Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

差別・偏見とトットちゃん~佐々涼子『ボーダー 移民と難民』×映画『窓ぎわのトットちゃん』

佐々涼子『ボーダー 移民と難民』

佐々涼子さんの本は、昨年5月に『エンドオブライフ』を読んで非常に考えさせられたが、最新刊『夜明けを待つ』のあとがきで、佐々さんの現在の状況を知り本当に驚いた。(これについては特にここでは書きません)
そんな佐々さんが、昨年、移民と難民をテーマにした本を出していたことを知り、追い立てられるようにして読んだ。


思えば今年は、このテーマの本に多く触れた。勿論、入管法改正関係でメディアで取り上げられることが多かったというのもあるが、昨年見た映画『マイスモールランド』の影響も大きいように思う。


入管施設の状況が少しでもよくならないか。
何かできることはないだろうか。
少なくとも継続的に知識を得て考えることが必要だ。
そんな気持ちから、同テーマの本に、自然に手が伸びているのかもしれない。


本書での、佐々さんの主な取材対象は以下の通り。

  • Ⅰ.泣き虫弁護士、入管と闘う
    • 20年以上、入管施設での人権問題に取り組んできた弁護士児玉晃一さん(実は佐々さんの大学同期)
  • Ⅱ.彼らは日本を目指した
  • Ⅲ.難民たちのサンクチュアリ
    • 鎌倉のアルペなんみんセンター(2021)

取材開始当初、2014年3月に牛久の入管施設で亡くなったカメルーン人Wさん(当時43歳)の入管施設内の映像を見て、前作『エンドオブライフ』との取材対象の扱いの差に衝撃を受ける佐々さんの感想が印象的だ。

私は、終末医療を取材した本を出したばかりだ。 そこで、現代医療では救えない命を見てきた。それでも残された一分一秒を医師や看護師がどれほど大切にしてきたか。
だが、ここでは命がぼろきれのように放置されている。声を嗄らして助けを呼んでも、誰も来ない苦しみはどれほどだろう。しかも監視カメラの向こうでは誰かが助けもせず、覗いているかもしれないのだ。
天井を見つめながら、彼は家族を想っただろうか。
Wは誰にも看取られずに、心肺停止で発見された。
彼は出国するとき、どうやって母親と別れただろうか。いつか再会する日を夢見ただろうか。まさか、日本の収容所で誰にも看取られず、たったひとりで放置されて死ぬとは思いもしなかっただろう。
p58


この本が出版されたのは2022年11月。
入管法改正案については、国会前での攻防を経て、2022年5月に採決が見送られるまで*1の様子が収められている。採決見送りは、ウィシュマさんの事件などの問題がメディアで大きく取り上げられたことが効いているが、本書の中でも入管施設内での酷い状況については繰り返し取り上げられる。


時系列で見た場合、移民、難民への対処は、国の経済・社会状況に大きく左右され、今現在は特に厳しい状況にあるということがよく理解できた。

主に難民という観点ではp119-120に記述がある。

  • バブル崩壊後の1992年頃、入管は非正規滞在者の露骨な排斥に転じる
  • 1993年「技能実習制度」創設
  • 1997年(当時は生まれたばかりの赤ん坊も入管施設に収容されるなどひどい時代) 
  • 2000年代に入管問題に携わる弁護士が入管に調査に入るようになるなど状況が良くなる。難民の仮滞在が認められるようになる。
  • それがあだになって虚偽の難民申請および仮滞在申請の濫用が相次ぎ、かえって取り締まりが厳しくなる。
  • 2019年 人手不足を解消するために特定技能制度が新設(しかし人が集まらない…)

移民という観点ではp129-130に記述がある。 

  • バブル崩壊後、非正規滞在者を追い出して空いた穴を埋めるようにして南米の日系人が増加。1990年の入管法改正では、日系人の家族も呼び寄せることが出来るようになる。
  • その後も増加を続け、2007年末には30万人を超える日系南米人が日本にいる状態に。
  • 2008年9月のリーマンショックの余波で日本も経済不況に。製造業の工場で働く日系人は雇用調整の対象となり、失業した日本人に対して日本政府は「帰国支援事業」として、帰国費用(いわば手切れ金)を給付し、2万1675人が日本を離れた。
  • 2013年に再び政策の転換があり、外国人労働者の受け入れ拡大のために、帰国支援事業により帰国した日系人の再入国を認める
  • その後は移民労働者としての主流は技能実習生に。

この本のタイトルには、副題に「移民と難民」とついているが、入管問題調査会を立ち上げた高橋徹さんによれば、片方だけでなく、移民制度*2と難民制度の両方を健全化する必要があるのだという。

「移民制度が健全であることと、難民制度が健全であること。 その二つが揃ってそれぞれの制度が生きる。どちらかの蛇口が閉まれば、もう片方に流れるに決まっている。制度の青写真が まずい。移民制度と難民制度それぞれをまっとうに位置づけられるシステムにしないとダメと いうことです。」
p123

しかし、入管法改正をはじめとする国の対処は、行き当たりばったりで、制度設計の思想自体が見られない。
さらに、これまで読んだ本でも再三取り上げられ、この本でも書かれているように、日本は見限られ始めている。
2019年に創設した特定技能制度が上手く行っていないように、日本以外に魅力的な「出稼ぎ国」がある今の時代、わざわざ「辛い日本」を選ぶ必要がない。
制度上の改善を待つよりも、日本が「先進国」に出稼ぎに行くようになる方が早いのかもしれない。


国の、入管問題についての人権感覚のなさ、外国人労働者問題についての長期的視野のなさを見ていると、将来が不安になるばかりだが、この本では少しだけ希望も描かれる。 
それが、3章で扱われる鎌倉の施設「アルペなんみんセンター」の活動と周囲の支援(施設を貸している日本殉教者修道院鎌倉市の応援など)についての部分で、これを知って、悪い人ばかりではないのだと安心した。


国には制度改善を求め、地域や各種団体にも支援の輪が広がることを期待する。それでは個々人に出来ることは何か。
これについては、エピローグでの佐々さんの決意に勇気づけられ、また、襟を正す気持ちになった。

ここまで取材を重ねてきたが、私には偉そうなことは何も言えない。
国のはざまで苦境に陥る人たちのことを何も知らなかったし、知ろうともしなかった。だから、まず知らなければ。世界史の教科書や地図帳を自分の横に置いて、当事者の話に耳を傾けている。
私はこれからも、いともたやすく偏見を持ってしまうだろう。人は他人を上に見たり、下に見たり、仲間だと思ったり、敵だと感じたりする。 これはもう避けようがない。自分を正義の人だと思った時は、特に危ない。だからいつも自分の心を点検して、夏の庭の雑草を抜くようにして、こまめに偏見を取り除いていくしかない。

p255

少子高齢多死のこれからの日本では、特に介護分野などで、外国人労働者に頼らざるを得ない。
いや、むしろ、来てもらうために、他国よりも良い国であることをアピールしていく必要があり、差別・偏見で目を曇らせていていては前に進まない。
将来の日本をうまく回していくためには、制度上の問題だけでなく、個々人の意識の改革も必要になる。もっと勉強を続けなくてはいけない。

映画『窓ぎわのトットちゃん』


「差別」という観点で結び付けて、映画の感想を書く。

Twitterで突如として湧いた絶賛メールの数々に引き寄せられるようにして、今観る映画としては、自分の中でもかなり意外性の高いこの作品を選んだ。*3

予告編自体は何度も見ていたが、これまで劇場に足を運ぼうと思わなかった一番の理由は、国民的ベストセラー(ただし自分は未読*4)であること以外では、キャラクターの絵柄。くちびると頬は良いとしても、まぶたの赤色は化粧のように見えてどうしても違和感があり、結局、これについては見終えても「ない方が良かった」ように思った。


最初に全体の感想を書けば、映画後半で、トットちゃんの楽しい生活を侵食するように、じわじわと広がる戦争の空気の描写は辛かったし、予告編から想像していなかった要素なので驚いた。
映画の中では、トットちゃん自身は戦争についてほとんど言及しない。
しかし、キャラメルの自販機が停止になり、改札の駅員が男性から女性に変わり、下校時の歌を注意され、最後には学校が休みになり、自宅は「建物疎開」で取り壊される。トットちゃんが、いかに戦争を気にせずに楽しく振る舞おうとしても、それが出来なくなってくる。
圧巻はクライマックス。


同級生を亡くしたトットちゃんの悲しい気持ち、辛い気持ちを横目に、「戦争」はどんどん生活風景を侵していく。普通の物語なら一番泣かせたいシーンだが、戦争は、待ってくれたりはしない。
終戦を待たず、トットちゃんが疎開先の青森に向かう場面で終わりを迎えるエンディングの描き方も非常に効果的だった。実際に、現実の世界でも、ウクライナの戦争や、ガザ地区での虐殺など、「戦争」は終わっていない。


さて、さまざまなタイプの子どもが共に学ぶ「トキワ学園」を舞台にした『トットちゃん』も、差別と多様性をテーマに含んだ作品だった。
基本的に、トットちゃんは、差別を全く意識せず、あくまで無垢に振る舞う。
トキワ学園校長の小林先生も、基本的には生徒の好きなように行動させ、口を挟まない。日本の小学校は、ざっくり言えば「人に迷惑をかけない」ことを教える場として機能しているように思うが、それは教えない学校のようだ。
そんなトキワ学園でのトットちゃんも、「差別」について考えざるを得ない場面が2か所あった。まず、生徒に見えないところで、小林先生が(生徒を言葉で傷つけてしまった)大石先生を叱りつけた場面。トットちゃんは盗み聞きして神妙な顔をしている。
そしてもう一つは、小児麻痺を持った泰明ちゃんとの場面。3年生になり、相撲で誰にも負けないトットちゃんが、泰明ちゃんから勝負を挑まれるが、小林先生の配慮で「腕」相撲に変更になり、真剣勝負をする。ここで、トットちゃんは思いやりの気持ちからわざと負け、泰明ちゃんに激怒される。


この一件についてトキワ学園の教育方針を想像しながら考えたい。
小林先生は「みんな一緒で」が口癖で、泰明ちゃんのようにハンデを抱えた子どもに対しても、先生の側から手を貸したりせず、平等に扱う。しかし、「平等」でいいのだろうか?
一番違和感を覚えるのは、みんなが裸で入るプールの場面で、このような「平等」の強制は、考え方によっては「虐待」になってしまうのではないか、とも考えた。
よく出てくる「平等」(EQUALITY)と「公平」(EQUITY)の差を説明したイラストで言えば、小林先生は一貫して「公平」を排除するようにも感じる。

しかし、よく考えてみると、このイラストは、皆が野球を見たいと思っていることを前提としていることに気がつく。小林先生の教育は、まず、野球を見たい、もしくは個々人が何かをやってみたいと思う気持ちを引き出すことに特化しているのだと思う。
「やる気」こそが、公平/平等よりも優先され、スタートとしては、「公平」よりも「平等」の方がやる気を引き出す、というのがトモエ学園の考え方なのだろう。

確かに、泰明ちゃんのハンデを考慮して最初から「皆で腕相撲を」とするやり方もあった。
そうせずに、まず、泰明ちゃんの「相撲で勝ちたい」という気持ちを引き出しておいて、「公平」の観点で次善の案を出す校長は、なかなかの策士と言える。
しかし、トットちゃんの「思いやり」がそれをぶち壊しにしてしまった。


トットちゃんのような「勝ちを譲る」やり方は、決して「公平」な方法ではないが、勝ち負けを付けない徒競走のような、どこかズレた「公平」の陥りやすい罠なのかもしれない。
そして、それは「困っている人を見たら助ける」よりも「目立つ行動をしない」「人に迷惑をかけない」「余計なお節介をしない」を優先する日本人こそ、日常的にしてしまっている「消極的な思いやり」と似ている。*5
決して他人事ではない。

2作品から考える大切なこと

泰明ちゃんとの木登りのエピソードしかり、トットちゃんの良いところは、人をやる気にさせる、生きたいと思わせるところだ。


「差別をなくす」というお題目は、常に自分を点検し、勉強し続けなければ成し得ない、という点では、なかなかにハードルが高いし窮屈だ。
しかし、トットちゃんがそう思わせてくれたように「この人達と仲良くなりたい」「一緒に何かをやってみたい」がスタート地点になれば、ハードルは一気に下がる。
佐々さんが『ボーダー』の3章で取り上げていた「アルペなんみんセンター」での地域との交流やイベント。
知識を増やすよりも、そういうことの方が重要なのかもしれない。
11月に第四回が実施された「難民・移民フェス」*6もこれまで気になっていたが、次回開催されれば行ってみたい。
映画や本についても、これまで以上に、さまざまな国の地域や文化、歴史に興味を持ち、旅行先として考えてみることも楽しそうだ。
もっと楽しみながら、この世界に暮らす人々への興味・関心を拡げ、考えを深めていきたい。


と、色々と書いたが、原作自体を未読なので、これを機会に黒柳徹子さんの著作も読んでみたい。


*1:結局今年2023年6月に、改正案は可決されてしまったのは本当に残念だ。

*2:「移民制度」と書いたが、現在は、単純労働で働くのは技能実習制度しかないのだという

*3:直前まで◎『市子』、〇『ゲゲゲの謎』、▲『ナポレオン』の優先度が高かった

*4:未読なのですが、ボットン便所に財布を落とすエピソードだけは知っていました。小学校低学年の頃、誰かから聞いて印象に残っていたのだと思う。

*5:12.16朝日新聞の「多事奏論」の記事が、まさにそのことについて触れる内容で、アクティブ・バイスタンダーの必要性を説く→行動する傍観者 見過ごしたくない時、「おせっかい」していいですか:朝日新聞デジタル

*6:Twitter公式アカウントはこちら→https://twitter.com/refugeemigrant

イスラエルは何故ガザ虐殺で正当性を主張できるのか?~ダニー・ネフセタイ『国のために死ぬのはすばらしい?』

ここ最近は、イスラエルパレスチナ関連のニュースが「酷い」。
停戦終了後、戦闘、というより、イスラエルによる一方的な攻撃の舞台はガザ地区北部から南部に移り、これまでの累計死者数は1万7千人を超えるという。

ウクライナの戦争でもそういう側面はあったが、今回、報道やSNSで毎日のようにパレスチナ側の犠牲者の映像を目にする。
そんな中では、「イスラエルは、何をどう考えて、このジェノサイド*1を正当だと思っているのだろうか」と考えてしまう。
病院への攻撃も酷いし、公文書館の破壊も酷い。
そして何より、「ハマス戦闘員1名につき民間人2名を死亡させている巻き添え」を「良い割合」だと、人命というより工場での生産のように評するのは、いくら何でもあり得ない。

www.asahi.com

news.yahoo.co.jp


もうひとつ「ありえない」と感じるのは、アメリカの姿勢。
即時停戦を求める決議案に対して、アメリカが拒否権を行使して決議案が否決。ロシアがそれを非難するという、「いつも」と反対の状況が生じている。  

そして、8日午後、日本時間の9日午前6時前から決議案の採決が行われ、15か国のうち、日本やフランスなど13か国が賛成、イギリスが棄権しましたが、常任理事国アメリカが拒否権を行使し、決議案は否決されました。

(略)
アメリカが拒否権を行使したことについて、ロシアのポリャンスキー国連次席大使は「きょうは中東史上、暗黒の日のひとつとなったと言っても過言ではない。アメリカは紛争地での停戦の呼びかけをまたもや阻止し、何千人もの民間人や彼らを助けようとしている国連職員に対して、文字通り死刑宣告を下した」と強く非難しました。
安保理 ガザ地区の停戦決議 アメリカ拒否権で否決 | NHK | 国連安全保障理事会

このようなイスラエルパレスチナの経緯については、勿論、日々の報道の中で解説されるものでは到底足りず、しっかり勉強する必要を感じている。
しかし、それとは別に、イスラエル人は何故ここまで自分たちの正当性を主張できるのか?という疑問から、以下の本を読んでみた。

イスラエルの元空軍兵士だった著者が、退役後、バックパッカーとなってアジア諸国を放浪の旅に出た。
日本の土を踏んだのは1979年10月、以来40年近くを日本で暮らしている。

家具作家の著者は、「世の中を良くすることも物づくりをする人間の使命である」という信条をもち、戦乱の絶えない祖国イスラエルを批判、「3.11」後の日本で脱原発の道を進むことを願い、活動をつづけている。

本書は2部構成で、第1部は「イスラエル出身の私が日本で家具作家になった理由」として、著者の生い立ち、イスラエル愛国心教育、軍隊経験を中心に、日本で根を下ろすまでを描いた。

第2部は「私はなぜ脱原発と平和を訴えるのか」として、本業の家具製作のかたわら、平和運動脱原発の活動を通して仲間と出会い、イスラエルと日本のより良い未来のための提言をまとめた。

Amazonあらすじ)

あらすじに書いてある通り、この本の前半部は、生まれる前の家族の話から始まり、退役後の半年~2年間を自由に過ごす「退役旅」の途中で日本を訪れたことをきっかけに、日本に移住し、家具職人になる半生について書かれている。


この中では、イスラエル人のアイデンティティに触れる教育・思想の話が非常に勉強になった。
一番印象に残っているのは、本の冒頭でも紹介があるゴルダ・メイアの発言。

「私たちがされたことが明らかになった今、私たちが何をしても、世界の誰一人として私たちを批判する権利はない」

1961年に行われた、ホロコーストに深く関与したナチスのアドルフ・アイヒマンを裁いた裁判(アイヒマン裁判)後に、当時の外務大臣で、1969-74年には首相(イスラエル初の女性首相)となるゴルダ・メイア*2の発言だ。
この発言の影響は現在までずっと続いており、パレスチナの人々への差別や迫害への非難を受けても、イスラエルは外部からの批判に一切耳を貸さない国になった一因だという。

このような、国民としての意識の共有があった上で、イスラエル人は、子ども時代から愛国教育を受ける。

私たちイスラエルの子どもは、「相手を嫌っているのはイスラエル側ではなく、アラブ側である」「戦争を望んでいるアラブ人と違い、私たちユダヤ人は平和を愛する優れた民族である」「悪者のアラブ人は和平交渉も不可能だし、彼らの言うこともけっして信用できない」と信じ込まされている。それは学校の教育だけでなく、家庭や地域、メディアで接する情報の積み重ねによって、固い"信念"が作りあげられるのだ。
さらに、イスラエルの子どもたちが就学前から教え込まれる二つの物語がある。私たちが受ける教育の中では、マサダとテルハイの教訓が強調されてきた。それは「捕虜になってはいけない、最後まで戦い続ける」、「国のために死ぬのはすばらしい」というもの。

国のために多くの犠牲者を出したマサダの戦い(73)、テルハイの戦い(1920)での教えも広く行き届き、イスラエルでは「戦死」が最も栄誉ある死とされている。反対に「自殺」は恥ずべきものとされ、家族でも死因を伏せていたため、父を自殺で亡くしたダニーさん(著者)は、死後2年半経ってガールフレンドから父の死の原因を知ったという。
さらに、イスラエルでは小学校の頃から勉強する旧約聖書では、ユダヤ人が他より優れた神に選ばれし民族であることを学び、軍隊に入ったときに配られる「軍隊仕様」の旧約聖書の冒頭にある「旧約聖書を勉強することによって、私たちユダヤ民族の起源とつながることになり、これによってより良い民族と軍隊を作ることができる」という言葉に鼓舞され、立派なユダヤ人が育っていく。

なお、これらの「兵役」についてはイスラエルでは次のようになっている。

  • 高校卒業後に、男性は3年、女性は2年の兵役に就く
  • 退役後も男性は年に一ヶ月の予備役がだいたい45歳まで続く。戦争が起きた場合は45歳までの全ての男性が招集される。
  • したがって、22歳から45歳までのほぼ全てのイスラエル人男性は毎年一ヶ月間、家を空けている。

つまり、家族で過ごしていると、「今日は予備役でお父さんは家にいないよ」ということも普通で、子どもも兵役を身近に感じることになり、戦争への抵抗感がなくなっていくという。

なお、「予備役」という仕組みはこれまであまり意識していなかったが、韓国でも2年弱の兵役後に、予備役として8年間は、1年に2日間の訓練、その後の10年間も民防衛隊で年に一度簡単な訓練を受けるというので、約20年間の服務義務を果たさなければならないようだ。*3

話は戻るが、ダニーさんの本にも「軍隊仕様」の旧約聖書について言及があった通り、イスラエルでは、宗教と軍事には強い結びつきがあると言える。
イスラム教に対しては、「聖戦」というキーワードも含め「宗教と戦争の結びつきが強い」という悪いイメージがあるが、ユダヤ教はそれ以上ということなのかもしれない。


これに関連して、先日のTBS「報道特集」で、「ユダヤ教超正統派」の特集があった。
newsdig.tbs.co.jp

彼らは、ユダヤ教の教えを守るため以下のように行動を律している。

  • 肉用と乳製品用でシンク、食器を分ける
  • 安息日(土曜日)は電子機器の電源を切る
  • メールはOKだが、インターネットやテレビは見ることができない
  • メール以外の情報は、街なかの壁新聞から情報を取る。

彼らの生活は祈りと共にあり、中には、1日あたり3~4時間祈る人もいるという。祈りの中心はイスラエル軍の全面勝利、ハマス根絶で、通常考える「宗教の祈り」のイメージと異なる。(パレスチナ連帯を願う超正統派もいるが、ごく一部のようだ)

さらに、国際法といえども人定法であり、神が与えた教えが上位に来るため、結果として、国際法を無視した行動も賞賛する。
ただし、彼らには、宗教的活動のための兵役免除の仕組みもあるというから、外部からの批判も多く、イスラエルの中心的存在とは言えないグループなのだろう。
しかし、重要なのは、多産が奨励されているため、出生率が6.7人と、イスラエル平均の3倍もあるということ。
したがって、現在は人口の16%だが、2065年までに1/3を占めると想定されているということで、全く無視できない存在だ。


ネタニヤフ政権は、政権維持のために、極右政党支持者やユダヤ教超正統派にも配慮する必要があり、「和平」の方向に舵を取れば「弱腰」と言われるから、本人が考えているよりも、どんどん右方向に旋回しているようにも見える。
アメリカも、バイデン本人の考えというよりは、支持者への目配せから、イスラエル支持の立場を取り下げることが出来ないのだろう。*4


本の後半では、ダニーさんは、日本の現状をイスラエルと重ねてみて、日本の将来に危機感を抱き、反戦や反原発の活動を始める。


確かに、こういった(悪いとわかっていても止められない)柔軟性を欠く政治判断や、軍国主義的な考え方、軍隊的な教育への要望は、日本国内でも見られるし、周辺国を下に見て日本は優れた国だ、と考える人は、かなりの数いることも確かだ。
しかし、そうだとしても、今回のパレスチナへの仕打ちはやはり酷過ぎるし、さすがに日本もここまではしない!


…と思っていた。
が、別の本の文章を見て、日本人も同じだった、と思ってしまった。

たびたび深刻な人権侵害が指摘される入管について、私はずっと不思議に思っていた。入管の背後に誰か黒幕がいて、その人物に指示されて問題が起きているならわかりやすい。だが、どうやらそうではないらしい。

実際は、入管に勤めると多くの人は職場の雰囲気に染まってしまうようなのだ。そして、その体質に耐えられない人たちは辞めていく。児玉は入管の体質を「入管文化」と呼んでいる。日本は敗戦後も旧植民地時代の朝鮮半島の人々を長崎の大村入管に収容した。そして、その悪しき文化はいまだに受け継がれ、連綿と続いているという。

佐々涼子『ボーダー 移民と難民』p115

そうだった。


自分も日本の入管の状況を本で読み、ニュース映像で見て、「何故?」と思っていたのだった。
イスラエルパレスチナに対する仕打ちに対して感じるのと同じように。


入管を支持する人達に言わせれば、在留資格のない外国人は絶対悪で、入管が正義。
善人に見える外国人がいても、それは「偽装難民」だ、と決めつける。
その空気にしたがって国は入管法改正案を通し、排外主義的な発言を繰り返す与党政治家は何の処分も受けない。
ここだけ取り出してみれば、現在のイスラエルパレスチナに対する考えと大きく変わらないようにも見える。
現在の日本の教育は、そこまで間違っていないし、全体数で言えば、いわゆる「右派」が絶対多数とは思えないのだが、今の与党である自民党の空気がそうさせているのだろうか。


最初の疑問に戻るが、確かに、イスラエルは国として「ガザ虐殺で正当性を主張」しているように見える。
それは、日本が国として「難民を受け入れようとしない」のと同じことなのかもしれない。
つまり、政権維持などの目的のために、国としての主張が、大多数の国民の意見を代表しているというよりは、右寄りの国民への配慮によって成立しているという要素も無視できないだろう。
ただし、イスラエルには「右寄り」に世論が傾きやすい条件が揃っているということは言える。特に、教育、政治は大きい。
日本がそういう方向に進まないように、国内政治にも危機感を持って見続ける必要がある。

これから読む本

スタート地点のイスラエルから大きく離れて、改めて宿題が増えてしまった気がするが、日本の状況との比較から言っても、国としての主張は、国内の政治状況や宗教的背景なども抑えておかなければ理解しにくいものであることを改めて感じた。

イスラエルについては、基礎的な勉強が不足しているし、短いスパンで、さらに状況が大きく変化する可能性もあり、年内にも、もう少し本や映像作品を見て見識を深めたい。


*1:民族浄化」という言葉も用いられる。個人的な感覚では「民族浄化」の方が字面の意味がわかるので「苛烈」な言葉にも聴こえるが、この言葉を「ジェノサイド」の言葉を優ソフトに言いかえていると非難する人もいる。難しい。

*2:ゴルダ・メイアについては伝記映画もあるようなので観てみたい。

*3:https://www.konest.com/contents/korean_life_detail.html?id=557

*4:なお、キリスト教シオニズムという考え方を最近、知った。シオニズムユダヤ教独自の考えと思っていたが、福音派の人たちは、ユダヤ人がパレスチナに移住することを良しとするようだ。

湘南は晴れているか(湘南国際マラソンレビュー)(その2)

あらすじ(昨年までの湘南国際マラソンの成績)

前回書いた(1)は以下。
pocari.hatenablog.com


さて、2022年に書いた(1)から1年間時間が空いてしまったが、あらすじは以下の通り。
湘南国際マラソンは、初参加での2015年のサブ4達成から2018年のサブ3.5達成まで順調に成績を伸ばした後、記録が伸びないままコロナに突入。
奮起して準備万端で臨んだ2022年は、何とかサブ4はできたが、2016-2018の記録に及ばない3時間50分台。
2022年の湘南は「晴れていたか?」と問われれば、曇天でした。

  • 2015年:3時間57分台
  • 2016年:3時間42分台
  • 2017年:3時間39分台
  • 2018年:3時間29分台
  • 2019年:4時間15分台
  • 2020~2021年:コロナで中止
  • 2022年:3時間50分台

2019年以降の全レースに共通する最大の問題点は、25㎞以降で突如現れる後半での大ブレーキ。
この、マラソンイップス」を克服し、かつての栄光は取り戻せるのか?

レーニング(10月)

これまで年間通じて、基本的に土日の2日間のみ(平日の練習はなし)でずっとやって来た。本番前直前以外はあまりペースを気にせず20キロくらい走って電車で帰るパターン(真冬を除く)が多い。
今年5月に自転車を購入してからは、片方を自転車(60~90kmくらい)、片方をラン(20kmくらい)の二刀流となったのが従来との大きな変化。自転車とランでは使う筋肉が異なる気がするが、その分バランスが取れて良いのでは?と思っていた。


そもそも今年は夏を過ぎても暑過ぎて、なかなかマラソン練習という気になれなかったが、大会を意識してのトレーニングは10/7土からスタート。
この日は朝は21キロ走ったが、夕方に「湘南国際マラソン大会公式練習会」なるものに参加。最初30分は原宿のNORTHFACEでウルトラランナーみゃこさん*1による座学、残りは代々木公園で実走。
ここで何かを掴んだということは無いが、同じくらいのレベルの人たちと一緒に練習し、話をしたりすることで気持ち的にスイッチが入ったのが大きい。
実走は4kmを2回だったが、2回目はキロ4分45秒という普段走ることのない速めのペース。ただ、4㎞であればこのペースは余裕だったのが新たな発見だった。


なお、座学の中で、「温冷交代浴」が疲労回復に効果がある、ということを知る。その後、実際にやってみると効果があるような気がして続けている。
あと、他の人たちは、ほとんどの人がラン用の腕時計をしていた。自分は時計を持たずに走るため、ペースキープはアプリ「Runkeeper」が1分毎に教えてくれる時間のみ。
買った方が良さそうな気がするが、結構高いからなあ…。(結局買えなかった)


さて、一週間後の10/14から練習を本格スタート*2
すると、久々の尾根幹コース*325kmをキロ5分15秒ペース、かつ、後半も全くペースが落ちないという好記録だったので大満足。


さらに翌週(10/21)は尾根幹+αコース28kmをキロ5分12秒ペースで好記録が続いたため、自転車との二刀流は間違っていなかった!と自信を深める。なお、翌日に、自転車で大垂水峠リベンジで92kmを無難に走り、自信過剰になっていた。


そして、10/29にステップレース*4として申し込んでいた水戸黄門漫遊マラソンに参加。
後述するが、目標としていたサブ4にも届かず、ボロボロになり、打ちひしがれる。
水戸は「晴れていたか」と問われれば「どしゃ降り」でした。
このままではまずいと、湘南国際マラソンまで自転車は封印することとなった。

レーニング(11月)

心機一転の11月は、土日の片方を長距離じゃないラン、もう片方を20キロ程度走った。
11/3祝は、尾根幹ではないフラットコースでハーフを102分。サブ100を目指していたが、キロ4分52秒なので上出来。でも、(弱点は25㎞以降なので)この距離では自信にならない。
11/4は坂道ダッシュ10本を含む7キロラン。
11/5は、あまり記録を意識せずに、久しぶりのよみうりランド~生田緑地コースをキロ6分ペース。ただ、Twitterを読み直すと、疲れている状態でもサブ4ペース(キロ5分35秒くらい)を確保したかったようでガッカリしている。
11/11は、大体家族で参加している味スタの京王駅伝で、年に一度の6km*5本気走り。
実は、昨年はこのペースが以前と比べて遅かったので気になっていたレース。結果は6kmをキロ4分4秒で、過去の記録に戻って満足。
ちなみにこれまでの記録は以下の通り。(こう見ると、サブ3.5を達成した2018年の好調ぶりがよくわかる)

  • 2017年 キロ4分04秒
  • 2018年 キロ4分00秒
  • 2022年 キロ4分27秒


そして、この翌日(11/12)に、改めて挑戦した尾根幹+α28kmで、キロ4分52秒という、かつてない好タイムを叩き出し、長距離にも自信を持つ。そもそも高低差のある尾根幹コースは距離的には28kmでも、湘南国際マラソンのようなフラットコースで考えると、1割増しの31kmくらいは、このペースで走れることを期待できるだろう。

また、前日の走行距離との関連から、長距離走の前日にダッシュ系を6~7キロというのがベストなのではないか、ということを学んだ。
ところが翌週は、11/19に、短距離に抑えるつもりが17km(1キロダッシュ×5本を含む)を走ってしまい、そのせいなのか翌日の11/20の尾根幹26kmは、後半完全に失速するパターンに陥る。(平均はキロ5分18秒だが、後半は6分近い)


11/23祝は最初から足が重く21km をキロ5分30秒。
このあと振り返って考えると、前日11/22の飲酒が効いている可能性がある。後半失速パターンの11/19も11/17に飲酒している。元々レース直前はお酒を絶つようにしていたが、やはり気を付ける必要がありそうだ。


11/25は1キロダッシュ×3本を含む7km 。
ちなみにアプリRunkeeperで1kmごとに走行距離やペースを言ってもらうようにしているので、1kmダッシュして1km流して、という形で行っている。(本当はインターバルを短くしても良い気がする。)前述の通り、リアルタイムでのペースは確認しておらず、あとから確認すると、結局ダッシュの1kmは、速いところ遅いところを馴らしてキロ4分ぴたりくらいになっている。


11/26は尾根幹26kmをキロ4分58秒。本当は2週間前11/12のような超人的タイムを叩き出して本番1週前練習を終えたかったが、これなら本番も大丈夫なはずと言い聞かせる。

12/2は本番前日のため、1キロダッシュ4本を含む7km。

S4の導入

ちなみに、通常は土日それぞれで常時2足用意しているが、それまでのメインシューズはアシックスのハイパースピード。(サブでホカオネオネのリンコン
多分2018年のサブ3.5はアシックスのスカイセンサーグライド(「翔走」と書いてあるやつ)。
スカイセンサーグライドが廃番になってからずっとハイパースピードを履いていた(何しろ安いので)が、新デザインで好きな黄~橙系が無い。上位のマジックスピードも考えたが、こちらもカラーリングが同じ。
結局好きな「黄色」があるという一点で、初の定価2万円越えシューズ「S4」への変更を決定した。なお、カーボンプレート入りシューズは、フォアフットで走れる上級者でないと意味がないと思っていたが、S4は、もっと雑な走り方でも大丈夫そうだと感じたのも大きい。(その後、川内優輝選手が、奥さんがS4を履いていてオススメしているとTwitterにあり、選択の正しさが証明されたように思った。*6


…のだが、結局「黄」は、どこの店も売り切れで、「ピンク」を購入。

体重

フルマラソン前日の自分のベスト体重は61kgくらいかと思っている。
ところが水戸漫遊マラソンのときは62~63kgで、後半失速は、1~2kgの体重増が影響している可能性があり、10/29→12/3のおよそ1か月で1kgは減量を行うことに決めた。
とは言っても、「なるべく食べないようにする/快便を心掛ける」という程度しか行っていることは無い。お酒は昨年はレース前1か月間は完全断酒。今年は、もう少しルールを緩めた。
結果として前日体重は概ね61kgまで下げることができた。


良し、これなら…!!(つづく)

参考(過去日記)

この記事のタイトルは、深緑野分『ベルリンは晴れているか』からなのですが、そもそも『パリは燃えているか』から取っていますか?最近になってやっと気がついた。
pocari.hatenablog.com
pocari.hatenablog.com
pocari.hatenablog.com

*1:ウルトラランナーみゃこ - YouTube

*2:このタイミングで、カーボンプレート入りのアシックスS4を導入

*3:昨年書いた(1)の方にも詳しく書いているが、2022年から定番化したコースで多摩川~尾根幹~相模原駅橋本駅の約25~26km。+αコースとして相模原駅ではなく隣の矢部駅まで遠回りする約28~29kmのコースを今年導入した。

*4:ステップレースという言葉は競馬用語のようで、通常このように使うのかは不明です。いわゆる「一戦叩いておいて」というレースです。

*5:10kmを3人で走り、我が家は2km+2km+6kmとしているため

*6:https://twitter.com/kawauchi2019/status/1721028518136734032

先の読めない超展開ミステリ!でもこれでいいの?~染井為人『悪い夏』

26歳の守は生活保護受給者のもとを回るケースワーカー。同僚が生活保護の打ち切りをチラつかせ、ケースの女性に肉体関係を迫っていると知った守は、真相を確かめようと女性の家を訪ねる。しかし、その出会いをきっかけに普通の世界から足を踏み外して――。生活保護を不正受給する小悪党、貧困にあえぐシングルマザー、東京進出を目論む地方ヤクザ。加速する負の連鎖が、守を凄絶な悲劇へ叩き堕とす! 第37回横溝ミステリ大賞優秀賞受賞作。


生活保護をめぐるミステリと聞けば社会派なのか、と思って読み始めるとすぐに違和感を覚えた。
今年は、相場英雄『アンダークラス』、あさのあつこ『彼女が知らない隣人たち』と2冊、技能実習生制度(外国人労働者)を題材にした小説を読んだが、当然どちらも制度の問題点を指摘するような内容で、今回も生活保護制度の問題点に切り込むような内容を想定していたが、その予想が裏切られる形だ。
主人公は市役所職員でケースワーカ―の守だが、登場する生活保護受給者はケースワーカーを困らせるタイプばかり。
「何とか働かず今の生活のままで行きたい受給者」VS「不適切な需給を停止したいケースワーカー」という両者のやり取りが目立つ内容で、いわゆる「生活保護バッシング」を助長してしまうような話の流れに、大丈夫かな…と思いながら読み進める。

以下ネタバレ

そんな風に思っていたら、守は、敵の戦略にハマって、生活保護受給者の愛美に好意を抱く流れに。
愛美の幼い娘・美空にも気に入られながら、同棲まで進んでしまい、もう既に生活保護制度の云々を言うには突飛すぎる展開になってしまった。
全く先が読めない中、2人が相思相愛の関係になってきたので、このままラブストーリー的に盛り上がっても良し!
…と覚悟したところで、守がシャブ漬けにされてしまうという悪夢のような展開。

走った。
青空と太陽の下、守はめいっぱい腕を振り、全力で走った。
誰かにぶつかった。文句が背中に降りかかる。もちろん振り返らない。脇目も振らず、赤信号の横断歩道を駆け抜ける。甲高いクラクションが辺りに鳴り響いた。
今、自分を取り巻くこの現実がすべて夢であってほしい。いや、きっと夢なのだろう。暑すぎる夏が、悪い夢を見せているのだ。(p310)

もはや主人公が使い物にならなくなってしまってから主体的に物語を駆動するのは、生活保護受給者で、MDMAの売人をして稼ぐ山田。しばらくは、狭いアパートでの、山田、守、愛美、美空の4人での共同生活が続く。
そして、クライマックス。
4人の部屋を(物語を途中退場していた)守の同僚の宮田有子、元同僚の高野が訪れ、最後に、すべての元凶であるヤクザの金本までが大集合して、ほとんど笑ってしまうような、衝撃の全員同時ノックアウトのラスト。

これでいいの?

全く先が読めなかった割には、終わってみればある程度筋が通った話になっていて、着地も素晴らしい。
エンタメとしては抜群に面白く、むしろ喜劇として割り切れる話なので、途轍もなく可哀想な話だが、後味もそれほど悪くない。


ただ、「生活保護」という問題の取り上げ方としてはどうだろうか。


はっきり言って、ページをめくる手が止まらないほど面白い小説だった。
しかし、「生活保護」を題材にしておきながら、生活保護バッシングを助長するような内容なのは、(むしろ、そこが一番「騙された」部分なのだが)作劇として正しいのだろうか?という疑問も抱いてしまう。


ケースワーカーの仕事が嫌になってきたと漏らす守(すでに薬物中毒)に、ヤクザの金本が生活保護についての正論を吐く部分がある。
物語の一番の悪役に、唯一の「社会派テーマらしいセリフ」を言わせるところが、また嫌らしいところだ。(「生活保護制度の問題点はわかってますよ」と、涼しい顔で嘯く作者の顔が見えるようだ)

「あんた、不正受給を蔑んでるんだろう。だから疲れるんだ。おれはちがう。不正受給を正しいと思ってる。不正だと思ってないんだ。いいか、今の日本の劣悪な就労環境で、自力で生計を立てろなんてのがまずおかしいと思わないか。底辺の人間が職に就いても得られる給与は生活保護より低いのが現実だろう。最低限の社会保障すらない。その現実に目をつむって、理想社会を説いてもそれはまやかしであり、ごまかしだ。つまり世間は、『生活保護を貰ってる奴らは、楽して金を得てずるい』ではなく、『一生懸命働いてるのに生活保護世帯よりも安い賃金しか貰えない社会はおかしい』と考えるべきなんだ。どうだ、批判の矛先は国に向かなきゃ嘘だろう。あんたに限らず、みんな勘違いしてるし、間違ってんだ。反論があるなら言ってみろ。佐々木さんよ、おれはな、今の社会状況なら底辺は皆こぞって生活保護を申請すべきだと思っている。それが国民としての当然の権利だろう。そしてそれがこの矛盾したシステムを作った国に対する一番の圧力になるんだ。(P320)


作者によるあとがきには、やはり「生活保護制度」そのものへの言及はなく、次のように文章を締める。参考文献の記載は、ない。

人生という物語の主人公はいつだって己であり、荷が重かろうとも降板することなどできません。これこそまさに悲劇であり、それと同時に喜劇ともいえます。
そしてそんな誰かの物語の一端を覗いてみたくてわたしはこの仕事をしているのかもしれません。これもまた悲劇であり、喜劇なのでしょう。
そんなわたしの描く「悲劇」と「喜劇」にこれからもお付き合いをいただけたら幸いです。

調べてみると、「芸能マネージャー、舞台演劇・ミュージカルプロデューサーを経て作家デビュー」とのことなので、「面白く見せる」技術に長けた人なのだろう。
最新作の『黒い糸』までの著作も、高齢者による自動車事故、新興宗教、ユーチューバーによる社会制裁など、取り上げる題材がとてもキャッチーで、あらすじとタイトルだけで惹きつけられる。「悲劇」と「喜劇」を自由自在に操れる自信のある人なのかもしれない。


しかし、人生という物語が悲劇になるか喜劇になるのかを決める決定的な要因が、登場人物自身にではなく、明らかに問題のある法制度や偏見、社会習慣にある場合、それを甘んじて受け入れたままでは、読者は、その「劇」を心の底からは楽しめないのではないだろうか。
社会問題を題材にした小説であれば、十分な取材をした上で、そこに誠実に向き合い、作家自身がどう考えているのかを作品内に込めてほしい。そう思ってしまう。相場英雄『アンダークラス』が、その点で非常によくできた小説だったので、『悪い夏』には特に物足りなさを感じてしまった。


ということで、モヤモヤは残りますが、染井為人は、これがデビュー作であり、近作になれば、また印象は変わるのかもしれず、今後読んでいくのが楽しみな作家が増えて満足です。
次は、私人逮捕系Youtuberが先日話題になっていたこともあり、『正義の申し子』、あたりが気になります。

また、そもそも、生活保護制度に関する知識をフィクションに求めるのは間違っているので、自分なりに制度についての本も読んで勉強してみたい。


なお、『悪い夏』は映画化が決定しているとのこと。
生活保護をめぐる描写について改善はあるのか、が気になりますが、主人公らしさのない主人公・守をどんな人が演じるのか、が特に楽しみです。


世界は変わる、変えられる〜ドキュメンタリー映画『燃えあがる女性記者たち』

ドキュメンタリー映画ではあるが、キャラクターが立っており、その特殊な状況から、メイン登場人物たちが、最後まで無事でいられるのか、ハラハラしながら観た。
映画で特にスポットが当たるのは、新聞社「カバル・ラハリヤ」のミーラ、スニータ、シャームカリの3人の女性記者。監督(インドの映画製作者リントゥ・トーマス&スシュミト・ゴーシュ:夫婦2名での共同監督)は、3人について独占的に撮影する契約を交わしてから、4年をかけて撮影をしている。

  • 映画の実質的な主役であるミーラは、紙媒体からデジタルに移行するプロジェクトのリーダー役で、子育て、家事もこなしながら、あちこちを飛び回る。
  • スニータは有能な若手記者。他の2人と違って未婚だったが、終わりの方で結婚に関するエピソードが出てくる。インドでの結婚観、女性の悩みがよくわかる話だった。
  • 3人目で一番地味なシャームカリは応援したくなるタイプ。最初「スマホの触り方がわからない」と言っていたが、その後、そもそもアルファベットが読めない(ヒンディー語しかわからない)ので、全部英語のスマホに対応できないことが明かされる。その後、メキメキと力をつけ、難しい取材もこなせるようになる。

被差別カーストの問題

今回、「インドの女性新聞記者を扱ったドキュメンタリー映画」という認識で観に行ったのだが、映画内の説明で、彼女たち(の大半)が被差別カースト(ダリットもしくはダリト)出身であるという、さらなる追加要素を知る。
ダリットはインドのカースト制度のさらに外側(最下層)に位置する身分。以前読んだ本(『13億人のトイレ 下から見た経済大国インド』)でも言及があり、そこでは、下水道やトイレの清掃の職にしか就けない、というような書き方がされていた。新聞記者のような職業選択が可能というイメージが全くなかったので、まずそこに驚いた。
ところが、パンフレットを読みさらに驚く。ダリットはインド人口の16.6%を占める(2011年国勢調査*1というのだ。インドの2011年人口12.6億(2023年では14.3億人!)で計算すると、ダリットの人がおよそ2億人もいることになる。
前述の本には「インド全体で16万人の女性たちが、(労働環境が一番厳しい)乾式トイレの清掃に従事している」という記載があったが、そういった職に必要な人数よりもずっと多くの人がダリットに属しているようだ。

映画の中では、ダリットについての直接的な言及や説明はないが、主役のミーラが、娘から学校で「名簿に書かれた出自(ジャーティ)の欄を見られた」という悩みを打ち明けられる場面がある。
また、モディ首相のトイレ政策はうわべだけで、実際には外で用を足している人が多いという(本に載っていた)話も出てきた。これも、特にダリットが住む地域のことを指している話のようだ。
ただ、ここで取り上げられる「差別」は、出自が問題での差別なのか、女性差別なのか、映画を見ただけでは判断がつきにくく、登場人物も(ミーラ以外は)女性記者のどの程度がダリットの人たちかは示されない。
差別をめぐる詳しい国内事情は、もう少し別の本などで勉強しなければならないと感じた。
pocari.hatenablog.com

インドの政治

「カバル・ラハリヤ」は、基本的には地元のニュースを追うメディアだが、映画の後半に行くにしたがって、政治を扱う割合が増え、最後には2019年の総選挙の様子を追う。選挙ではモディ氏率いるインド人民党が圧勝したが、インド人民党の活動が非常に宗教色をアピールしたものであることに驚く。
例えば、2017年の州選挙のキャンペーンも、2019年の総選挙のキャンペーンも、ラーマ神の誕生日の祝賀パレードが重要な要素になっていた。それに気づくと、RRRのクライマックスのラーマの活躍も、政治的な要素が含まれていなかったのか、ちょっと考えてしまう。


若くして政治の世界(日本でいう自民党青年支部みたいなイメージ)に飛び込んだサティヤムもまた、4年間の撮影期間の中で何度か取り上げられる。彼は何かというと牛のことを語り出し、牛舎を建てることに精を出すなど、ヒンドゥー教への熱意を感じさせる一方、排他主義的な志向も隠さない。

宗教の話になりますが、人はラーマ神やシヴァ神など神々に尽くす立場にあります。 母なる雌牛1頭には、3億3千万の神が宿る。考えてみてください。1頭の雌牛を守れば、3億3千万もの神々から祝福を得られるんです。よきヒンドゥー教徒であれば、国も自然とよくなる。村のイスラム教徒はこの考え方を嫌い、アッラーに僕の死を願っています。だから僕は24時間これ(大刀)が手放せません。

このあたりの政治の動きを考える視点については、ミーラとカヴィタが、動画チャンネル内で取り上げている。

ミーラ:教育・医療・雇用が足りていない状況がある。若者が語るべきは、そういう問題です。しかし現実はどうでしょう。政府が純粋な意味で牛を保護するわけがない。牛のことは建て前であり、恣意や腐敗の「隠れみの」に過ぎません。
カヴィタ:現行政府の狙いは、人々を対立させることです。政府の責任が問われないように、矛先を転じているのです。  

女性差別、反フェミニズム

上の動画チャンネルに付いたコメントについてもカメラが追いかける。

フェイクニュースだ"
"お前が宗教を語るなクソ女"
"こういうフェミ連中は毎晩べつの男と寝る"

これは一例で、映画の中では、女性記者が警察や政治家の男性たちから素っ気ない扱いをされる様子が何度も映し出される。
特に、「ラーマ神の祝賀は名目で、実際には総選挙のためですよね」と、人民党の関係者に詰め寄るシーンでは、周囲を囲う野次馬男性たちがニヤニヤしたり拍手をしたりと、正面から向き合わず、ひたすら攻撃的で、見ていて恥ずかしい。しかしこれは、日本のTwitterでも日々見る景色で、ちょうど数日前に、塩村あやか議員の「プロレス」発言に、新日本プロレスなどのプロレス団体が抗議文書を送ったことと重なる。


ただ、映画で最も強調される女性差別は、冒頭から繰り返し扱われる強姦と殺人だ。
夫が留守にしている自宅で複数回に渡って強姦されているのに、警察が取り調べてもくれない、むしろ夫も含めて暴力を振るわれる、というのは悪夢のよう。
一方で、このような事件を取材しているのが女性記者(しかもダリットの)であることは本当にすごいことだ。確かに「救いの手を差し伸べることが出来るのは私たちだけ」という自負があるからできることなのだろうが、映画の中で、誰かが犠牲になってしまうのでは?とずっとハラハラし通しだった。
さらにテロップでは「2014年以降、40人の記者が殺されているインドでは、ジャーナリズムは命懸けの闘いである」と示されるが、そういう状況にありながら、彼女たちは政治への取材もやめない。
冒頭でミーラが語る言葉には青臭さも感じていたが、映画を見終えると、単なる言葉ではなく、行動に裏付けられた信念であることを知る。色々なものが相対化され過ぎて、ジャーナリズムでさえ「それってあなたの感想でしょ」と言われかねない日本においては、読み手も信念をもって情報を追う必要を感じた。

 ジャーナリズムは、民主主義の源だと思う。権利を求める人々の声を、メディアは行政まで届けることができるの。人権を守る力があるからには、それを人々の役に立てるべきだと思う。責任を持って、正しく力を使うの。でなきゃ、メディアも他の企業と同じ、単なるお金もうけになってしまう。  

パンフレットからの補足情報

パンフレットの内容が非常に充実していた。

  • 『福田村事件』でも脚本が収録されていたが、今回、写真入りでの「採録シナリオ」があり、映画を思い出すのに非常に役に立った。
  • 監督インタビューは4ページ。終わりの言葉が素晴らしい

私たちが生きるこの世界は、途方もなく複雑になり、分極化しています。そんな中、「行動によって物事をよくすることができるんだ」「現実は変えられるんだ」という熱い確信に満ちた物語が今、本当に必要だと感じています。何より、世界に類を見ないほど厳しい現実を生きてきた有色人種の女性たちこそ、最高の導き手ではないでしょうか。

  • インド映画紹介の稲垣紀子さんのコラム、アジア映画研究者でインド映画字幕も多数担当する松岡環さん、東大大学院情報学環教授の林香里さん、ライターのISOさんの寄稿も非常に読み応えがある。

この中では、林香里さんが『インド残酷物語』(2021年)と合わせて参考図書に挙げるマリア・レッサ『偽情報と独裁者』(2023年)に興味を持った。2021年にノーベル平和賞を受賞したマリア・レッサは、フィリピンのニュースサイト「ラップラー」を立ち上げ、ドゥテルテ政権に執拗に攻撃されたという。
同様のことは、カバル・ラハリヤが今後インドで発展をした場合に生じうる事態で、これを避けるためには、国際社会の支持や監視が必要としている。林さん自身にも『ジェンダーで学ぶメディア論』や『メディア不信』などの著書があり、合わせて確認したい。

最後に

いつも書いていることと同じことを書くが、今後、インドの政治状況に関するニュースを見れば、彼女たち女性記者のことを思い出すことになりそうだ。

『マイスモールランド』のときにも書いたが、良い映画の登場人物は、その後も観た人の心の中で生き続けると思う。瑛太の台詞が直接意味をなす場面は、当然今後の人生には現れないだろうが、それでも何かのときには、自分の心の奥底では、彼の言葉が「反差別」の核として生き続けるだろう。また行商団の中で生き残った「松本穂香似の少年」の、悲しみに満ちた目もずっと心に残るだろう。
そんな映画でした。
「道徳」的な映画だろうと思って観たら今年ベスト~森達也監督『福田村事件』 - Yondaful Days!

ただ、『マイスモールランド』や『福田村事件』、また、4月に見たアリ・アッバシ『聖地には蜘蛛が巣を張る』と異なるのは、今回がドキュメンタリー作品であること。
福田村事件のパンフレットで忘れられないのは、佐伯俊道さん(脚本)と市川正博さん(福田村事件追悼慰霊碑保存会代表)の対談で、市川さんが、映画についてひたすら批判する部分。
いわく、事実とフィクションを明確に分けないと、正しく伝わらない。加害者遺族、被害者遺族が今もいる事件なので正確に伝えるべき、と。
確かに、『福田村事件』は、商業作品として十分過ぎるほどわかりやすく面白いが、エンタメに偏った面は否めない。また、『聖地には蜘蛛が巣を張る』も、「わかりやすさ」を重視し、テーマを伝えるための脚色が多かったと言えるだろう。
したがって、これらの映画の登場人物たちが、観た人の心に残るのは、テーマが強調されたフィクションならではという部分はある。


しかし、今回の場合、3人の女性記者たちは、心の中にではなく、今この時間にも同じ地球上で活動をしている。
Youtubeで「Khabar Lahariya(カバル・ラハリヤ)」と検索すると、すぐにシャームカリによる取材報告の映像が出てきた。
www.youtube.com

2016年のカバル・ラハリヤのネット移行期には、スマホをいじることも出来なかった彼女が…と思うと、本当に感慨深い。と同時に、自分もできる、変われる、変えることが出来る、と勇気づけられた。


ちょうど、日曜日に公開されたTBSの『旧ジャニーズ事務所問題に関する特別調査報告』*2の中では、わかっていながらこの問題をTBSが放置し続けた件について「主体的に社会問題や不正を探し出す「調査報道」ではなく、記者クラブで捜査機関などの動向を追いかける日本のジャーナリズムのあり方」にも原因を求めている。
まさに、「調査報道」に振り切った存在である「カバル・ラハリヤ」に、日本のジャーナリズムが学ぶべきところは沢山あると感じた。


ということで、ドキュメンタリー映画って面白い!と改めて思えたし、勉強したいことが増えることは良いことだ。
アトロクで何度も紹介されているアジアン・ドキュメンタリーズは、観たい作品も多いし、仕事が忙しくなくなった年度明けに登録した方が良いかな。
asiandocs.co.jp

原作小説の「アンチ多様性」要素は映画でどう表現されたか~岸善幸監督『正欲』

原作小説を読み返して

今回は、映画公開に備えて原作小説を読み返してみると大きな発見があった。
前回読んだときの感想は、その後、ビブリオバトルで発表することも考慮して、後半部のストーリーを避けるようなまとめ方をしていた。
pocari.hatenablog.com

しかし、自分の書いた感想に引っ張られ、世間一般に溢れる「多様性」へのいら立ち、いわば「アンチ多様性」(冒頭の佐々木佳道による文章など)が物語の根幹だと勘違いしたままになっていた。背表紙にも引用されている諸橋大也の台詞が「アンチ多様性」の典型だ。

自分が想像できる”多様性”だけ礼賛して秩序整えた気分になってそりゃ気持ちいいよな

確かにその部分は核にあるのだが、後半のクライマックスにある「小説的大逆転」こそが作者の伝えたいメッセージのはずだ。それも含め、今回、全体として、朝井リョウがこう読ませたかった設計図が理解できた気がした。
この小説の「設計図」はこんな感じではないだろうか。

  • 対象読者層はA,B双方を想定している
    • A.多様性への配慮は不要と考えるマジョリティ層(いわばアンチ「マイノリティ」)
    • B.多様性の重要性について理解しつつも、「多様性」「ダイバーシティ」などの言葉をもてはやす世間に対する違和感を持っている層(アンチ多様性)
  • 作中でも、Aの考え方をする代表として検事の寺井啓喜を配置。多数派こそを良しとする彼の考え方は、息子の不登校に柔軟に対処しようとする妻からも否定されるが、日本社会においては一般的な考え方。
  • 次に、Aだけでなく、(マイノリティに比較的理解がある)Bにとっても理解しづらい特殊なマイノリティとして、桐生夏月、佐々木佳道などのメインキャラクターを配置し、日常的に感じている疎外感に繰り返し触れ、彼らに感情移入(もしくは考え方を理解)してもらう。
  • 一方で、Bの層が違和感を覚える「世間」を擬人化した存在として、八重子やダイバーシティフェスの関係者を配置し、過剰に「アップデート」等の言葉を語らせ、代表的存在である八重子に苛々が募るように仕掛ける。(ミスリーディング)
  • このお膳立てが済んでから、考え方の異なる登場人物群の直接対決として諸橋大也VS神戸八重子を描く。女性に興味がない大也をゲイだと決めつけて上から目線で理解し、受け入れようとする八重子。そういった態度で接してくる世間に対して苛立ちが募る大也。
  • …という流れで物語を理解させ、全体的な流れとして、「多様性」をもてはやす世間=八重子に一泡吹かせる展開かと思いきや、大也は八重子の反撃に遭い、その後はノーガードの応酬が続き、「多様性を考える」とはどういうことか、1レベル深い階層に読者の思考を促す。この小説の一番のクライマックス。ここは言うなれば「アンチ多様性VSビヨンド多様性」。
  • 一方、考え方の異なる登場人物群の直接対決のもうひとつは、寺井VS夏月。マイノリティを「異常」と捉える意固地な寺井が少しずつ考え方を変えるように見える場面。ここはシンプルに「マジョリティVS超マイノリティ」の対決だ。


前回読んだときは、佐々木佳道や諸橋大也の台詞に協調する部分が多かったこともあり、過剰に佐々木、夏月、諸橋のマイノリティ・グループに肩入れした感想を持ってしまった。それだけに、読み返してみて、マイノリティではない八重子の反撃のインパクトについて驚いた。
八重子は、「誰も傷つかない多様性」ではなく、ノーガードで撃ち合い、お互いが傷つく、いわば「ビヨンド多様性」(理想の多様性)を志そうとする。
これこそが、原作小説の到達点と考える。

「苦しみには色んな種類があってさ、みんな自分の抱える苦しみに呑み込まれないように生きていきたいだけじゃん。私たちがそうすることで何かが脅かされるって言うんだったらさ、教えてよ。話してよ。何なの、俺らの気持ちわかるかよとか言って閉ざしてさ。わかんないよ。わかるわけないじゃん。わかんないからこうやってもっと話そうとしてるんじゃん!」

「ほっといてくれとか言うけどさ、そんなのそっちの勝手な論理だから。あんたがどんな性癖か知らないし、迷惑かけないようにしてきたつもりかもしないけど、それでも規制されたんだったらどっかで誰かを一方的に消費してたんじゃないの?対等じゃない部分があったんじゃないの?」(p450)

「面倒くさいなーもう!」
その声は、自転車のベルよりも、車のエンジンよりも、開閉するポストの扉よりも何よりも大きく住宅街に響き渡った。
「何から話していいのかわからいなら、何からでも話していこうよ!もっとこうして話せばよかったんだよ、きっと。私も色々勘違いしてたし、今でも誤解してることいっぱいあると思う。でも、もうあなたが抱えてるものを理解したいとか思うのはやめる。ただ、人とは違うものを抱えながら生きていくってことについては、きっともっと話し合えることがあるよ」(p458)


東畑開人による文庫解説は、こういった構造も含めて神がかり的にわかりやすい内容で素晴らしい。ここでは、『正欲』の「小説的逆転」を2段階(東畑開人いわく「小説的逆転」「小説的大逆転」)のものとして説明される。

  1. 夏月と佳道が共同生活を始めることで、死にたかった2人に、今まで小さな「正しさ」が発生し、「明日死なないこと」を思う気持ちが芽生えてくる。
  2. 同様に、(世間に背を向け)同じグループでの「正しさ」を築こうと決めた大也に、つまりは「小さな世界に閉じこもろうとする」大也に、八重子がストップをかけ、「もっと話し合えることがある」と、「その先」(ビヨンド多様性)を促す。

言われてみるとその通りで、佳道・夏月の見つけた「正解」があるからこそ、それを良しとしない、大也VS八重子の話が光る。さらに言えば、この2つの「逆転」のあとに、佳道と大也の逮捕、という「大大逆転」というか絶望(=「正解」を打ち砕く現実の理不尽)が待っているところが、朝井リョウの意地悪なところだ。


映画を観て

映画化の話を聞いたとき、相当映像化に向かない作品だがどうするのか?と感じた。
この映画のチャレンジは大きく2つある。

  1. 主要キャラクターたちの「特殊な性癖」をどのように表現するのか?
  2. 映画オリジナルのアレンジをどう加えるのか?
  3. 限られた時間で、原作小説のメインテーマである「アンチ多様性」を表現するのに、どのエピソードを切り捨てるのか?

映画を観てみると、1つ目については、ほとんど違和感がないほど、「そういう人たちがいるもの」と感じさせる映画になっていた。


2つ目がかなり驚いたのだが、ほとんど映画オリジナルとして目立つ部分はなかったのではないか?原作との違いは、ほとんどが引き算(省略)で、足し算の部分は非常に少なかった。


そして3つ目。ここについて長く書く。
結論を言うと、映画は、「アンチ多様性」にそこまで重きを置かない。
つまり、原作で描かれた2つの対決のうち、寺井VS夏月をクライマックスに持っていき、それが映えるような映画となっている。
結果として、原作小説であれだけ読者を苛々させた八重子が映画に出演している意味がかなり薄くなってしまった点が残念だ。
大也VS八重子の対決は描かれていたが、原作の迫力はなく、どれだけの人に伝わっただろうか。


パンフレットを読むと岸監督のインタビューには以下のように書かれている。

啓喜役を演じてくれた稲垣吾郎さんに最初にお会いしたとき、こう伝えたんです。「啓喜はいわゆる大多数の側の人です。もしかしたら、マジョリティーとして観客にいちばん近い感性かもしれません」と。「観客は、初めは啓喜の感覚で観はじめるかもしれないけど、そのうち啓喜のほうがおかしいんじゃないかと見えてくる作品にしたいです」と。

また、稲垣吾郎のインタビューにもこう書かれている。

岸監督と最初にお会いしたときに、観客の大多数が啓喜に感情移入して、最後に価値観を揺り動かされるような役柄だと説明してくださったので、その過程を繊細に演じられたらいいなと思っていました。

これらを読むと、やはり、映画は、「マジョリティの観客」に対して、「夏月VS寺井」(マジョリティVS超マイノリティ)の対決を通して、多様な人の存在を理解し、想像してほしいという意図で作られているようだ。

少し話がずれるが、映画を観た感想としては、映画内での寺井(稲垣吾郎)は序盤から「家族への理解がない頭の固い父親」として描かれており共感しづらく、「観客の大多数が啓喜に感情移入して」見る状態になったのだろうか?とも思う。
原作小説では、最初はもっと寺井に感情移入しながら読んでいた。
というのも、(非常に細かいことで、どの程度理解が得られるかわからない個人的な感覚だが)最初に登場する小学生Youtuberについては、おそらく原作小説で意図され、読んだ人の大半が重ねるのは、実在する有名な小学生Youtuberだからだ。自分の子どもが、小生意気な「あの小学生」の影響を受けるなんて許せない(笑)と感じた自分は、寺井に共感していた。

映画では、小学生Youtuberが、優しそうな小学生女子なので、やや息子の泰希の肩を持ってしまう。そして、泰希役の子の演技が非常に巧かったこともあり、寺井には初登場時から共感できなかった。


なお、原作小説では、夏月の事情聴取中に、寺井が前日の妻子とのやり取りを思い出す描写が挟まれる。
これに対して、映画では、寺井と夏月は、聴取前に街なかで偶然出会っていて、その際に、妻が子どもを連れて実家に戻ってしまったことを話すくだりが追加になっていた。ここは、独白や回想シーンを入れるよりもよほど良いアレンジだった。
一方、ラストで夏月が寺井に「いなくならないから、って、伝えてください」と伝言を託すのを聞いて驚いた表情をするのは、(原作通りだが)事前に佳道から同じ言葉を聞いている状況が描かれないと意味がわからないように感じた。


原作小説では、寺井の心の揺らぎは、窃盗壁を治療する精神医療センターの見学の場面や、自身の変わった性欲の振り返りなど、多くの場面を経て、それでもなお「自分が正しい」と、弱い自分を打ち消すような様子が段階的に描かれている。

映画では、そのような場面は最小限に抑えられている。それでも、稲垣吾郎の演技に「逡巡」が表現されており、この映画でのベストアクトの新垣結衣演じる夏月との対決場面は、非常に多くのことを考えさせるシーンになっていった。


と、ここまで、監督が「マジョリティーとして観客にいちばん近い感性」があると考えた寺井について書いてきたが、やはり、問題にしたいのは、大也と八重子の方だ。
原作小説における、読者の八重子に対する感情は、寺井に対するそれと同様に両面がある。
素直で真面目で好感を持てる要素も多い反面、考え方に「お花畑」的なところがあり、その真面目さに苛立ちを感じさせる。それは、まさに大也が八重子に抱く苛立ちで、原作小説の核にあった「アンチ多様性」(=世間に溢れる「多様性」への苛立ち)と同根のものだ。
映画でも、本来それが表現されて然るべきだった。
最も問題なのは、八重子の外見や所作。映画の中での八重子は、かなり挙動不審で、表情も魅力的には描かれない。
小説ではダイバーシティフェスに関わることで彼女自身が成長し自信を持っていく様子が描かれていたが、それも省かれているため、初見の観客にとっては、正体不明の謎の女性で全く共感できない。共感した上での苛立ちも感じない。


したがって、大也VS八重子の対決にはあまりスリルを感じない。原作では、大也からの「インスタへの匿名リクエストはあんただよな」という指摘は、八重子の反撃のあとの「ノーガードの応酬」部分に置かれているが、映画版では、大也のバイト先(対決の前のシーン)と改変されているのも謎だ。
この改変で、八重子が、より共感できない「キモい」だけの人になってしまった。

さらに、大也がゲイなのでは?という噂が仲間うちで広がるエピソード*1が省かれ、「水フェチ」であることが比較的早い段階で明かされるため、2段階で「逆転」が生じる原作の良さが表し切れていない。


繰り返しになるが、やはり映画として、桐生夏月、佐々木佳道、諸橋大也3人の特殊性癖を映像として見せることを第一優先とし、最大の見せ場を「桐生夏月VS寺井啓喜」とすれば、大也、八重子のエピソードは省略せざるを得ない。
結果的に、映画は、小説のダイジェストにはなっているが、小説を読んでいない人には、作品に八重子がいる意味が理解できないだろう。
小説での八重子への応援と苛立ちの両面の感情が爆発するクライマックス。あれが映画で体験できなかったのは本当に残念だが、新垣結衣の鬼気迫る演技を観られただけでも満足するべきなのだろう。

役者陣

やはりこの映画は新垣結衣の映画だと思う。
冒頭の食事シーンから無表情。いわゆる「目が死んでる」表情。
デパートで布団を売っているときの声も低いし、Nintendo Switchの宣伝に出ている彼女とは全くの別人。「座敷女」のような背の高い怖い女性。
それが、佐々木佳道と出会い、「明日死なないこと」を考えるようになってから表情が和らぎ、一気に「いつものガッキー」に近付いていく。
だからこそ、最後の寺井との対決シーンの無表情の復活が「強い」。
「有り得ない、ですか」と、怒りというより失望を込めた寺井への言葉が、とても重く響く。
なお、そんなガッキーの高校生時代を演じた方も、ガッキーに似ているわけではないが、「夏月」として説得力があり、とても良かった。


そしてやっぱり神戸八重子役の東野絢香
原作小説を読んでいれば、そのバックグラウンドを彼女に重ねることもでき、大也との対決シーンもある程度までは気持ちを盛り上げることができた。
しかし、やはり映画では、彼女の暗い部分に焦点が当たり過ぎて、原作小説にあった、彼女の前向きな(だからこそ苛々させる)部分が削ぎ落されてしまっていた。(彼女もまた「座敷女」だった。)
ここは、役者というより演出の部分だと思うが、本当に残念。

そのほか

パンフレットが必要最小限過ぎて、やや残念でした。
また、劇場で、よくわからないところで笑っている人がいて、何というか、色んな人がいるな、と思いました。


*1:ここで、大也が「例のプール」を知らないことからそんな噂が広まる、というエピソードは、すごいところ突いてくるな!と驚いた。

父親が果たすべき役割は?~河合香織『母は死ねない』


河合香織さんは「この人の書く本はきっと自分にプラスになる」と信頼を置いている作家だ。
その信頼は、感性や能力的な部分だけでなく、人格的な部分にも及ぶ。「この人は誠実な人で、選んだテーマに安易な答えを出したりしない。また、取材する前から決めていた持論に取材内容を寄せるようなことは絶対にしない。」と自分は信じており、その信頼はいつも裏切られない。
1974年生まれで同い年である、という親近感もあるのかもしれない。


そんな彼女が今回選んだテーマは「母親」。
「母」の姿に正解なんてあるのだろうか。

このテーマは、そのように疑問を立てた時点で、「反語」的な解答がすでに出ている(つまり、正解なんてない)、という意味では面白味は無いが、今回は河合さん自身の出産、育児の悩みについて触れられた部分も多いことが特徴となっている。
しかも、取材対象は多岐に渡る。
あとがきから引用する。

ここには様々な母が登場する。わが子を殺された母や難病の子を育てる母、精子提供で子を産んだり、特別養子縁組で子をもった人もいた。夫との関係も困難で、暴力や暴言で自尊心が失われた女性たちもいた。生き抜こうともがいても、死を選んだ母もいた。
それらの姿は一見、どこか特別な人たちのように思われるかもしれない。特別な経験や悲しみ、極端な脆さや強さを抱えている人たちの、どこか遠くの出来事のように見えるかもしれない。

けれども、彼女たちは、私の友人であり、隣人である、どこにでもいる母であり、母とは何かを考える女性たちである。

グリーフケア

取材対象には、池田小事件の被害者の母親(本郷由美子さん)や、小倉美咲ちゃん事件の母親(小倉とも子さん)等、記憶に残る事件の関係者が含まれるほか、子どもの難病、中絶問題、同性婚やAID(非配偶者間人工授精)、里親制度、特別養子縁組など、単体でも一冊書けるようなテーマがずらっと並ぶ。


まず、派生的なテーマに関してグリーフケアについて感想を書く。
先にも挙げたが、子どもに不幸があった母親として、小倉とも子さん(小倉美咲ちゃんの母親)、本郷由美子さん(池田小事件の犠牲者の母親)の項があるが、共通して、姉妹の辛さについて触れられていることが興味深かった。


小倉美咲ちゃんがいなくなってから、お姉さんは気持ちが荒れ、学校にも行きたくなくなり、3か月の不登校を経験したという。

長女は妹がいなくなった当初から、学校で「美咲ちゃんのお姉ちゃんでしょう」「美咲ちゃん大丈夫?」と何度も聞かれることに苦しんでいた。
「自分が自分じゃなくなっちゃった。 大丈夫じゃないのに大丈夫って何百回言うのが嫌だ」ととも子が山梨で捜索している間、長女は祖父母の家の押し入れで毎日泣いていたという。それでも祖父母を心配させないために、学校に行きたくないとは言い出せなかった。
p81


池田小事件の犠牲者である優希ちゃんの妹もこれと似ている。

苦しんでいるのは、母だけではなかった。優希には妹がいて、とてもかわいがっていた。事件当時三歳だった次女の人生も過酷だった、と語る。事件について、はっきり親子で話し合ったことはなかった。だが、次女もまた、池田小に通ったので、毎年六月八日になると「祈りと誓いの集い」が開かれた。月命日になると、自宅にはたくさんの弔問客が訪れる。いつでも「優希ちゃんの妹」と見られ、「お姉ちゃんの分までがんばってね」と言われ続けてきた。次女はその期待に応えて、わがままを言わないとても良い子だったという。その姿がずっと気になっていた。次女が心を打ち明けたのは中学生の時だ。

「自分が誰だかわからない」「私が死ねば良かった」「私なんて生まれなければよかったんでしょう 」そして「寂しい」と泣いた。小さい頃から、両親は事件の話し合いや裁判のため多忙で、家にいないことも多かった。その間、次女は人に預けられ、孤独を感じていたという 。
p104

当時3歳ということは、10年間ためていた思いをやっと吐き出したことになる。このあと、優希ちゃんの妹は、(事件の印象と地名の結びつきが強い)大阪池田を離れて東京の学校に移り、元気を取り戻したという。

これが良い話、例えば「有名人のきょうだい」という認識のされ方だって煩わしいと思うに違いない。それが、悲しい事件に関することで、池田小の事件のように、毎年の行事で思い起こされ、記憶の風化も望めないのは本当に辛い。
勿論、災害で家族を亡くした場合も同様だが、被害者が多い場合と少ない場合では周囲の視線も変わってくるだろう。
さらに、小倉とも子さんについては、誹謗中傷の問題がある。「非難されないよう、化粧もせず、地味な服を着て、伏し目がちに話すようにした」という話などもあり、とも子さん自身が一番辛いが、家族が受けるダメージも相当なものだろう。

ただ、池田小事件のような明らかな犯罪被害者にも誹謗中傷は無縁ではないということにも驚いた。

「犯罪被害者は、運が悪い人、前世に何かがある人と感じる人もいます。そういう視線や無言の圧力を受けると、存在を否定されるような感覚になり、自分は生まれてこなければよかったのかもしれないと追い詰められることもあるのです」。事件直後、朝になると自宅の玄関が白いなと思ったら、何者かによって塩をまかれていた。それが毎朝続いた。夜中に「あんたが悪いから、子どもが死んだのよ」と何度か電話がかかってきて、電話を不通にしたこともある。「なんとなく暗い感じがしてね」と面と向かって言われたこともあった。  
p107

直接的に誹謗中傷を行うことは無い、と自信を持てれば良いが、万が一の場合がある。

今はネット社会なので、たとえば誤報リツイート*1や反射的なコメントで、意図せずに当人そしてその家族を傷つける可能性はいくらでもある。大規模災害や、大きな事件の被害者は、日々の暮らしも大変な中で、周囲からの視線に敏感になっているところもあるだろう。
想像力を持った対応を常に意識しておきたい。


本郷由美子さんは、次のように語る。

「グリーフというのは死別だけではありません。誰の身にも起こる当たり前のことで、日 常にいつもあるものです。それを皆が理解してくれたら、こんなに苦しむ人は減るかもしれない 当たり前にお互いが支え合って、かなしいと言えるようになってほしい」。 p106

「ひこばえ」とは切り株から出てくる芽を指す 。
「もう絶対に元には戻れない。それでも、違った形かもしれないけれど、ちゃんと生き直すことができるという意味を込めました。被害者がかなしみを手放すことも、加害者が贖罪の意識をもつことも、押しつけることはできません。自分でその可能性を見つけることのお手伝いができたらと願っています」
p110

本郷さんの言う通り、事件・事故の被害者だけが家族を亡くすわけでなく、誰もに等しく訪れることと考えれば、近くで不幸なことがあっても特別視をしないで自然に振る舞い、自然に支えることができるだろう。
なお、ここでは取り上げないが、死刑制度や受刑者教育に関する話題も非常に興味深かった。単著があるようなので、そちらを是非読んでみたい。

母の姿に正解はあるのか?「母は死ねない」のか?

多くの母親への取材を通して何を得たのか。

これについても、あとがきから長めに引用する。

子どもは母と一体化した相手ではなく、自分の思い通りにならない他者である。もどかしく、時に喜ばしく思いながら、そのことを心から知ることで、互いの人生を認めあう関係が築けるのだろう。それがどのような結末であったとしても。
その自明の事実に立ち戻ることが、母と子の呪縛から、あるいは力の不均衡から逃れられる唯一の手段ではないかと思った。
そして、母親たちが「かくあるべき姿」があると思いこむ背景には、それぞれの問題だけが存在するのではない。母も子も、社会からの視線によって自らを呪縛していた。母や女性、子どもに対して眼差しを向ける社会の方も変わらねばならないことを改めて感じた。
本書で出会った母たちの背中は一貫して、母は、人は、弱くても、不完全でもいいということを伝えてくれたように思える。
母であることの美化も卑下も必要ない、かくあるべき親子も家族もないことに気づく道程だった。


勿論、本書の中で河合さんが色々な思考を重ねた上で辿り着いた結論であり、ここに書かれていることは納得している。
しかし、通常なら入っているはずのキーワードが抜けていることが気になってモヤモヤしてしまう。
それは「父親」。


隠れて子どもを出産し、死なせた若い母親が罪に問われる事件がたびたび起きる。
このようなニュースを見れば、「なぜ母親だけが…?父親の責任は?」と感じる人が多いと思う。
また、ちょうど今年『射精責任』という本が出ているくらい、妊娠に関わる父親側の責任に焦点が当たっている時代でもある。

もちろん育児については、男性の育児休暇が(実際の取得状況は別として)よく取り上げられる状況にある。
このように(実践はどうあれ)多様性が叫ばれ、フェミニズム的視点に触れることが多い現代日本において、妊娠にしても、育児にしても、父親の存在について言及がないことは不自然に感じる。


ところが、この本には「父親」が、ほとんど扱われていない。言葉としても出てこない。

たとえば祖母~母~娘の対比で書かれた何編かは、内容自体が「母という呪縛」に引っ張られ過ぎている。
勿論、取材対象が、(起業している、著作を持つ等)エネルギッシュな女性であり、彼女たち自身、父親の協力を望まないというのもあるかもしれない。(小倉とも子さんがその典型だが)
しかし、何より河合香織さん自身の話の中でも、父親(河合さんの夫)は、最初に少し登場するだけで、その後はほとんど出てこない。


あまりに気になるので、全17編で父親がどう取り上げられているかを整理してみた。
取り上げられている母親を【】で記載、取材内容のキーワードを【】のあとに記載した。*2
【】の前の記号は以下の意味である。
-:父親への言及がない
×:離婚、DVなど、育児に負の影響がある父親
〇:育児に積極的、協力的な父親
△:父親の記載はあるが、登場するだけ
全17編を整理した結果は以下の通りで〇7、△4、×1、-5となった。

  • 母と生の狭間で:△【河合香織さん】出産後の感染症による入院。
  • ほんとうのさいわい:×【親友】脳性麻痺による障害。離婚。再婚後のDV。
  • 人生に居座る:〇【若い頃に旅で会った友人】AID(非配偶者間人工授精)。
  • 子を産む理由:〇【取材で出会った知人】遺伝疾患(二型糖尿病、先天性股関節脱臼)。
  • 風の中を走る:〇【古い友人(環境コンサルタントを設立)】娘の軟骨無形成症(小人症)。
  • 友ではない友:-【河合香織さん】2015年栃木県佐野市のママ友いじめ連続自殺。
  • 朝の希望:△【小倉とも子さん】小倉美咲ちゃん失踪事件。誹謗中傷。
  • 誰のせいでもない:〇【牧野友香子さん(デフサポ代表取締役)】聴覚障害。難病を持つ子。
  • 生まれるかなしみ:△【本郷由美子さん(グリーフケアライブラリーひこばえ)】池田小事件。グリーフケアのための絵本図書館。死刑制度の問題。受刑者教育。
  • 海と胎動:〇【塚原久美さん(中絶問題研究家)】大学生時代の2度の妊娠(中絶、流産)。30代後半で再婚後出産。母親と絶縁。
  • ただ家族として:〇【葉月さん】レズビアンカップル。AIDによる出産。
  • 不完全な女たち:-【河合香織さん】娘と保育所よしながふみ『愛すべき娘たち』
  • 母の背中:〇【志賀志穂さん】死産。里親制度、特別養子縁組。浦河べてるの家
  • 死を選んだ母:-【河合香織さん/子に手をかけた母親】河合さんの娘の病気の判明/遺伝性疾患で次男を亡くし、同じ病気が分かった三男の口を塞いで死なせようとし殺人未遂で有罪判決。その後、自死を選ぶ。
  • 何度でも新しい朝を:-【小倉とも子さん(2度目)】道志村山中で人骨が見つかって以後の取材。
  • その花は散らない:△【古い知人】50代での妊娠により命を脅かされる病気に。男尊女卑の父親。セックスワークと文筆業の兼業。
  • 花を踏みにじらないために:-【河合香織さん】小学1年生の時の痴漢被害。


「〇」がつくのは7つで、「-」(言及なし)が5つでそれに次ぎ、「△」(登場するだけで協力状況は不明)。「たまたま」と言うには無理があるほど父親への言及は少ないし、改めて読むと、不自然に露出を抑えて、「父親」の存在に気づかせないようにしているのではないか、とすら思えてくる。

確かに「母という呪縛」を強調したいのであれば、「父親」に目を向けさせないという方法は効果的かもしれない。しかし、この編集方針のため、(母親に向けて書かれたはずなのに)かえって「(母には)逃げ道がない」と感じさせる本となっていないだろうか。
河合香織さん自身が、自分の夫に目が向くことを嫌ったという可能性もあるが、最初に述べた通り、河合さんの誠実な人柄からそれは無いと信じたい。
もしかしたら、どうせ変わらない日本社会に嫌気がさし、男性の妊娠や育児に対する関与度は、今後どう「教育」しても良くならないと絶望しているのかもしれない。それなら最初から期待しない方が良いということで全編からカットしたという可能性もある。物理の試験での「摩擦」と同様に、子育て問題では「ただし、父親はいないものとする」が前提条件なのだろうか。


いずれにせよ、取り上げられているほとんどのケースにおいて「父親」が果たす役割がもっとある(あった)と思う。今回初めて知ってショックを受けた、栃木県佐野市のママ友いじめ連続自殺の事件もその一つだ。河合さんは「真相は分からないことばかりのこの事件にも、唯一確実なことがある。逃げればいいと人は簡単に言うけれど、母親たちに逃げることのできる場所など、きっとどこにもなかったということだ。」と書いているが、父親ができることがきっとあったはず。
それが出来ていないことで、母親が追い詰められるのであれば、もっと父親が責められるべきだし、本として取り上げない姿勢は、やはり不自然だ。もちろん、自分が男だからそちらに関心が向かうということもあるが、文庫化する際には、是非、父親に関する一章を設けてほしいと願う。

総括

昨年読んで大変勉強になった『日本の中絶』の著者である塚原久美さん、大好きなよしながふみ『愛すべき娘たち』も登場するなど、これまで読んだ本に関連する内容も多く、何より河合香織さんの著作だったにもかかわらず、モヤモヤの残る微妙な感想になってしまった。
ただ、河合香織さん自身が抱える問題意識を核にして、それに何とかケリをつけようと奔走する様子はスリリングだったし、いつも以上に誠実性を感じさせた。
文春デジタルの新連載を見ると、次は「長寿」がテーマなのだろうか。引き続き、河合香織さんの著作は追いかけていきたい。

bungeishunju.com

*1:今はリポストというようだが、全く慣れない

*2:ここはキーワード的を抜粋するような書き方をしているが、言葉選びが乱暴な部分がある。適宜直していきたい。