確認することからスタートする。

次に、源義経が、奥州衣川で戦死して「いない」ことを証明する。
この辺りは、源平の戦いから義経の人生のレビューになっているので、歴史のおさらいにもちょうど良い。ましてや、現在、『鎌倉殿の13人』『平家物語』『ギケイキ』などを集中的に履修中なので、少し触れる程度でも、しっかり思い出せてとても効率が良い。
さらに、「衣川」以降の義経が辿ったと思われる、宮古や八戸に、義経の史跡や地名がいくつもあることが示される。この辺りまで読むと、義経が衣川で死んでおらず、岩手県側から北に向かったのは事実ではないかと、どんどん説得されていく。(いわゆる北行伝承)
義経はその後、蝦夷地を経て、モンゴルに入ることになるが、そこら辺からは状況証拠の積み重ねになり、やや都合の良い事実の積み重ねっぽくはなる。
ただし、ここも、宋→元→明→清という中国史のレビュー等が入るので、気の利いた世界史の授業を受けている感じ。黄金で栄えた奥州藤原氏の「黄金」がどこから来たのかという話も、とても刺激的な内容だ。

反論がわかりやすい

全16章構成のこの本だが、10章から13章にかけて、神津恭介の友人の歴史学者によって徹底的に反論される。いわく、「義経=成吉思汗」説は、徳川時代から始まって、これまで4回繰り返されてきており、歴史学者にとっては「あり得ない話」であることが証明されているのだ、と。ここで、改めて論点を整理しながら、「伝説」が成立した歴史的沿革が説明される。
ここで面白いのは、今残っている歴史的文書や史跡がすべて正しいわけではない、という当たり前の事実。このあたりは、ストーリーとしての歴史の面白さとは別に、「歴史」とはどういうものかというメタ的な視点から歴史を楽しむことができる。

事実とのリンクが多い

読む前に全く想定していなかったが、この本がエキサイティングなのは、実際に起きたこととのリンクが比較的多く、単純なフィクションと言い切れない部分。

まず、そもそも「義経=成吉思汗」説に手を付けるきっかけとなったのは、1951年にイギリスで出版された実在の探偵小説『時の娘』にある。この本はベッド・ディテクティヴによる歴史ミステリでリチャード三世を題材にしている。ワトソン役の作家・松下研三が、それをヒントに、病床の神津恭介に提案したというのが物語の始まりて、松下研三は、「義経=成吉思汗」説のミステリ小説を『時の息子』というタイトルで出そうとしていた。

また、物語のラストである15章は、1957年に実際に起きたある事件を使って物語をうまくまとめている。実際、本をまとめるぞ!という時期に起きた事件とのことだから、作者自身あとがきに書いているが、運命的なものを感じたに違いない。

そして、15章までで出版されたこの本に対して、説を補強するような読み解きが作家の仁科東子(仁科美紀)から出されたことをきっかけに、16章が追加されている。16章は、神津恭介と直接話をするかたちで仁科東子自身が登場し、持論を展開するのだが、ここも非常に読みごたえがある。

さらに、全く別の面から興味深く感じるのは頻出する「今度の戦争」という表現だ。特に、この表現は、元寇の話のところで多く使われる。たとえばこんな風に。

ただ、この蒙古帝国との和戦の決は、たとえば今度の戦争で、米英両国に宣戦したような、国家の運命を賭ける決断だったのだろう。そういう大問題は、十八の青年が決断するには、あまりにも重大きわまる事柄だが…。
(略)でも、今度の戦争中に、歯の浮くようなお世辞をならびたてたごますり学者がいたでしょう。つまり元寇役では、敵が北からやって来たから、北条氏がこれを撃退した。今度は敵が東からやって来るのだから、東条氏がこれを守るのだと、まるで、ごろあわせのような議論をならべた人間がいたでしょう。

この本が出版された1958年当時は、終戦から13年。
ちょうど、今現在2022年から11年前の2011年の震災を思い出すのと同じようなスパンだ。この中で繰り出される「今度の戦争」論は、(集中して語られるのは元寇の部分だけだが)とても刺激的だった。

おまけが楽しい

本書には、あとがき2編と制作裏話的な「成吉思汗余話」。さらには「お忘れですか?モンゴルに渡った義経です」というタイトルで、高木彬光と成吉思汗の対談(!)が収められており、本書の推理の答え合わせがされている。
さらには、島田荘司の寄稿も良い。デビュー作にあたる『占星術殺人事件』で御手洗潔と石岡が後半にいたるまで室内を動かないままに物語が進行するのは、『成吉思汗の秘密』の影響が大きいというエピソードも、この作品の偉大さを感じさせる。
解説(推理小説研究科・山前譲)には、『成吉思汗の秘密』の江戸川乱歩評もあり、読む前は、『鎌倉殿の13人』つながりで読んでみるか、という軽い気持ちだった自分を責めたくなるほどだ。


名探偵神津恭介が歴史の謎に挑むシリーズは、このあと『邪馬台国の秘密』『古代天皇の秘密』があるというので、こちらも是非読んで、「日本三大名探偵」の活躍を味わいたい。
また、唐突だが、それらのテーマも含めて、星野之宣の「宗像教授」シリーズを読みたくなってきた。『宗像教授伝奇考』では元寇関連の話で、義経=成吉思汗伝説にも触れているとのこと。『宗像教授異考録』は完全に未読。
イロモノかと思ったら歴史的傑作に当たって大変満足しました。