Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

尋常じゃない「聡実くん」祭り~綾野剛・齋藤潤主演『カラオケ行こ!』


チラシを見たときから「これは、漫画そのままでは?」と思っていた。未読だったが、原作漫画の存在は知っており、和山やま作品も『夢中さ、きみに。』を読んだことがある。チラシの2人は漫画の2人にイメージ的にぴったりじゃないか。


実は初めて原作漫画を読んだのは映画を観に行った当日の朝。
頭の中に綾野剛と齋藤潤(岡聡実役)のイメージが入り込んでいたからかもしれないが、今思えば、その時点で、映画キャストに当てはめて漫画を読んでおり、すでに映画を観る前から漫画と映画が一体化していた。

そして実際に観てみると、映画の感想はとても独特で、何というか「聡実くん祭り」という感じ。途中から、彼がどんな表情、どんな声で「紅」を歌うのか?ということが気になって仕方なくなり、筋や映画のアレンジよりも、齋藤潤演じる岡聡実をひたすら観察するような映画体験となった。

映画独特の追加要素*1も、成田狂児よりも「聡実くん」を映えさせるものが多く、特に、岡部長への尊敬、妬み、軽蔑などがすべて顔に出る2年生の和田くんのキャラクターが最高だった。
映画を見る部の栗山くんと聡実くんの2人のビデオ鑑賞の様子は、むしろ漫画っぽいつくりで、何故これが原作に入っていないのか不思議なくらい。


そして、聡実くんと同じくらいfeatureされるのが『紅』。
そして、映画ならではのアレンジとして、イントロ部分の英語詞を日本語詞に変えたのもストーリーに深みを持たせているし、エンドロールの楽曲が『紅』になることは予想が出来ていたが、それが「合唱ver」であることまでは読めなかった。
このあたりはすべての改変が正解過ぎて驚くほど。
肝心の聡実くんの歌唱は、思ったより「普通」ではあったが、彼の魅力が倍増したのは間違いない。



しかし、この映画を観ることになったきっかけの最後の一押しは、実は、年末から集中放送を追っかけたドラマ『MIU404』。映画『カラオケ行こ!』には、『MIU404』の伊吹(綾野剛)、陣馬さん(橋本じゅん)が出ているだけでなく、何といっても脚本を野木亜紀子が手掛けている。
『MIU404』も『アンナチュラル』も、全エピソード好きなものばかりだったし、一番最近見た『MIU404』の最終回も、本当に良かった。その野木節が、どのように『映画行こ!』に反映されているかというと、何とも言えないが、場面転換のテンポの良さやギャグの切れに加えて、脚本ゆえなのか監督ゆえなのか分からないが、共通して俳優の演技を引き出した作品になっていると感じた。綾野剛は、2作品で雰囲気が全く違っていて、やっぱり役者ってすごい。
今年は、夏公開作品として、『MIU404』『アンナチュラル』と世界を共有する『ラストマイル』が待っている。これは本当に楽しみだ。
last-mile-movie.jp


そして、映画鑑賞後に、続編の『ファミレス行こ(上)』も読んだ。
これがまた、続編なのに独特な雰囲気を持った作品で、先が読めない中、最後に驚きの展開があって、下巻が待ちきれない。

和山やま作品は、『女の園の星』も未読で、1作品見ただけで、いろいろと宿題の増える映画でした。



*1:先生役の芳根京子も良かった!ピアノを実際に弾いているというのも驚きです。

植物状態の母との25年~朝比奈秋『植物少女』


「図書館で借りて読んだ」と書くと申し訳ない気がしてあえて書かないが、買って読む本より借りて読む本が多い。
予約貸し出しの場合、ほとんどの場合は、何故この本を予約したのかを思い出せない頃になって本が手元に届く。
そんな風にして、偶然、児玉真美『安楽死が合法の国で起こっていること』のあと、問題意識が継続しているタイミングで、この小説を読むことになったのは本当に良かった。

美桜が生まれた時からずっと母は植物状態でベッドに寝たきりだった。小学生の頃も大人になっても母に会いに病室へ行く。動いている母の姿は想像ができなかった。美桜の成長を通して、親子の関係性も変化していき──現役医師でもある著者が唯一無二の母と娘のあり方を描く。


物語は、主人公の美桜(みお)が子どもを抱っこして母親の葬儀の準備をする場面から始まり、母親との最初の記憶からこれまでを振り返っていく。
つまり「植物少女」というのは、一義的には主人公の「みお」のことを指すのだろう。
小学校低学年の頃のみおは、親戚や医者などが廊下でこっそり使っている酷い言葉を真似て、配属されたばかりの看護師に向かってこんなことを言ったりするのだった。

「ママな、植物人間やねんで」(略)
父や祖母の前では使えない言葉を披露する絶好の機会だと、
「人間としては死んでるようなもんやねんで。息してるだけ。何の意味もなく生きてるだけやねんで」
と聞いたことのある言葉を並べていった。
p28

このあたりの、罪悪感なく行ってしまう酷い言動は『こちらあみ子』を思い出すが、病室の隣のベッドの「首呼吸のお爺」(気管切開していて首に穴が開いている)へのいたずらが忘れられない。
チューブでの痰吸引を手伝ってあげたあとで、好奇心から首の穴に指を入れる場面だ。
翌日に高熱を出して、お爺は亡くなってしまうのだが、みおは気にしていないように見える。彼らには見舞いの客も来ず、悲しむ人もいない。病室を毎日の遊び場としているみおには、日常的な「死」だということなのかもしれない。


この頃のみおは、「母をいいように使った」のだという。

乾いて冷たい人形と違って、母の肉体には紛れもなく血が通っていて、普通の人間と同じだった。そのおかげで、時々こういった声が聞こえた気がした。人形遊びだと、時に話しかけることに虚しさを覚えたりしたが、生身の人形ではそんな気持ちにならなかった。
言ってほしかった言葉が聞こえると、母の右腕を担いで、わたしの肩を抱かせる。頭を母の首元に擦りつけているうちに、
「お父さんとおばあちゃんはなんで仲良くできないん?」
と自然とぽろぽろ涙が溢れてくる。すーっとカーテンが閉まる音がして、カーテンの端を握る吉田さんの手だけが見えた。そこからはたいてい、わたしは肩を震わせて泣いた。そして、最後に母のすっと伸びた指で涙を拭わせると、いつも気持ちがすっきりした。 
そうやってわたしは母をいいように使った。母が大好きだった。ここまで思い通りにさせてくれる人間は、わたしの周りに大人も子供も含めて誰一人いなかった。どんな話も遮らずに最後まで聞いてくれた。
閉じられたままの目も素敵だった。黒目がちなつぶらな瞳や知的でミステリアスな三白眼。目を瞑っている限り、母はどんな瞳にもなれた。
p20

「何か言葉をかけてきそうな感じ」
「話を聞いてもらっている感じ」
実際に、そこで情報のやり取りが出来ているかどうか、ではなく、受け手の一方的な思い込みだとしても、コミュニケーションとして、機能を果たしている。みおにとって母が必要な存在だったことがよくわかる。
想像しにくい状態だが、実際に会話ができる母を、みおは見たことがない。だから、何度本当のことを聞いても、みおの中では、母親は生まれたときから「植物状態」だったことになってしまう。(母親は出産時に脳出血を発症し、大脳のほとんどが壊死して植物状態になったのだ。)
これは、「祖母や父」が、昔の思い出と重ねて、こちらに話しかけてくる予感を持ち続けているのとは違う。
ただ、看護師さんにとっての「母」も、みおにとっての母と同じで、やはり元気だった昔の姿を知らない。
すると、みおに限らず、医師、看護師は、家族の頭の中にある「本来の(元気でいた頃の)患者」像と常に向き合う必要があるのだろう。(少なくとも、家族はそうしてくれることを望んでいる)

なお、「植物状態」というのは、点滴で栄養を取るのかと思っていたが、驚いたことに、みおの母親も、隣のベッドの「あっ君」も、食事は、スプーンを口に運び、食べさせている。唇に食べ物をあてれば舌や歯が動き、痛いことをしたら痛がる。時々目を開けることもある。みおの母親の場合は、開いた手に手を置けば握り返してくる。
登場する医者の説明では「単なる生理的な反射」なのだというが、そうだとしても、想像していたよりも、コミュニケーションの機会は多く、「植物状態」について少し具体的にイメージすることが出来た。


さて、みおは、そのような母親の状態をどう捉えていくのか。
小説の中で特に印象に残るのは、中学生になって陸上部に入ったみおが、堤防で走っていて、ランニングハイのような状態になり「気がつく」場面。少し長めに引用する。

頭が真っ白になって何も考えられなくなって、胸も空っぽになって何も思わなくなって、ただ呼吸だけが続く。
呼吸の底に力が集まってくる。
存在しているという確かな感覚。流れる景色の中でただそれだけを感じていると、不意に母の顔がサッと目の前をよぎった。 
「あっ」
自分の体につまずいて、動きの全てがちぐはぐになる。
すぐに歩きだし、やがて立ち止まってしまった。反動のように呼吸があがって、ぜぇぜぇと苦しくなる。わたしは膝に手を当てて、ただただ呼吸を続ける。
時おり体験するこの現象を、わたしはいつも摑みそこねていた。日常の軋轢や植物状態の母を持ったこと、そういったことのもっと奥にある、これは一体何なのか。

白んでいた頭に像を結べるようになって、ようやく自分が何につまずいたか、むずむずとわかりはじめる。


もしかして、母は・・・・・・


何も考えられない、何も思うことができない母は、もしかしたら、こんな生の連続に生きているのではないか。息だけをして生きる、この確かな実感の連続に居続けているなら。
すると、頭が思考を取り戻しはじめ、胸が熱くなってくる。
わたしは頭を振って夜気を胸に大きく吸いこんでから、息をぐっと抑えて姿勢をまっすぐ起こして無理やり走りだした。
振りだされる脚、揺れる肩甲骨、波打ちはじめる背骨。そんな感覚も、走るため、ただ一心に呼吸をするうちに、すぐに呼吸に溶けていく。頭も真っ白に、胸も空っぽになって、ただ呼吸そのものになる。呼吸がわたしの底に触れると、他はなんでもなくなる。ただ存在しているだけになる。とうとう息が上がって、わたしはのたうつように堤防に座りこんだ。砂利がお尻に食いこんでも、息を継ぐので精いっぱいで痛みも気にならない。

あぁ、間違いない・・・・・・間違いなかった・・・・・・ 

呼吸がゆったりしてくると、やがてわたしの底の存在感が全身にじんわりと広がっていく温泉に入ったみたいに、呼吸のリズムで喜びが染みていく。
もし、母が、呼吸以外、何もできない母が、こんな充実した今を生きているなら。


母はかわいそうじゃない
みじめじゃない
空っぽなんかじゃない


涙が自然と垂れてくる。
わたしもまた母のことを勘違いしていたのかもしれなかった。
p106-108

ここは一番好きな部分。
何度も何度も読み返したくなるような表現。
勿論、それが本当のことかどうかでなく、そういった見方が生まれたこと自体に意味がある。こういった「悟り」は、みお1人ではなく、母親がいたから、母親とのコミュニケーションがあったから辿り着けた場所だ。
児玉真美『安楽死が合法の国で起こっていること』の感想を書いた時に引用した部分を思い出す。
「相互性」という言葉は、自分にとっては耳慣れないものだったが、言葉通り、相互に影響を与え合っているということだろう。『植物少女』を読めば、みおは、間違いなく、植物状態の母親と相互に影響し合い「対話」を続けていたことがわかる。

私たちの気持ちや思いや意思が生起したり形を変える場所は、きっと「自分」という閉じられた内部というよりも、たぶん「誰か」と「私」との間なのではないか。人は常に自分自身とも対話を続けているものだから、その「他者」の中には「自分自身」も含まれているだろう。私が自分自身を含めた他者と出会い関係を切り結んでいるところ。自分を含めた他者とのやりとりを鏡にして私が私自身と新たに出会うところ。そこで、感情も思いも意思も形作られては、常にまた形を変えていく―。私たちが関係性とその相互性の中で生きる社会的関係的な存在だというのは、きっとそういうことなのだと思う。

それならば医療もまた、目の前で病み苦しむ人との関係性と相互性を引き受けることによってしか、患者を真に救うことはできないのではないだろうか。

児玉真美『安楽死が合法の国で起こっていること』p246


そんな母親との時間も、母の死によって終わりを迎える。
いや、厳密には、死後少し経ってから「終わり」が生じる。
お通夜が終わり、明日の葬儀に向けて父と話をしているタイミングで、「終わり」が突然現れる、この場面は、心霊的な要素も含むが、人の「死」の受け止めについてのリアルを感じた。

「こんな話しかけられたん、久しぶりやろ」
平日のお通夜で訪れた人は少なかったが、それでも母を知る人間がこんなにも訪れたことはなかった。
「みんな、驚いてたなぁ」
棺の母をのぞいたその瞬間だった。
母の背中からすっと影が消えていったように見えた。目を瞬かせると、影はやはりあった。しかし、ずっと感じていた、そして、亡くなった後もあった存在感が母の体からなくなっていた。
足腰の力がふっと抜けて、たまらず棺にもたれかかった。それでも上体がぐらついてどうしようもなく、わたしは上体を預けて棺に覆いかぶさった。
「大丈夫か」
父に腰を支えられて、ようやく体に力が戻ってくる。 
「どうしたんや」
父は訝し気に眉をひそめる。
「うぅん」
わたしは首を横に向けて母の顔を眺めた。そして、確信と共に首を左右に振った。
「お母さん、おらんくなった」
すると、
「うん?」
父は身を乗りだして、真正面から母を凝視する。しばらくしてから、父は身を引いて、後ずさりしていすに座りこんだ。
「あぁ、おらん。どっかいってもうた」
口を半開きにして呟く。
「せっかく、元に戻ったのに」
父は呆然となって、無表情の顔に涙を流しだした。


上に使った言葉に繋げるのならば、ここまでは存在した「相互性」が消えたということなのだろう。
医学的な「死」とは、そのタイミングがずれるというのは、感覚的には分かるし、きっとそうだろうと思えてきた。


小説は、最後に、25歳のみおが、小学生のときに毎日顔を見て、まだ病室にいるお爺やお婆のことを思い返して終える。このフィードバックを見るにつけ、亡くなった母親だけでなく、彼らも、「相互性」の輪の中に入っているといえるのかもしれない。

彼らは今もあそこで座って呼吸を続けている。そのことを思いだすと、わたしは目を閉じて一息一息呼吸する。すると、自分もまた呼吸をして生きていることが実感されるのだった。


人の「生」と「死」は難しい。
難しいが、考える価値があるテーマだと改めて思った。
朝比奈秋の名前を検索すると、『植物少女』で三島由紀夫賞を受賞したときの記事が見つかった。(筆名から女性を想像していたが、男性だった)
www.m3.com

病棟実習で植物状態の方を介助する中で、むしゃむしゃと食事する様子に衝撃を受けたくだりなど、小説で伝わってくる内容は、作者の実感がベースになっていることがよくわかる。
医師で作家の方は他にも何人もいるが、テーマ設定が自分の感性に合うように感じたので、最新作で、第45回野間文芸新人賞を受賞した『あなたの燃える左手で』など、他の作品も読んでみたい。(この受賞の仕方を見ると、次作あたりで芥川賞の候補になる流れだろうか*1

「死にたい」という人を死なせてあげていいのか?~児玉真美『安楽死が合法の国で起こっていること』

昨年、興味はあったのに見逃した映画のひとつに『PLAN75』がある。
少子高齢化が一層進んだ近い将来の日本で、満75歳から生死の選択権を与える制度<プラン75>が国会で可決・施行されたら?という内容だ。

happinet-phantom.com


この『安楽死が合法の国で起こっていること』の序文では、この映画(2023)に加えて、相模原障害者施設殺傷事件(2016年7月)の植松聖の発言、直後の橋田壽賀子安楽死で死なせてください』(2017)、NHKスペシャルでのスイスでの医師幇助自殺の密着取材(2019年6月)、京都ALS嘱託殺人事件(2019年11月)が取り上げられている。

こういった、さまざまな事件や話題の中で、いわゆる安楽死と言われるものをどう考えるかについて問われる機会の多い中、自分なりの考えを持たないままでいた。ひろゆきや成田悠輔などネット著名人から定期的に出てくる「高齢者の死」についての発言についても、直感的に「酷い」と断じるだけで、何に対して酷いと感じているのかを十分に言語化できていなかった。

そんな自分にとってこの本は、まさに「今読むべき本」だっただけでなく、議論の抜けが無いように思えるほど、本当に読み応えのあった新書で、今回、感想のあと、内容の要点メモを残したが、結果的にそちらがメインの文章となった。

雑感

本書の前半(第一部、第二部)では、タイトル通り海外事例を参考に、安楽死を合法化すれば、線引きをどのように決めても、引かれた線は動いていく(対象範囲が拡大していく)という「すべり坂」の問題が語られる。

この中で、患者、家族、医療職という複数の観点からの問題の見え方が説明されるが、全く予想外だったのが、移植医療の立場から見た「死」という観点。この中で安楽死のような「予定された死」は、「有益な臓器ドナー・プール」として強く望まれていることを知り衝撃を受けた。

また、後半(第三部)では、日本で安楽死の議論を進めることのリスクが語られるが、ここで言われる日本型「自己決定」は、退職や退学など死と関係のないところでも見られるもので、欧米方式を日本に輸入する際に常に考えておくべきポイントに気づかされた。

全体を通して、誰かが「死にたい」と言ったときに、それに対してどう向き合うか、ということについても考えさせられる本だった。


なお、後半になるにつれて、重い障害のある娘の親でありケアラーとしての立場での言葉が語られるようになるが、それもあって終盤は、読者としてもより熱を入れて読むことができた。
ただし、この本は医療の側に非常に多くのものを求めている。コロナ禍では、激務を苦に自殺に追い込まれた医師もいたことを考えると、患者をどうサポートするのか、という視点と同様に、医師をどうサポートするのか、という視点が必要になってくるのだと思う。


以降では、本書の要約(個人的メモ)を示すが、その前に、少し長い文章を引用しておきたい。

まず、医療において重要になってくる「意思」表示の「意思」についての文章。
「思い」「考え」「意思」は個人の中で練られたものが確定的に発せられるものではなく、他者(自分を含む)との「関係性」と「相互性」の中で形を変えていく、という指摘は、男女関係はもちろん一般的な人間関係の中でも同じことが言えるだろう。ここで「関係性」と切り分けて「相互性」ということが指摘されているのが興味深い。

私たちの気持ちや思いや意思が生起したり形を変える場所は、きっと「自分」という閉じられた内部というよりも、たぶん「誰か」と「私」との間なのではないか。人は常に自分自身とも対話を続けているものだから、その「他者」の中には「自分自身」も含まれているだろう。私が自分自身を含めた他者と出会い関係を切り結んでいるところ。自分を含めた他者とのやりとりを鏡にして私が私自身と新たに出会うところ。そこで、感情も思いも意思も形作られては、常にまた形を変えていく―。私たちが関係性とその相互性の中で生きる社会的関係的な存在だというのは、きっとそういうことなのだと思う。

それならば医療もまた、目の前で病み苦しむ人との関係性と相互性を引き受けることによってしか、患者を真に救うことはできないのではないだろうか。 p246


もう一つは、以下。
あらゆる社会問題で、苦しい立場の人たちが「言える言葉」が、それを言うように誘導されているとしたら本当にグロテスクだが、当事者としてはその一面があるということだ。その中で「議論を始める」として優先すべきことは何か。一番大切なことを改めて教えてくれる本だった。

でも、だからこそ….....と思う。私たち障害のある子をもつ親たちのように、この社会で 声を上げにくくされてきた様々な立場の人たちがいるからこそ、そういう人たちの声が封じられることに、ひとりひとりが力を尽くして抗わなければいけないのではないか、と思う。今この時に死にたいほど苦しんでいる人たちは声を上げる余裕すらない人たちだからこそ、少しでも声を上げられるところにいる人が自分にできる限りの勇気と力を振り絞って、声を張るしかないのではないか。そうでなければ、声を上げる余裕がないほど苦しいところに身を置く人たちが言える言葉、聞いてもらえる言葉が「もう死にたい」だけにされていってしまう。家族も何も言えずに「殺させられる」しかなくなってしまう。p270

序章 「安楽死」について

  • (本書での)言葉の定義
    • 尊厳死(日本でいう尊厳死):消極的安楽死=治療の不開始と中止。※日本では終末期医療において日常的に行われている。
    • 安楽死:①積極的安楽死=医師が薬物を注射して患者を死なせる。②医師幇助自殺=死を引き起こす最後の決定的な行為(薬物を飲む、点滴のストッパーを外す等)は患者自身が行う。※現在の日本では違法。
  • 海外で制度化された「安楽死」に共通した前提は、(1)意思決定能力のある人本人の自由な意思決定による、(2)所定の手続きを踏み・所定の基準を満たしたとして承認された人だけを対象、(3)所定の手順に沿って医療職から提供される手段による

第一部 安楽死が合法化された国で起こっていること(1~2章)

第一章 安楽死「先進国」の実状

  • 安楽死が合法化されているのは、2007年3か所→2016年末11か所→2023年5月22か所で増加が加速している。(医師幇助自殺のみを合法化している国と、積極的安楽死も合法としている国がある)
  • スイスは自殺幇助が違法とされず、自殺幇助機関が複数存在し、外国人の「自殺ツーリズム」を受け入れる機関もある。
  • オランダ、ベルギーは世界で最も早く積極的安楽死を合法化した国で要件緩和が進む懸念がある。
  • カナダは安楽死の合法化は2016年で後発だが、進み過ぎて問題の多い「先進国」

第二章 気がかりな「すべり坂」

  • すべり坂:一歩足を滑らせたら最後、どこまでも歯止めなく転がり落ちていくイメージ。安楽死をめぐる議論では主に、いったん合法化されれば対象者が歯止めなく広がっていくことを指す。
  • 1 緩和ケアとの混同
    • 生を改善するための緩和ケアと、死を与えて生を終わらせる安楽死は異なる。
    • 安楽死を望む人は「生きるより死ぬ方がよいと言っているわけではなく、この状況下で生きているよりも死んだほうが良いと言っている」のであり、身体的、精神的苦痛の症状に対して(緩和ケアでの対応がまず第一であり)、安楽死が唯一の解決策となるのはおかしい
  • 2 対象者の拡大と指標の変化
    • 対象者が、終末期の人から認知症患者、難病患者、重度障害者、精神/知的/発達障害者、高齢者、病気の子どもへ拡がっている
    • 「オランダの安楽死は、ひどい苦痛を回避するための最後の手段から、ひどい人生を回避するための方法となってしまった」(オランダの生命倫理学者テオ・ボウア)
    • 安楽死の対象者が終末期の人から障害のある人へと拡大していくにつれ、安楽死が容認されるための指標が「救命できるかどうか」から「QOLの低さ」へと変質してきた
    • 安楽死をめぐる議論がそれに影響を受けると「一定の障害があって、QOLが低い生には尊厳がない」「他者のケアに依存して生きることには尊厳がない」という価値観、さらには「そういう状態は生きるに値しない」といった価値観が広がり、「すべり坂」を引き起こす
  • 3 「死ぬ権利」という考え方に潜む「すべり坂」
    • オレゴンでは医師幇助自殺が可能なのに、カリフォルニアではできないのは権利の侵害」「自国で合法化されていないためにスイスまで行かなければならないのは権利の侵害」という物言いにより、「すべり坂」が加速していく
  • 4 日常化に潜む「すべり坂」
    • 安楽死に慣れて機械的な思考に陥った医療職は簡単に自分たちの方から安楽死を持ち出す(医師側から持ち出すのは違法)
    • さらに「安楽死の些末化」が進んだ現場では、医師の勝手な判断でモルヒネの量を増やして患者を死なせる行為までが生じている。
  • 5 崩れていく「自己決定」原則
    • 認知症や精神/発達/知的障害の人の意志確認は困難にもかかわらず安楽死が行われ、裁判になっても、医師が法的責任を問われないケースが複数出ている。
    • 「大人には認められているのに、同じように耐えがたい苦痛があっても子どもだと言うだけで認められないのは人権侵害」という論理により、ベルギーでは2014年に子どもの安楽死を合法化、オランダも追随
    • もともと周囲とのコミュニケーションに齟齬が生じやすい意思決定弱者を「護る」べく、慎重に法制度がつくられてきたはずなのに、なし崩し的に「護るべき対象」から「死なせてあげるべき対象」へと変わっていく
  • 6 社会保障費削減策としての安楽死
    • カナダでは2016年の安楽死合法化による医療費削減は8690万ドル、審議中の要件緩和でさらに1億4900万ドルの削減が見込まれるとされる。
    • 社会からの経済的な要請の圧がかかった終末医療の現場では、安楽死は医療職から効率的にかつ非合法に提案されている。
    • 政治と医療が犯してきた人権侵害としてナチスによる障害者の安楽死がある。それは「強制」で、今の安楽死は「自己決定」によるものだから別物、とは(「自己決定」原則が崩れてきている現状では)言い切れない。
  • 7 安楽死後臓器提供・臓器提供安楽死
    • 移植医療においては、ドナーが死んでいない限り臓器を摘出してはならない(デッド・ドナー・ルール)
    • このルールに従うと臓器の痛みが避けられない。しかし、臓器提供安楽死なら生きた状態で摘出するので臓器が痛まない。
    • 安楽死後臓器提供は、ベルギーでは2005年、オランダでは2012年、カナダでは2016年、スペインでは2021年から行われている。安楽死と臓器提供の意思確認はそれぞれ独立して行われる。

第二部 「無益な治療」論により起こっていること(3~4章)

第三章 「無益な治療」論

  • 1 テキサスの通称「無益な治療」法
    • 患者本人や家族が治療の続行を望んでいたとしても、「医師の判断」で治療を差し控えたり中止したりすることができる、という立場に立つ議論を本書では「無益な治療(futile treatment)」論と呼ぶ
    • 米国テキサス州のテキサス事前指示法(TADA)など米国・カナダで類似の法律が広がりを見せているが、患者家族サイドからの抵抗で訴訟が多発している。
  • 2 「無益な治療」論の「すべり坂」
    • 対象者が拡大し、また、医療現場の「無益な治療」論が患者を治療放棄へと誘導し、患者の「自己決定」がなし崩しにされていくリスクがある
    • 医療経済学によるQOLの数値化:従来、医療行為の費用対効果で用いられた「寿命」そのものではなく、障害のある期間を割り引く形(例えば目の見えない人はそうでない人の60%など)で数値化しようとする試み
    • 近年広まっている「健康寿命」という言葉には、「障害があって介護を必要とする状態は健康とは言えない」という価値観が潜んでいる:QOLの数値化の考え方と同じ
    • 「質的無益」論の人間観:治療は「効果」だけではなく「利益」をあたえなければならない→「利益」を感じることのできない患者には治療は無益だと主張する
    • 「人間である」ことに必要な特性を医師側が決め、医師の価値観次第で「その人が生きるか死ぬかが決定される」
    • 医師による一方的なDNR(Do Not Resuscititate:蘇生不要)指示は、終末期患者以外にも日本でも行われており、その適用範囲が拡大していく可能性がある。
  • 3「無益な治療」論と臓器移植の繋がり
    • 移植医療の世界は、あたかも臓器が必要な患者に行き渡るべきものであるかのように、常に「臓器不足」解消を喫緊の課題として訴え続けてきた
    • 重い障害のために自分の意思を表明できない人たちは今や「有益な臓器ドナー・プール」と目されている。
    • 1960年代以前は「心臓死」後の臓器提供 DCD:Donation after Cardiac Death
    • 1970年代以降は「脳死*1者からの臓器提供 DBD:Donation after Brain Death
    • つまり、DCDよりも新鮮な状態で臓器を採取できるようにしたのがDBD
    • 1990年代に復活したDCDは、脳死に至っていない患者から人工呼吸器を取り外すなどして人為的に心停止に至らしめて、拍動が戻らないことを確認してから臓器を摘出する(人為的DCD)
    • この話が「無益な治療」論と結びつくと、医師が臓器摘出のために死を早めることに繋がる

第四章 コロナ禍で拡散した「無益な患者」論

  • 1 コロナ禍でのトリアージをめぐる議論
    • トリアージで治療優先度が低いとして医療資源の分配の対象外になるのは、結果的には高齢者や重度障害者、つまり「無益な治療」論の対象となった「QOLが低い」人たち
  • 2 コロナ禍が炙り出した医療現場の差別
    • コロナ禍以前から存在する「迷惑な患者」問題:障害のある人たちが医療から疎外されている問題
    • コロナ禍で「合理的配慮」が特に軽視された。コミュニケーションがとりにくい人たちにとっての厳格な面会禁止、付き添い禁止は命に直結。

第三部 苦しみ揺らぐ人と家族に医療が寄り添うということ(5~6章)

第五章 重い障害のある人の親の体験から医療職との「溝」を考える

  • 1 医師-患者関係を考える
    • 医療の世界に特有のものの見方、考え方、価値観や慣例、そこに含まれる偏向が医師-患者の間に「溝」を作る
  • 2 医療職と患者・家族の意識のギャップ
    • 患者と家族にとっては「生活」>「医療」。それが医療職では逆転し、医療が圧倒的に優先される。
    • 専門性とは狭い範囲に詳しいことなのに、その狭さを自覚できていない医療職が多い。医療や福祉が本当に家族のために機能するためには、いくつもの種類の専門性を持った人が必要。
    • 目の前の患者の医療をどうするかという問題は、医師にとっては「今という時点」において「医学的な正解は何か」という問題。患者や家族にとっては、これまでとこれからの生き方を含む「人生」の問題なので「正解」を示されても、そこに素直にしたがえない。
    • 親たちが立ちすくみを乗り越えて意思決定に向き合うことができるために必要なのは「正しい」情報の提供や、「正解」へと誘導する「説得」でもなく、「正しいのはどっちか」という問いを「なぜ?」へと転じること。
    • 家族が自分で気持ちを整理していくプロセスには、専門職から見たら明らかに間違っている発想があったとしても、それをすぐに指摘したり訂正するのでなく、共感的に聞いてくれる人が必要。
    • 「なぜ?」という問い、「共感」のまなざしが、医療職を「判定者」ではなく「伴走者」に変える。
  • 3 日本の医療に潜むリスク
    • 日本で安楽死が合法化されることは、欧米以上にリスクが大きい
    • 欧米では、医師の決定権と患者の自己決定権とは対立を含んだ緊張関係にあるが、日本では医師の権威が大き過ぎて、「患者の権利」そのものへの意識が希薄。
    • インフォームド・コンセント」は元々、患者の権利擁護と自己決定権の保障という理念を背負って生まれた概念だったが、日本の医療現場に持ち込まれると、単なるアリバイ作りの「手続き」と化してしまった。
    • 日本の医療においては「患者の自己決定」という言葉と概念は「患者の意思の尊重」という表現に置き換えられており、「患者が決める」ことは「医療職の我々が患者の意思を尊重してあげる」ことへと主体がすり替わっている。
    • 日本病院会倫理委員会の「尊厳死」への考察も、医師が患者を選別して「死を与える」、つまり「無益な治療」論の文脈で行われている。
    • 日本の医師は患者に権利の放棄を説き、日本の高齢者の多くは、それに忖度して最初から治療放棄を口にする。
    • 『PLAN75』の早川千絵監督「誰がやっているのか顔が見えない中でひとりひとりの尊厳が奪われていく」「『選んで』いるわけではないけど、そっちに流されていく」→日本型「自己決定」の本質
    • 「人生会議」と称されて行政の肝煎りで強力に推進されているACP(アドバンス・ケア・プラニング)も、患者に治療を諦めさせる誘導とアリバイの手続きに化す可能性が大きい
    • 日本で「死ぬ権利」が喧伝された場合、「患者の自己決定」や「意思決定支援」を偽装した日本型「無益な治療」論がステルスで進行していく。いや、公立福生病院事件を見ると、すでに進行している。

第六章 安楽死の議論における家族を考える

  • 1 家族による「自殺幇助」への寛容という「すべり坂」
    • 多くの国で家族ケアラーが介護している相手を死なせる行為に対して司法がどんどん寛容になっていくように思える
    • 家族や友人にも目を向けることは、安楽死の議論で「自己決定する個人」から「関係性を生きる者としての人間」へとまなざしを深めること
  • 2 家族に依存する日本の福祉
    • 日本で安楽死を合法化することのリスクが欧米以上に大きいと考える理由のひとつは「家族規範が強く、家族を優先して個としての自分の生き方を貫きにくい文化特性」
    • ほとんどの高齢者が「家族に迷惑をかけたくない」と考える日本において、終末期を意識すると、本人、家族、専門職までが「家族のために」を織り込んだ上での「本人の医師」により様々な選択がなされる
    • 「地域移行」「共生社会」「ノーマライゼーション」といった美名のもとに、国の方針で施設は増えない一方、地域生活を支える支援制度はむしろ空洞化し始めている。
    • 「地域移行」の受け皿として期待されていたはずのグループホーム(GH)でも、付き添いが家族に義務付けられるなど、家族依存のGH生活となっている。一方、重度者を受け入れるGHはほとんどなく、親たちが年齢相応に不調を抱えたまま自分が介護を担い続けざるを得ない(老障介護)
    • 制度が変わるたびに高齢者と障害者は医療も福祉もじわじわと奪われてきている日本では、「死ぬ/死なせる」へと人を導いて「家族に殺させる社会」は、とっくに現実となっている。
  • 3 苦しみ揺らぐ人に寄り添う
    • 患者の主観的苦しみ:未知の体験に臨む不安、体の内部が無防備に外界と繋がることの恐怖、その状態に長時間耐え続ける辛さ、そのような重大な病に見舞われた情けなさ、それらを傍で共にしてくれる人がいない心細さなどは、状況により身体的痛みを増幅させ、蓄積される
    • 患者の「死にたい」という言葉を額面通りに受け止めて死なせてあげようとする態度は「理解」ではない。その固有の苦しみのリアリティを理解しようとすることが、あるべき緩和ケアに必要。
    • 医療職の苦しみとそこに潜むリスク:改善の見込みを示せないとき、安楽死は患者を排除することによって医療職の苦しみを排除する。医師の権威を取り戻してくれるように見える。
  • 4 苦しみ揺らぐ人の痛みを引き受ける
    • ケアする家族が、そして医療職が、自分の無力という痛みに耐えてかたわらに留まり続けるとは、そこに愛があり、祈りがあるということ

終章 「大きな絵」を見据えつつ「小さな物語」を分かち合う

  • この問題は「あまりに苦しいから死にたいという人は死なせてあげてよいかどうか」「自分は一定の状態になったら死なせてほしいかどうか」といった、個々の人のレベルの議論で終わらせず、「世界では実際に何が起きているのか」「世の中はどこへ向かって行こうとしているか」といった「大きな絵」を掴む必要がある。
  • 大きな議論だけで終わったのでは、現に苦しんでいる個々が置き去りにされてしまう懸念があり、個々の人が生きている「小さな物語」にも耳を傾けなければならない
  • 近年広がる「議論はあってもいい」「日本でも議論を始めるべきだ」と力を籠める人たちが言っている「始めるべき議論」とは「日本でも安楽死を合法化することを前提とした議論」でしかないので、やめた方が良い。
  • 「終末期の人には安楽死を認めるべきか」ではなく、問題を「終末期の人の痛み苦しみに対して何ができるか」へと設定し直すべきだ。患者は痛みに耐えているのではなく、痛みを訴えても聞く耳を持ってくれない医師に耐えているのだ。

*1:知らなかったが、脳死者の中には脳幹が生きている場合があり、脳死概念は科学的には誤りであるのだという:p143

前澤友作の世界平和の語り方~『僕が宇宙に行った理由』


映画を見るときにネタバレを避けるためレビューは読まないが、映画.comやFilmarksで、どの程度の人が観て、★5つを満点として何点くらいついているのか?というのはどうしても気にしてしまう。
本作『僕が宇宙に行った理由』は、『プペル』のように「信者」的なファンが付いているわけでもない中、両サイトで異常に高い点数が出ており、逆に興味を惹かれて2024年最初に観に行こうと決めた映画だ。


確かに、ZOZOTOWN前澤友作氏が、大枚をはたいて宇宙旅行に行ったことは知っていた。しかし、そもそも自分は、前澤氏のことを、「一億円を配るほど、お金が余っているお金持ち」という程度にしか認識しておらず、この題材で映画が作れる、ということ自体に驚いた。

  • 90分の映画で何を見せてくれるのか?
  • そもそも宇宙に行くのはどの程度大変なことなのか?
  • 前澤氏への印象が大きく変わるような何かが、そこにはあるのか?
  • 「僕が宇宙に行った理由」は何なのか?

鑑賞ポイントはいくらでもあり、民間人の宇宙旅行への参加、ということ自体、すべてが未知なので、「全然面白くなかった」という感想は生まれようがない。「意外に面白かった」という感想になるに違いない!と事前に想定していた。


感想

まず、映画全体から感じた前澤氏の印象だが、誰とでも壁を作らず接するタイプで、多くの人から好かれる人。
両親のインタビュー映像では、その生い立ちが語られ、直近までの簡単な紹介もあった。バンド活動→商業デビュー→CD等の通信販売→洋服の通信販売、という流れで、ZOZOに繋がっている、というのは知らなかった。
ロスコスモス(ロシアのNASA)関係者から非常に高い信頼を受けていることも、ソユーズ船長の語り口から伝わってきた。


さて、ソユーズで宇宙(ISS)に行ったのは2021年12月で2年前だが、映画は2015年7月のソユーズの打ち上げ見学から始まる。(この時点で、前澤氏のISS行きは決定しているのだが、そのタイミングや費用は公開されていないようだ)


初めて知ることばかりだったのは、実際の打ち上げまでのメディカルチェックや訓練。
まず、「誰が宇宙に行くか」という基本部分だが、宇宙に行くのは前澤氏だけでなく、この映画の監督をしている平野陽三(ZOZOTOWN時代からの前澤氏の同僚)も、という事実、つまり、この映画自体、自身が宇宙に行った監督のカメラ映像によるものであることに驚いた。(実際には船長としてロスコスモス宇宙飛行士のミシュルキン氏を加えた3名でソユーズに乗る)
さらに何か起きたときのバックアップクルーとして小木曽詢氏が入り、前澤、平野、小木曽の3名がセットでメディカルチェックや訓練に取り組む。メディカルチェックでは全員再検査となり、平野監督は親知らずを含む5本を抜歯、小木曽氏は副鼻腔炎の手術をすることになり、ここだけでも、宇宙旅行はハードルが高いと実感した。
訓練は座学+トレーニングで、そこまでのハードワークではないように感じたが、ソユーズISSでの機器操作は命に直結する内容なので真剣さが段違いだろう。
なお、訓練は通常は6か月実施するところを3か月という時間制約があったという。無重力訓練(人工的に作り出せる25秒?の短時間の無重力の時間内で、宇宙服の脱着等を行う)などが上手く出来ないままに期限が迫ってきたら怖いなとも思った。


映画の見せ場は何といっても宇宙に行ってからの映像の数々だ。
まずは、打ち上げ前の会見、移動、乗り込み、カウントダウン…
これらを経てひと通りの恐怖を感じてから見る打ち上げの光景(ソユーズの場合、一般客は、打ち上げ地点から2.5㎞離れたところから見るのだという)は、(もちろん成功することが分かって観ているのだが)無事に打ちあがったというそれだけで涙が溢れてくる。


その後ISSに行くまでの、激狭空間での6時間を経てISSとのドッキング。
ISS内での12日間は、ロシアだけでなく他の国の宇宙飛行士もいて、まさにそこには、前澤氏が繰り返すような「国境のないピースフルな空間」が達成できているようにも見え、そこにも素直に感動できる。


そして帰還。
訓練風景では、森の中に不時着した場合を想定してのサバイバル訓練も行っていたが、無事、上空から位置が確認しやすい砂漠に着陸。映像を見ると、発射時の大きさと比べてとても小さいサイズと、高温に耐えた赤茶に焦げた機体に、科学技術の凄さを感じる。


なお、ISS滞在中は生放送での実験やインタビューが目白押しだったが、「前澤さんは宇宙に来て考え方が変わりましたか」と何度も聞かれてうんざりしたという。確かにその通りではあり、前澤氏は、常に何かにチャレンジしていたい性格で、宇宙に行ったのも半ばそれが理由で、何か悟りを得るために宇宙に行ったわけではない。これについては後ほど触れる。


さて、この映画は、挑戦することの大切さと、夢をかなえることの実例(最高レベルの!)を教えてくれるが、前澤氏が伝えたかったことは他にもあり、帰還後のインタビューで語られている。


それは、NO WARということ。
2021年12月のフライトから2か月後に、ロシア軍のウクライナ侵攻が始まっており、映画はそのことにも触れる。その上で、前澤氏が平和について考えるきっかけとなった9.11の現場であるワールドトレードセンター跡地で前澤氏はインタビューに答え、映画は終わる。


90分間という短時間で、3か月の訓練とISSに行って帰って来る疑似体験ができるエンターテインメント、そして戦争について地球を俯瞰して考えられる映画として観た場合、この映画の「コスパ」は非常に高い。日本PTA全国協議会の推薦作品に選ばれるのも納得だ。
挑戦する気持ちを後押ししてくれる内容でもあり、年の最初に観に行く映画としては、大正解だった。

…と思ったのですが...。


前澤氏への苦言

年末に見た『PERFECT DAYS』のプロデューサーである柳井康治氏への違和感と同様、同じ世代の「大人」として、モノ申してしまいたくなる部分がどうしてもある。(前澤氏は1975年生まれで、自分と1歳違い)
それは、世界平和の語り方だ。
まず大前提として、前澤氏が「NO WAR」のメッセージを声高に掲げること、これを「子どもっぽい」と非難したいわけではない。
メッセージ自体は気恥ずかしくはあるが、いい大人がそんなこと言って、むしろ「カッコいい」と思う。
しかし、十分に考えた上での「NO WAR」であってほしい。


彼は、2011年の9.11(アメリカ同時多発テロ事件)をきっかけに世界平和に興味を持ち、いろいろと勉強した、と言う。
その上でのISS上でのインタビューで次のように発言している。(大意)

宇宙から眺めると、地球は本当にシンプル。国境はなく、ただ陸があり海があり、海からの水蒸気が雲になり、それが繰り返されている ・・・(発言①)
世界の偉い人たちがISSに来て、ここから地球を眺めれば、戦争なんかやめようと思うだろう ・・・(発言②)

さらに、映画ラストでのニューヨークでのインタビューでは次のように言う。(大意)

ISSでは大それたことを言っていたけど、
地球に戻って(ウクライナの問題など)色々なことがあって
もっと身近な人を助けよう、という考え方に少し変わった ・・・(発言③)

このように若干修正をしている。確かにこちらの方が地に足の着いた発言ではある。


しかし、これらの発言を見て、果たしてこの人はこれまで平和のことをどれほど真剣に考えてきたのかな、と疑問が湧いた。


まず発言②は、「世界の偉い人」の采配で戦争をするかしないかが決まっているかのような発言だが、無責任ではないだろうか。
どこの国も好戦的な一部(もしくは多数)の国民(「極右」という括られ方をすることが多い)の後押しを受けて戦争が始まる。最後に指揮を振るのは「偉い人」なのかもしれないが、その空気を作るのは国民だろう。そして民主主義国であれば「偉い人」を決める(直接、間接など手法に違いはあれ)のも国民である。政治に自分は関心がなく、すべてを「偉い人」に任せているから、あとは知りません、というような口ぶりは同い年の大人としてどうしても気になる。
また、自身が「宇宙に来ても特に考え方が変わるわけではない」と言ったその口で「偉い人」の考え方が変わる、と話す矛盾に気がつかないのだろうか?とも思う。


そして発言③。
「世界ではなく、身の回りを」という言葉は、実際にウクライナ侵攻が始まってみてから「世界平和ってそんな簡単には行かない」ことを理解して、発言を軌道修正した形だが、戦争が起きている現状から目を背けるようにして「身の回り」に逃げているようにも感じた。
しかし、ウクライナの戦争を見ても、「身近な人を亡くしたその敵討ちのために相手国を憎む」という連鎖が、長く続く戦争の大きな原因のひとつであることに気がつくはず。親や子ども、友人を大切に思う気持ちと、戦争状態は密接につながっている。「身の回り」は、逃げ場にはならない。
日頃から世界平和について考えている、という割には、今戦争状態にある国の人たちが日々何を考えているか想像したことがないのではないだろうか。
映画中の発言やパンフ記載のインタビューからは、こうしたことを考えた形跡が見られないので、どうしても不信感を抱いてしまう。
「NO WAR」を唱えるのは、勉強して絶望して、勉強して絶望して…と繰り返し絶望してからにしてほしいと思う。単なる無知、無関心からの「NO WAR」は小学生と変わらない。


そして発言①。
前澤氏は船長や関係者からもリスペクトを受けていたが、それは人の良さに加えて、目的に向かってシンプルに努力できる人、つまり余計な思考は全てカットできる人だからだと思う。
例えば、「自分が死んだら?大きな病気にかかったら?」という不安や悩みさえ、無駄な思考として完全にカットできる人なのではないか。
極端に実務的に頭が働き、手が動き、労を惜しまず、人的管理に長けた人だからこそ、成功できる。が、関心のない人・物に思考のリソースを割かない。
寄付や支援活動は多いようだが、これも、1億円を配る(今年の年初もあったそうだが)のと同じで、「自分のお金で喜ぶ人がいるのは嬉しい」という「シンプル」な思考からなのかなと思った。


宇宙からの見た目がシンプルであることに美を感じたとしても、それは、富士山が遠くから見れば綺麗であることと同じだと皆わかっている。
また、少し勉強すれば、国際問題だけでなく、地形地質的にも、生物環境としても、いかに複雑で、奇跡的なバランスの上に地球が成り立っていることがわかるはず。
それなのに、遠くから眺めれば青く美しい宝石のように感じる」というときの「それなのに」が重要なのだ。
食レポのコメントと同じで、色々な味のバリエーションや料理方法に対する知識が無ければ、説得力を持って情報を伝えることができない。
「すげー」「ヤバい」を連発していた前澤氏だが、語彙の少なさ以上に、彼は宇宙の壮大さを「伝える」人物としての適性はあまりないのではないかと思ってしまった。
インタビューを見ても、彼が本当に宇宙に関心があるのかすら、よく伝わってこなかった。


(どちらも嫌いな人ではあるが)ホリエモンにしても、ひろゆきにしても、実業家の人は、本を書いている人が多い。
前澤氏もいくらでもオファーがあるだろうが、一冊も出ていないところを見ると、考えること自体を苦手にしている人なのかもしれないし、ひょっとしたら本を全然読まないタイプの人かもしれない。

ただ、これだけ余るほどのお金を持ち、人が喜ぶ顔を見るのは好きな人なのだから、もう少し社会問題や国際動向に目を向け、1億円を、「配る」以外の有効な使い方を示してインパクトを与えてほしい。(これは、同世代の人間として、完全に自戒を込めて書いています。自分には配るお金はないけれど。)


と思ったら、シングルマザーを対象とする婚活・恋活マッチングアプリを監修し、2023年1月にリリースされた直後に炎上し、翌日に配信停止に至るということがあったようだ。

toyokeizai.net


やはり、困っている人に救いの手は差し伸べるけれど、実際に「困っている状況」や「社会で起きている問題」に興味・関心がない、というイメージしていた通りの行動が炎上を招いたようにも思える。


多分、会ったら良い人に違いない、と感じるし、金銭的な影響力は非常に大きいので、あともう少し考えてほしい、と思う。
そして、十分考えた上で「NO WAR」などのシンプルなメッセージが発せられるのを期待したい。

実際、ISS滞在は、前澤氏にとっては前菜で、挑戦のメインディッシュともいえる、スペースXによる月周回飛行が2024年以降で計画されている(2023年中に実施の予定もあったが延期)。前澤氏の言葉が聞ける機会が増えるに違いないので、今後も気にかけていきたい。


あ、ちょうど本人がこんなツイートを…



ISSやロシアの宇宙開発をめぐる話

映画では「ISSは国際平和の象徴」と語られており、実際にこれまでそのように機能していたが、ロシアがISSを撤退する2028年以降には、少なくとも米ロの協調関係はなくなるようだ。二つの記事を貼り付け、ポイントを列記する。

  • 国際宇宙ステーションISS)の運用期間は、当初は2024年までとされていたが30年まで延長。
  • ロシアはISSから2024年には撤退といった後に撤回し、今は2028年に撤退予定。そのタイミングで自前の宇宙ステーションを打ち上げる予定(困難と見られている)。
  • 中国は独自の宇宙ステーション「天宮」を、2021年から数回に分けて打ち上げ、建設中。
  • 2011年のスペースシャトル引退以降、NASAISSに行くのにソユーズを使わざるを得なかったが、2020年以降、スペースXの使用が可能に。


つまり、少なくとも、米中の競争(もしくは中国の独走)が今後焦点となり、ロシアはそれに食らいつけるかどうか、と言ったところのようだ。このあたりは、映画を観たことをきっかけに、関連書籍を読んでみたい。
wired.jp
mainichi.jp


2023年下半期の振り返り(映画、本、音楽、そのほか)

もう年が明けてしまったが、昨年同様、年間の振り返りを行おう。
pocari.hatenablog.com
pocari.hatenablog.com

映画(下半期ベスト、年間ベスト)

映画については上半期のまとめを7月に行っていた。

pocari.hatenablog.com

下半期に見たのは以下の12作品。
7月:『君たちはどう生きるか』『イノセンツ』
8月:『RRR(吹替版)』『バービー』
9月:『オオカミの家』『福田村事件』
10月:『ゴジラ-1.0』
11月:『正欲』『燃えあがる女性記者たち』
12月:『窓ぎわのトットちゃん』『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』『PERFECT DAYS』
このうち、『君たちはどう生きるか』は爆睡。
また、『オオカミの家』は映像が怖かったことは覚えているが、ストーリーを追うという意味では「全く理解できない」状況に、一緒に観に行った息子と二人で頭をひねりながらイメージフォーラムを出た。
しっかり見た人なら2作ともベストに入れるほどの作品で、修行が足りないことを痛感。どこかでちゃんとリベンジしたい。


さて、鑑賞直後の熱がもっとも高かったのは『福田村事件』なのだが、パンフレット収録の対談で、脚色を加えることの問題点について指摘する文章を読み、事実を基にしたフィクションの難しさについて意識した作品でもあった。
反対に、純粋なドキュメンタリー作品である『燃えあがる女性記者たち』は、インドという行ったことのない国の映画でありながら、出演していた人物の活躍を今現在もYoutubeで追え、その活動を応援したいと感じさせるような作品だった。
そして、2023年最後の鑑賞作品である『PERFECT DAYS』は、ドキュメンタリー的なつくりをしたフィクションで、『福田村事件』とは別個の違和感があり、下半期を通してノンフィクションやドキュメンタリー(的な)作品について、考える機会が多かった。


下半期に鑑賞した12本は、昨年の『RRR』や『SLUM DANK』など圧倒的なものが無く、この中からベスト選ぶのは難しいが、鑑賞体験という点で『燃えあがる女性記者たち』を選ぶ。シネマ・チュプキ・タバタが、20席しかないスーパーな「ミニ」シアターであるとは全く想像せず、予約を入れずに行き、定員オーバー時の「補助席」とクッションを出してもらったのは良い思い出。これぞという作品を狙って、改めて予約を入れて観に行きたい。
『イノセンツ』も雰囲気が良かった。昨年見た『わたしは最悪。』や2019年に見た『ボーダー 二つの世界』など他の北欧作品と共通する良さ(言語化できない)を感じたので、今後、北欧作品は積極的に見るようにしたい。
なお、上半期と合わせて27本の中から選ぶのであれば、『怪物』がベストでしょうか。
pocari.hatenablog.com
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本(年間ベスト)

繰り返し書くように*1、今年は外国人労働者を扱った作品を多く読んだ。
加えて、年末に見たドラマ『MIU404』の第5話もベトナム人技能実習生問題を取り上げており、難しいテーマを短い時間で巧く扱っており驚いた。なお、『MIU404』の本放送は2020年6月~9月、小説『アンダークラス』の刊行が2020年11月、小説『彼女が知らない隣人たち』の新聞連載が2020年7月~2021年8月、とベトナム人留学生を取り上げた作品の発表時期は概ね重なっている。小説家や脚本家が捨て置けないと感じる、きっかけとなる事件などがあったのかもしれない。
今年読んだ本の中では安田峰俊『「低度」外国人材 移民焼き畑国家、日本』(ルポルタージュ)が良かったが、法制度も時代と共に変化していくので、今後も継続して追いかけて勉強していきたい。
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また、夏に日航機墜落についての本を、陰謀論と専門家の手によるものを比較しながら3冊読めたのは良かった。*2ちょうど、これを書いている2024年1月2日に、日航機と海保機の衝突事故が起き、こうした事故は「起きる可能性が低い」だけであって、「起きない」というのとは異なることを痛感する。1月1日に起きた能登半島地震についても同様だ。
特に後者は、地震災害そのものへの対応とは別の問題として、志賀原発の被災状況の情報の出し方に(現時点で)不信感が生まれているように思う。いずれもできるだけ第三者的視点を含む漏れのない事故調査によって今後に備えられることを望む。


そんな中で、ベスト1冊を選ぶとすれば、ひらりさ『それでも女をやっていく』。フェミニズムをテーマにした2023年の作品といえば映画『バービー』があるが、どこか入り込めない部分があった『バービー』と比べて、自分の問題意識に圧倒的に近い一冊だった。
特に、この本の総括の部分に登場する「正しくなくてもフェミニスト」というキーワードには、フェミニズムへの理解というよりは、気の持ちようという点で、大きな学びを得た。他のフェミニズム本を読んで、迷うところがあれば原点として立ち戻りたい一冊だ。
2024年は、これらのテーマには継続的に触れつつ、宗教、戦争、世界史といったテーマの本をもっと読んでいきたい。
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音楽(2023年下半期ベスト)

音楽も、上半期で振り返りをしていた。

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したがって、下半期のベストを選ぼうということになるのだが、年間どころか、ここ数年のマイベスト作品に出会った。それはKIRINJIの最新アルバム『Steppin’ Out』。

Steppin' Out

Steppin' Out

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実質的に単独制作体制に戻ったアルバムということで、最初に聴いた時は『Home Ground』(2005)を思い出した。少なくとも前作までに1曲はあった、最先端ダンスチューンのような攻めた作品は影を潜めて、アルバム一枚としてのまとまりが強くなった。
しかし、「小さくまとまった」のではなく、聴き込めば聴き込むほど

  • 明らかにレベルアップした歌唱技術
  • 曲順や複数楽曲の歌詞の呼応、全体のテーマを考えたアルバム構成
  • 社会問題を歌詞に取り込んでいく巧みさ

等、色々な部分で、アルバム全体の素晴らしさに気がついていく。
歌詞は、トー横問題を扱った7曲目『I♡歌舞伎町』では、上から目線にならない絶妙な視線とユーモア溢れる言葉選び。続く8曲目『不恰好な星座』は老いについて歌い、やや不穏に終わりながら、ラストの『Rainy Runway』では、次のように、一種現代的な流行語である「~しかない」を使って希望について歌い上げて終える。

新しい季節を生きよう
素敵な予感しかない

アルバム全体を繰り返しリピートで聴くと、このあとにアルバム内で最もポジティブな1曲目『Runner's High』に繋がる。個人的には、Stevie Wonderを思い起こさせる後半の展開と、高樹の歌唱の艶が映えるメロディで、色々なときに聴きたくなる最高の楽曲。
そのほか、歌詞世界がおかしい(説得される立場で、説得してくれと頼む)『説得』、『Rainy Runway』と呼応するような「素敵な予感(素敵な旅館)」の歌詞が楽しい『指先ひとつで』等、1曲ごとにポイントがあり、全く飽きさせない。そして何といってもアルバム全体から伝わる、ポジティブに人生を捉えようとするメッセージの強さが際立つ。
実は、ほぼ同時期に購入したcero『e o』や水曜日のカンパネラ『ネオン』も大好きなアルバムなのだが、KIRINJIが凄すぎて、一枚選ぶならこれしかない。


そんな新生KIRINJIのツアーに行けなかったのは2023年の心残り。
2023年はKANをはじめ、よく知るミュージシャンの訃報が相次いだこともあり、今年は(明日は我が身という意味でも)「これが最後かも」という気概で、できるだけライブの予定を入れるようにしたい。

そのほか

10月からの冬ドラマで『セクシー田中さん』『パリピ孔明』『きのう何食べた』という漫画原作の3作品を見たがどれも良かった。
特に『きのう何食べた』の主人公シロさんは、ドラマでの年齢が50歳(ケンジは2個下なので48歳)で年が近く、両親とのリアルな会話を見ながら、自分の物語として見てしまい泣くシーンもしばしば。
『セクシー田中さん』も、朱里(めるる)の「たとえば、コンビニのスイーツが美味しかった。眉がキレイに描けた。一つ一つは些細だけど、たくさん集めると生きる理由になるじゃないですか」という台詞が、とても心に染みた。この台詞は、場面を変えて何度か登場するが、そのたびに泣いてしまった。
3作品ともに原作漫画をしっかり読んでみたい(『きのう何食べた』は途中まで読んでいるが)。また、『パリピ孔明』はアニメの評価が非常に高いので、こちらも何とか観てみたい。


それ以外の出来事としては、ロードバイク購入と湘南国際マラソンでのサブ3.5達成が何といっても大きなインパクトだった。
2024年は、もう少し記録を伸ばすためのトレーニングを意識しながら、怪我に気をつけ、二刀流を継続していきたい。


役所広司演じる「平山さん」の禅と欺瞞~ヴィム・ヴェンダース監督『PERFECT DAYS』


年末の帰省の際、名古屋駅周辺で時間を使う必要があり、上映時間スケジュールが、予定とぴったり合う、この映画を観に行った。自分の中ではディズニーのアニメ映画『ウィッシュ』が最有力候補だったが、一緒に観に行く息子に断られてこちらに。

ヴィム・ヴェンダーズが監督を務め、役所広司が、カンヌで最優秀主演男優賞をもらった映画という程度の予備知識だったが、結果的に2023年の見納めにぴったりの作品*1だった。


今回はパンフレットの満足度がとても高く、その内容に沿って感想を書く。


パンフレットは、監督や役所広司へのインタビューなどの全体を通じて、製作陣の熱が強く伝わってくる内容となっている。
もともと、プロデューサーに、ユニクロ柳井正の息子(→ファーストリテイリング取締役の柳井康治氏)と電通マン(→高崎卓馬氏)が名を連ねていると事前に耳にしたときは、何となく嫌な気持ち(偏見!)になってしまっていたが、パンフレットを読んで、2人の情熱も十分に感じ、その偏見も吹き飛んだ。
そもそもこの映画の前提として、渋谷の「変なトイレ」群がTHE TOKYO TOILET(略称TTT、公式HPはこちら→THE TOKYO TOILET)という渋谷区の事業に基づくものであり、これが柳井康治の個人プロジェクトであるということを初めて知った。このプロジェクトがアートの力で行動変容までも視野に入れた取り組みであるということも理解し、むしろ応援したい気持ちになった。


映画を見た印象とパンフレットを読んで感じる熱の核心は一致しており、この映画は、役所広司演じる「平山さん」の映画だということ。インタビューから役所広司の発言の一部を抜粋する。

平山さんにはいろいろなルールがある。彼はテレビも観ない、ネットで情報を得ることもない。彼に入ってくるものは、日常生活で彼の目に映るものが全てです。朝、木漏れ日が作る柔らかな影、懐かしい音楽と古本。それが彼の中に入ってくる情報です。嫌なことがあっても彼は穏やかな気持ちでやり過ごす。
ヴェンダース監督がよく言っていました。平山のようになりたい、と。平山さんのような生活に憧れる。金で得たものは何一つなく、ただ静かな生活を望み、本を読み音楽を聴くことで何か懐かしいものに出会ったり、過去に思いを馳せたりしているのでしょうか、夜はゆったりと眠りにつく。ある意味、豊かな時間を過ごしている。そんな平山さんの時間に監督は憧れるのだろうと思います。
人はたくさん働いて、お金を得て、欲しい物を手に入れる。それでも満足することなくさらに求める。平山さんは何かを手に入れることもないけれど、自分の生活に満足しているように窺える。その姿がどこか修行僧にも重なって見える。 

このインタビューの面白いところは、このように深く作品を理解している役所広司でも、「この平山さんの行動は意外」「わからない」と、主人公を理解しきれないと言い切ってしまうシーンも存在する、ということ。また、上の引用にも出ているが、表現を探りながらの演技はあくまで「監督の理想としての平山さん」に沿ったもので、それとは別に、役所広司の平山さんに対する考えもあるということがわかる。
また、このインタビューもだが、頻繁に小津安二郎の名前が登場する。パンフレットの見開き2ページを取って、共同脚本の高崎卓馬が熱っぽく語る文章(「小津安二郎」というタイトル)の導入部を引用する。

作家が自身の感性に従って細部すべてを徹底的にコントロールし尽くしたとき、そこには本当に存在するとしか思えない世界が生まれ、すべてが自然にしか見えなくなることがある。映画はそこまで到達することがある。
ヴェンダースはかつて小津を語るときそんなことを 言っている。ときにシナリオすら持たずに映画をつくる自分とは対照的な存在のはずが、強くその作品たちに惹かれるのは、自分も「自然にしか見えない」という状態を目指しているからだとその理由をつづける。

これらの、「平山さん」に対する神格化や、「小津安二郎」成分は、ストーリーが希薄で、セリフの極端に少ない映画そのものだけを見ても十分伝わってくる。エンドクレジットのあとで、わざわざ「木漏れ日(Komorebi)」という日本語について取り上げ、今この瞬間にしか出会えない、複製不可能なもの、としての日常=PERFECT DAYSを説明するつくりも丁寧で、作品全体を包む「禅」的要素は映画を見て把握でき、パンフレットでその背景について理解を深めることができた。
しかし、以下に述べる「対談」以外では、話題にするのを避けているとすら感じさせる、この描かれ方でいいの?という「問題」がある。


したがって、このパンフレットのクライマックスは、何といっても終盤に収録されている川上未映子×柳井康治の特別対談だ。多くの人がこの映画に感じるであろう違和感について、川上未映子が明確に言語化してくれている。

平山さんの生き方というより、平山さんの 「描かれ方」にたいしてですけど、上映中、それはもういろんな気持ちになりました。海外の評ではミニマリズムや禅の観点から、彼の生き方や暮らしぶりに肯定的な感想が多いと読んだのですが、現実では、平山さんの妹さんのような価値基準*2のほうが一般的であり、社会と人々の欲望をあらわしているわけです。平山さんは「選択的没落貴族」だとは思うんだけれども、あの暮らしの描かれ方をどう捉えるか、というのはとても難しい問題だと思います。いっぽうで、彼が責任を負うのは自分の生活だけでもあります。
(略)
これは、若い人たちのこれからに通じる問題でもありますよね。今はもう、他人の人生にかかわることじたいが贅沢というか気が知れないというか、自分ひとりが生存するだけで精一杯で、他人の責任を負うことなんてできるわけがないと感じている若い人たちが本当に多い。持てる人たちが「平山さんの生活は、静かで満たされていて美しくて素晴らしい」というのは、そりゃ彼らは豊かな観察者だからそれはそう思うでしょうけれど、肉体労働をしていたり、相談できる人が誰もいないというような若い人たちがこの映画を観てどんな感想を持つのか、非常に興味があります。

文字で読むと、どんな話し方をしたかは分からないけれど、的を得過ぎた、壮大な「嫌味」という感じがする。
川上未映子は1976年生まれ、柳井康治は1977年生まれということで同世代(ちなみに自分も1974年生まれで同世代)、就職氷河期世代にもあたるため、「若い人たち」どころか、同年代の人たちでも「持てる人たちが平山さんの生活を神格化するのはどうなのか」と思う人も多いはず。川上未映子は、同世代の柳井康治に、その辺をどう考えるのか問い詰めているように見える。


さらには、「汚物」問題についてもチクリと言及する。

たとえば汚物の扱いにしても、現実はどうなのかを考えた時に、きれいごとにみえる可能性もある。でも、汚物が出てこないことが、この映画ではとてもよく効いていますよね。(略)
平山さんは、女子トイレも清掃します。生理用品とかをどうするんだろうなって見ながら思っていたんですよ。吐瀉物もです。でもクリーンなままです。この演出は、この日本で向き合わなきゃいけない責任とも向き合わずに、見たくないものを見ないまま自分のルーティンの中で生きている、まるで少年のような彼の在り方を示しています。

結局、このような違和感の表明から始まる対談は、映画ラストの役所広司の「三分間」の演技に対する絶賛で丸く収まるが、読む人によっては、映画の印象を大きくひっくり返すほどのインパクトがある内容だと思う。なお、話は逸れるが、川上未映子の著作は実は未読で、近作『黄色い家』(2023)、『夏物語』(2019)は絶賛評が多いこともあり、早く読みたい。


また、『PERFECT DAYS』は、平山さんが就寝前に読む本がどうしても気になってしまう作品でもある。パンフレットの中で、翻訳家の柴田元幸さんが、3冊の本に補足的に解説を加えた上で、「トイレ」に関連する本として谷崎潤一郎『陰翳礼賛』を薦めているのも面白い。敷居の低いハイスミスは読んでみようか。

そして、当然といえば当然だが、パンフレットの中にも、「TTT」のプロジェクトで生まれた16のトイレについて、デザイナーの名前と、その意図について説明を付して、見開きで紹介がある。これについても一冊の本にまとまったものがあるので、こちらも気になる。


ということで、全体を振り返ると、ドキュメンタリーを見ているような感覚で、実在するとしか思えない「平山さん」に入り込めるという意味で他では得難い体験ができる映画だった。ただし、川上未映子の指摘するような違和感がどうしても拭えない、という、複雑な気持ちになる作品だ。
一方で、この映画を傑作たらしめている役所広司自身は、以下のようにも*3書いており、川上未映子が指摘するような「拭えない違和感」≒「つながってない世界から見た人生観の違い」に対して相当意識的であるように思う。ヴィム・ヴェンダースや高崎卓馬もだが、何よりも役所広司について今まで以上に興味が湧き、その作品に触れたくなる一作だった。

この世界には、たくさんの世界がある。つながっているように見えても、つながっていない世界がある…」この台詞が今でも時々、僕の頭の中で鳴っています。


*1:なぜ「2023年の見納めにぴったり」だったのかについては、こちらに→2023年下半期の振り返り(映画、本、音楽、そのほか) - Yondaful Days!

*2:「何でトイレ掃除なんか仕事にしてるの?」「そちらの世界はさみしくないの?」という、いわば俗物的な、しかし一般的な見方

*3:日本国内でも広がる「社会階級による世界の分断」について指摘した台詞と解釈している

戦争ではなく現代日本の問題として〜『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』

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2023最後の映画鑑賞は『ゲゲゲの謎』。

あまりに評判が良い上に、 2回見た知人からも繰り返しオススメされたので行ってきた。

前評判の高さがハードルを上げた部分もあったが、 全体を通して見ると過剰に興奮するような場所はなく、 何となく聞いていたものから類推できる範囲内だった。

しかし、ラスト付近で不意に涙がこぼれてしまった。


涙の理由について、映画を簡単に振り返ってみる。

 

導入から盛り上げ、アクションのバランスが巧い映画で、 メイン2人のビジュアルも確かにカッコいい。

特に良かったのは、トンネルをくぐった先にありながら、海( 瀬戸内海?)を一望できる場所にある、村の景色と、 ゲゲ郎の1対多数のスタイリッシュなバトルシーン。

さらには、ラスト近くで、一連の事件の「意外な犯人」 が明らかになり、一件落着したと見せかけてからの盛り上がり。

前評判で多く挙がっていた「一族の因縁の凄惨さ」は、 中盤までは「こんなもんか」くらいにしか感じなかったが、「 犯人」のこれまでの生い立ちが明らかになって以降は、 酷い話のオンパレードで辛くなる。


ただ、ゲゲ郎が探していた奥さんに会えて、99% 物語が終わるところまでは涙は出なかった。

しかし、鬼太郎が登場する現代パートで、 最後に一匹残った狂骨が「ときちゃん(時弥)」だとわかり、 彼が「忘れないで」 と言って成仏していくのを見て泣いてしまった。実際、 映画の中で、 あれだけ利発にゲゲ郎と会話していた時ちゃんの愛らしい造形を、 そのシーンまで忘れていた、ということもあり、不意を突かれた。


ゴジラ-1.0』や『トットちゃん』、『ブギウギ』等の映画、 ドラマと重ねて、 同時期に集中した戦争を題材にした作品の一作として語られること の多い作品だが、 自分は昔の日本を取り上げたとしては受け取れなかった。


作中でも「この国は今も…」 というようなセリフがあったように思うが、 下に責任を押し付けて、自身は巧いこと切り抜ける上層部、 というような構造のもとに日本が成り立ってきたということを、 2023年の政治、芸能のニュースとして何度見たことか。

12月に入ってからは自民党のパーティー券問題、ここ数日は、 松本人志の文春報道の件がネットを賑わせていている。

権力を維持し、守る仕組みを作り上げ、 最後まで権力にしがみつくゲ謎の黒幕である時貞の姿を見て、 それらのニュースが頭にちらついた。


確かに「政治には金がかかるから(仕方ない)」、もしくは「 芸能界というのはそういう世界なんだから(仕方ない)」とか、 知ったような口を聞いていた時期が自分にもあったかもしれない。 しかし、口を閉じていれば権力を温存し、現実社会の「時貞」は、 ますます犠牲者を出しながら延命していってしまう。

だからこそ、ジャニーズ性加害の問題に対して、 勇気を出して告発する人が現れたのだし、松本人志の件も同様だ。 松本人志の件は「8年も前」と言われることもあるが、むしろ「 8年間も悩み続けていた」と考えれば尚更辛いことだ。

勿論、これが事実無根である( 例えば思い込みの激しい告発者による妄想である)可能性はあり、 吉本興業も反論を出している。

しかし、騒動後の松本人志自身のTwitter(X) への投稿が「いつ辞めても良いとおもってたんやけど… やる気がでてきたなぁ~」というのは、あり得ない。

 

完全に、ホモソーシャルの仲間内でのイキリにしか聞こえない。


同じノリの人に対してのみ、 ひたすら受けの良い言葉で絆を深めようとする仕草は、 杉田水脈議員を思い出す。


事実無根で恥じるべきところがないのであれば、 どこまでが事実なのかも語れば良いし、また、「同じノリ」 ではないファンにはもっと丁寧な言葉が必要なはずだ。


一方、一有権者、一視聴者が何をし、 何をするべきでないかを考えたとき、今年は「 ネット炎上による二次加害」のニュースも目立った。

特に、短い期間に連続した、羽生結弦の離婚、「 ジャニーズ性加害問題当事者の会」 の方の自殺の報道にはショックを受けた。

特に後者は、いわゆる「セカンドレイプ」で、 まさに今回の松本人志の報道に対する視聴者の反応にも少なくない数見られる。 五ノ井さんの報道でのネットの反応も酷かったが、 死人が出てなお変わらないのか、と驚くばかりだった。


勿論、草津町の一連の出来事*1を思い出せば、 現時点で報道内容がすべてが真実として、 一方的に松本人志らを断罪することには慎重になるべきだろう。

しかし、報道されている内容は、性加害事件という以上に、 ホモソーシャルのノリのイジメという、 むしろテレビ番組でよく見た状況*2であり、その意味でむしろ納得感がある。 今回の報道をきっかけにして、 過去の番組での非道な行為を非難されるくらいはあっても当然かと 思う。

自分の感覚も、 かつての出演番組から受けた一方的な印象の影響が大きく、 先入観を持って文春報道を見ていることを意識しつつ、 当面は被害者側に立って、考えていきたい。

 

 

さて、映画ラストの時弥君のセリフに涙した理由の話に戻る。

映画では、時弥と沙代という龍賀一族の新世代2人が、 まさに老害というべき時貞の毒牙にかかり、 その夢が打ち砕かれてしまう。改めて時事ネタと結びつければ、 トー横にしか居場所のなくなった若者たちの絶望と構造は変わらな い。因襲村は歌舞伎町*3にもある。


このような現状に、何かと「日本は、変わらない国だから( 仕方ない)」という感想を持ってしまうことが今年は増えた。 時弥は、そんな自分に「夢や希望を持つことを忘れないで」 と語りかけてきた。

そのリンクに思わず涙が出てしまったのだと思う。


彼は、「可哀想な物語」を盛り上げるための舞台装置ではなく、 映画の中では、希望の象徴として、 物語の一番重要なメッセージを伝えるキャラクターだった。

そして、「日本はどうせ変わらない」と諦めてしまうことは「 自分はどうせ変わらない」 と決めてしまうことと表裏一体でもある。

現代社会、そして人生の辛い面について触れつつも、最後は「 素敵な予感しかない」と歌い上げる、 KIRINJIの傑作アルバム『Steppin' Out』と同様、『ゲゲゲの謎』は、最後に、 観客それぞれの人生への「希望」を思い出させてくれるという意味で、 とても良い映画だった。

*1:こちらに詳しい→https://www.newsweekjapan.jp/ishido_s/2023/04/post-5.php

*2:ここ10年くらいは、 ダウンタウンが出る番組は避けていたので自分自身はよくわかりま せんが

*3:トー横か絡みでは、 colabo騒動こそが、通常では理解しにくい「因襲」が、 界隈に共有されていて本当に怖い。